−8−

 春だ。
 今年は花が咲く。荒野はもはや荒野ではなく、昔通りの草原へ着実に戻り始めている。もともと枯れた大地ではないのだ。
 ああそういえば床から草が生えていたっけ、と思い出す。
 荒野を訪れた人間や動物が、その靴底や身体へと忍ばせていた草花の種が少しずつ芽吹いて、そうして大地は息を吹き返す。
 シロツメクサの何処までも続いている長い根っこが触れている。少しくすぐったい気持ちがするけれどきっと気のせいだ。
 もう少し。もう少し。多分今年。夏の前には。
 口を空けた胴体が土を被っている。その土に根付く草花。外れた手足。向こうの地面から端の覗いている鉄板は、多分腹だったもの。
 繋がっているのは背中の一枚の鉄板だけ。
 だからもう動けない。もうずっと前から動けない。
 手足が繋がっていたときから、動こうとは思わなかったのだけれど。
 ああ意外に長かったなあ、と蜂がぶんぶんと飛ぶ音を聞きながら考える。
 兄さんの血印は、多分ただの血の紋様ではなくなっていたのだ。血液が錬成反応の稲妻で焼き付いてしまったのだろうか。風雪に晒され雨に流され色褪せて掠れても、それでもまだボクはここにいる。
 ああでも、とアルフォンスは少し笑った。
 
 今年は多分。
 
 土の中のバクテリアが、ゆっくりと鉄のこの身を分解していく。
 長い根っこが錬成陣に触れている。
 濡れたその根が錆を呼ぶ。
 
 もう少し。
 夏の前には。
 多分。
 もう少し。
 
 あと少し。
 
 
 
 
 ああ。
 
 血の臭いがする。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 頬か背中か肩か解らなかったが、とにかくどこかをこっぴどく引っぱたかれた気がしてアルフォンスは思わず飛び起きた。否、飛び起きたつもりになった。
「アル」
 唐突に戻った視界の中で、顔を覗き込んでいた兄が微笑んだ。アルフォンスは兄さん、と呟きまじまじとエドワードを見つめる。
 酷く安堵したような、どうしようもないときに大人が「大丈夫だよ」と気休めを言ってみせるときのような、どこか歪んだなんだか心の篭らない、変な顔だ、とアルフォンスは思った。
 
