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 古い臭いに鼻の頭に皺を寄せているエドワードの視線の下へ、光球はゆっくりと花弁が落ちるように降りた。
 罪人が蹲っているかのようだ、とエドワードは思う。
「………あれはなんだ? あんたみたいなのがまだいるのか」
『あたしみたいなのはあんたの弟だけね。………彼らは精神よ。かつて人間のものだった、精神』
 エドワードは眉を顰めてコルネーリアを見下ろし、口を開きかけ、少し迷って髪を掻き混ぜああもう、と呟いて階段へどさりと腰を下ろした。
「どういうことだ。精神のみで存在するなんてことが」
『あるのよ。……成長も学習もしない、ただかつての意志が焼き付くだけの剥き出しの精神だから、もう大分壊れてしまっているけれど』
 だからああやって、時折呻くばかりだ。成長も学習もない精神とは会話も出来ない。
『彼らは何も認識しない』
 エドワードは眼を逸らし、暗闇の向こうを見つめた。
「………そんなもんとアルを一緒にすんな」
『元人間の、人間ではないものという意味では同じよ』
「あいつは人間だ」
 コルネーリアが僅かに笑ったようだった。拗ねた子供を宥めるような笑みだ。
『まあ、今はそうなのかもしれないわ』
 コルネーリアは寄り添うようにすうと近付き、エドワードの懐へと移動した。唇から声が洩れているわけでもないのに、エドワードはその囁く息を感じた気がして僅かに顔を逸らす。
『ねえ、エドワード・エルリック。……アルフォンスをあたしに預けて行かない?』
「何馬鹿言ってんだ」
『悪い提案じゃないと思うわ。あの子をあの身体から解放するなにかいい方法が見つかったら迎えに来ればいいじゃない』
「却下だ」
『ちゃんと考えてみなさいよ、エドワード。………あんた、いつも怯えているんじゃないの? さっき、あの子が眼を醒まさなかったらあんたどうしてた? 外の世界にはあの子を脅かす脅威がたくさんあるんじゃない?』
 ねえ、と甘い女の声は続ける。
『ここならそんな脅威とは無縁だわ。………あんたが迎えに来るまで、あんたが死んだ後もなお、あの子をずっと守ってあげられる』
「んなことできるか。あいつをこんな何にもないとこに残してくなんて」
『あの子は人間じゃないわ。静かに長い時を過ごす方法なんてすぐに憶える。………ねえ、エドワード』
 ひたり、と胸に女の細い手が触れたような気がした。
『あの子が人間ではなくなってゆくところを、ずっと見守って行くのは辛いわよ』
「そんなことにはならない!」
『そうね、今はね。あんたも子供のようだから。けれどあんたは肉体を持った生きた男よ。ストイックなままで生きて行くことは難しいわ。大人になれば性差は顕著にあらわれる』
 ひたり、ひたりと手が上り、頬に触れた気がする。冷たくも暖かくもない感触は、まるで気温と同じ温度の水に静かに手を入れたときのようだ。
 感触があるようで、ないような。
『けれどあの子は大人にならない。子供のまま、男にはならない。時が止まったまま時を経ていけば、あの子はひとではないものになる。あんただけが年をとって行く』
「……………」
 ぎり、と奥歯を噛み締め無言のまま俯き、瞳を閉ざしたエドワードの胸に寄り添うように、光球は蠢いた。
『ねえ、エドワード・エルリック。外界と接触しないここでならあの子は時を感じない。あの子の魂は歪むことなく保存されるわ』
「…………、……そうか」
『そうよ。だから……』
 ゆっくりと、エドワードの生身の左手が持ち上げられた。右腕がコルネーリアを払うように優しく振られる。光球は擦り抜けたが、ゆるりとエドワードの懐を離れて距離を置いた。
 左手が暗闇を指差す。
 