 この笑顔には見覚えが、ある。
 たしか、この鎧の身体になって最初に眼醒めたときに、「ごめんな」と言った兄が見せた、
 
「兄さん!」
 今度こそ本当に飛び起き、アルフォンスは兄の肩を掴んで揺すぶり掛け、慌てて手を離した。どこか怪我をしているかもしれない。揺すったりしたら身体に響く。
 エドワードは安堵の笑みを浮かべたまま機械鎧の右手を伸ばしてアルフォンスの頭を撫で、よかった、と呟く。
 巡っていない血が音を立てて引いた気がした。
 猫の毛の残る自分の胴体の中を大慌てで見、背中の血印に変化がないのを認め、その正面、胸の真ん中にまだ濡れているそっくり同じ錬成陣を見て、動転したアルフォンスの視界はぐるりと回った。目眩がする、というのはこんな感じだったろうか、とどうでもいいことを考え、アルフォンスはわななく声で兄を呼ぶ。
「───兄さん!! どこか具合悪くない!? 手とか足とか………お腹痛くない!?」
 触れることすら恐ろしい、と言わんばかりに頑なに握った拳を胸の前に据えたまま、アルフォンスはエドワードの身体を見回し俯き加減で微笑んだままの兄へ「ねえ!」と叫んだ。兄の左手の人指し指が僅かに切られ、血が滲んでいる。
「何か言ってよ兄さん!」
 悲鳴のように言ったアルフォンスの眼の前を、白い手が宥めるようにゆっくりと振られた。アルフォンスははっと見上げる。放浪の魔術師は慈母のように微笑んだ。
『大丈夫、君の兄さんはどこもおかしくしてないわ。錬成する前に止めたから』
「コル………」
「失せろ」
 名を呼び掛けた弟の声を遮り、酷く冷たい声色で吐き捨てた兄をアルフォンスは見遣る。エドワードは俯き座り込んだまま髪を掻き上げ、憎々しげに続けた。
「さっさと消えちまえ。二度とオレたちの前に出てくんな」
「………兄さん? どうしたのさ、一体何を言って」
「お前は黙ってろ、アル」
 ぴしゃりと弟の言葉を切って、エドワードはふと顔を上げてその鎧の面を見た。表情からすうと険が抜ける。
「どこもなんともないか?」
「ぼ……ボクはなんともないけど………」
 黙ったまま漂っているコルネーリアと、放浪の魔術師を完全に無視することに決めたらしい兄とに交互に視線を向け、アルフォンスは首を傾げた。
「ボク、また気絶してた?」
「気絶ってか、オレを待ってる間に寝ちゃった感じだな」
「肉体があればの話でしょ」
 どうも二階への大きく長い階段へと座り込んでいたようだ。アルフォンスは記憶を手繰り、うん、と頷く。
「でもそうだね、寝ちゃってた感じ。兄さん来ないなーって、ここに座って待ってたとこまでは憶えてるし」
「そっか。じゃ、行くか」
「行くって、どこに?」
「街に」
「街って……」
 耳を澄ますまでもなく、外では未だ嵐が吹き荒れている。幾分か納まってはきたようで雷鳴は遠くなったようだが、それでもこんな中に出て行くなど愚の骨頂だ。鎧の自分はともかく、兄は確実に風邪を引く。なんのためにわざわざ雨宿りをしたと思っているのだろうこの兄は。
 そんな万感の思いを込めて、アルフォンスは恭しく発言をする。
「兄さん、馬鹿?」
「馬鹿とはなんだ馬鹿とは。兄ちゃんは真面目に言ってんだ」
「余計馬鹿」
「馬鹿馬鹿言うなー!」
 喚く兄を他所に、アルフォンスはゆらゆらと浮いているコルネーリアへと向き直った。
「コルネーリアさん。ボクが気絶しちゃう理由に心当たりってありますか?」
「アルフォンス。そんなヤツほっとけ」
「なんでだよ。原因が解れば安心してここで雨宿り出来るかもしれないだろ」
「理由は知らねぇけどこいつが原因なんだよ!」
 ぎらりと輝いたエドワードの眼に先程の険のある色が戻る。
「お前が寝ちまうのを知ってたからくだらねぇ話でオレを足留めしたんだ! そうなんだろ、コルネーリア!!」
 指を突き付けられた放浪の魔術師は、ふと苦笑に似た笑みを浮かべてくるりと回転した。
『うん、そうよ。あたしの仕業ではないんだけどね』
 ああでも間接的にはあたしのせいなのかしら、と呟くコルネーリアをほらみろ、と睨んだエドワードはアルフォンスの腕を掴んだ。
「行くぞ、アル! こんなとこにいられるか!」
「ちょっと待ってよ、兄さん。事情聞きたいよ」
「そんなのどうでもいい。お前殺され掛けた自覚あんのか」
「大袈裟だよ。ボクはそんなに簡単に死にません」
「おま───」
 アルフォンスはがしゃり、と片手を上げて兄を制した。
「そう造ったのは兄さんだよ。少し黙ってて。生体錬成のことだって訊かなくちゃならないんだし」
 ここで簡単に決別してしまうのは惜しい。
 苦虫を噛み潰したような顔のエドワードに、アルフォンスは首を傾げる。
「兄さん」
「………………」
「あのね、ボクは頑丈に造ってもらって感謝してるんだからね。この身体だからこそ出来ることはたくさんあるんだから」
「………………」
「勘違いしないでね」
「………解ってる」
 そう、と頷き、アルフォンスはコルネーリアを見上げた。
「理由、聞かせてもらえますか?」
『あたしが仕組んだわけじゃないから理由は解らないんだけどね、君、呼ばれたのよ』
「呼ばれた?」
 コルネーリアはゆっくりと糸がほぐれるように身体を伸ばし、吹き抜けのホールを仰ぐように両腕を伸ばした。
『ここの主と、ここに残ってしまった精神に』
 ほんの微かに、嗚咽のような声が聞こえる。嵐の音かもしれない。
 コルネーリアは囁くような声で続けた。
『いつまでも解放されない、人間の残像に』
「…………残像」
 そう、と頷き、コルネーリアはふと遠くを見る目付きになる。
 その瞳が赤々と輝いていたことに、アルフォンスは今更ながらに気付いた。
 
 ああこのひとももう人間ではなかったのだな、と、アルフォンスはそっと胸のうちで呟いた。

 
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■2004/5/7

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