「悪魔よ、退け」
 
 上げられた眼が、強く爛々と輝いてる。
『……………、……え?』
 ゆらり、と揺れたコルネーリアに、エドワードはふいににやりと人の悪い笑みを浮かべた。
「……って、言うんじゃなかったか、カミサマは? 堕落へ誘う悪魔には。まあオレは、とっくに堕落してるんだけどな」
『なに………』
 ふいに、弾けるようにコルネーリアが笑った。くるくると目まぐるしく動く光球のけたたましい笑い声にああうるせぇ! とエドワードは耳を塞ぐ。
『あは、はは! ご、ごめん、はは、そうか、堕落ね、うん!』
 コネルーリアはまだ笑みに引き攣る声で続ける。
『あの子を置いて行くことは、あんたにとっては堕落なのね』
 あの人間ではないものになってしまった弟を常に目の前に置いておくことが、背を向けた罪に対するささやかな罰。
『………そうか、うん、……そうね、目の前にあったほうがいいんだわ、ああいうものは』
「なに言ってんだ?」
 エドワードは頬杖を突いてふん、と鼻を鳴らした。
「オレにはあいつが要るんだよ。もとの身体に戻る方法だって、あいつと二人だから探せるんだ。………アルのためじゃねぇ。オレのためだ。オレがあいつを取り戻したいんだ」
 だから手放すわけにはいかない。
 僅かに沈黙が落ちた。コルネーリアが恐る恐る、と言った調子で口火を切る。
『え、なに、あんたたち、肉体を取り戻そうとしているの?』
 きょとんとエドワードが光球を見返した。
「………言ってなかったっけ?」
『聞いてないわよう!』
「そうだっけ」
 ぽりぽりと頬を掻いたエドワードに、なんだそれならもっと早く、とコルネーリアはぶつぶつと呟く。
『あたしに訊きたいことってそれ?』
「うん、まあ、そう。あんたの研究資料とか遺ってるんならそれも見たいんだけど」
『ないわ。黄金律の生体の錬成をする前に、万が一あたしが消えたときを考えて全部焼いてしまったから。あんなものを他人の手に渡すわけにはいかないわ』
「だよな。じゃ、せめて話だけでも」
『ダメ』
 エドワードの眼がぐっと吊り上がった。
「他のことには絶対に使わない! アルの身体を取り戻してやりたいんだ、頼むよ!」
『だから、ダメなんだってば』
「他の人間に洩らしたりもしないから!」
『そうじゃないのよ、エドワード・エルリック』
 放浪の魔術師は宥めるような声を出した。
『人体錬成はね、出来ないの。不可能なのよ』
「………なんで! 絶対に出来る! 真理にはそれが記されていた!」
『その真理を見た上で出したあたしの結論よ。───人体錬成は、絶対に不可能なの。たとえ賢者の石のような完全な物質の力を借りたとしても』
 ごく、とエドワードの喉が鳴った。瞬間、怒鳴り出そうとした少年の目の前を慌てたようにくるくると飛び、コルネーリアは続ける。
『あたしも真理の全てを見たわけじゃないのよ、魂を残したから。人体錬成は不可能でも、もしかするとまだ他の方法があるかもしれないでしょう? これから誰かが見つけるかもしれない。だからあたしは』
 未だにこんなところにいるのよ、と呟いたコルネーリアに、エドワードは口を閉ざした。
「………あんたも身体を取り戻したいのか?」
『あたしはいいの、このままで。三十一の年で肉体を失って、もう三十年か四十年は経っているのにおばあちゃんにはなれていない。あたしの中に詰まっているのはあのときのままのあたし。だからもう、今更肉体を手にしたとして、当たり前の人間に戻れるとも思ってはいないから』
「じゃあ、どうして」
 ふふ、と僅かに笑い、コルネーリアは答えずにすうとエドワードの頭上を越えて階段を昇る。
『行こっか。アルフォンスと合流するんでしょう?』
「…………ああ」
 エドワードは不審そうな眼で眺めたが、ただ頷いて立ち上がり光球の後を追って階段を昇った。

 
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■2004/5/3

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