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 がたんと椅子を鳴らして立ち上がり、ロイは慌てて部屋を横切り寝室の扉を開いた。
「アルフォンス君?」
 びくん、と震えた影はベッドの上ではなく床の上にいる。蹲りロイを見上げた眼は見開かれ、涙できらきらと光る様が野生動物のようだ。
「怖い夢でも見たか?」
 歩み寄り跪いて視線を合わせると、先程までしくしくと泣いていたアルフォンスはぴたりと口を閉ざし青い顔でじっとロイを見つめた。
「アルフォンス君?」
「…………兄ちゃんは?」
 囁く声はまだ震え涙につかえるのに、見た目の年齢に相応しいテノールだ。優しげで落ち着いた男の声。
「鋼のならばまだ仕事だ。明日の早い時間には帰ると言っていたから安心しなさい」
 アルフォンスは無言だ。瞬きもせずにじっと見上げてくる眼に、人形と対峙しているかのような錯覚を覚える。
「………兄に会いたいか?」
 思わずそう尋ねると、アルフォンスはほ、と息を吐いてふるふるとかぶりを振った。両手は胸へ引き身を縮めたまま俯く。
「お仕事、邪魔しちゃダメだから」
 小さな小さな声はまだ語尾が掠れている。
「………そうだな」
 頬に触れると細かに震えているのが解った。
 ロイは骨張った身体を抱き寄せ宥めるように背を撫でた。肩甲骨と背骨が目立って掌に触れる。
「君は偉いな」
 ぱちぱちと涙を弾いて瞬いた長い睫が耳元に触れた。
 ロイはゆっくりと背を撫で続ける。体温と鼓動に安堵するのか、震えが次第に小さくなって行のが解った。
「………眠れるか?」
 やがて時折引き攣るようだった耳元の呼吸が納まった頃、そう囁いてみるとアルフォンスはしばし逡巡してからそっとロイのシャツを握った。
 ひっく、とひとつ大きくしゃくり上げた声に、ロイは驚いてその顔を覗いた。
「アルフォンス君? どうした?」
「兄ちゃん……」
 どこにいるの、と呟いたアルフォンスの瞳が昏い。喘ぐように息を吸い、ぱちぱちと瞬いたその瞬間だけが焦点が戻る。
「アルフォンス君、エドワードなら朝になれば帰るから」
「………嘘」
「嘘じゃない」
「兄ちゃん………」
 会いたいよう、としゃくり上げる合間に洩れた言葉にロイは困惑する。
 僅かな間も離れていられないなどと言う話は聞いていない。大体彼は以前はエドワードと離れて病院に収容されていたのだ、それを考えれば有り得ないことだ。
 たった一晩が耐えられないなど。
 
 ───否。
 兄のいない場所にいるのか──アルフォンスのほうが。
 尋ねてはいけないという、夢の中で。
 
「アルフォンス君。ここは中央の君たち兄弟の家だ」
 ロイはアルフォンスの頬に手を掛け視線を合わせ、殊更ゆっくりと語り掛けた。
「君は自宅にいるんだ、他のどこでもない。列車で数時間行けば君の故郷にも帰れる、そういう場所だ。ほら、あそこに」
 ロイは最初にこの寝室を覗いたときに見つけていた、この無垢な青年を守るかのように壁際に佇んでいる騎士を示す。
「君を守ってくれていた、忠実な君の騎士がいる」
 鋼鉄の騎士は剣を佩くことも槍を持つこともなく代わりにチョークベルトを付けたまま、その巨大な外観に似合わぬ可愛らしい声と仕種をまだそこに留めているかのようにほんの僅かに首を傾げてロイとアルフォンスを見下ろしていた。
「あれがあるのだから、エドワードもちゃんといるよ。必ず帰って来る。解るだろう?」
 アルフォンスは鎧をじっと見上げ、ひっく、とひとつしゃくり上げて大人しくなった。ロイは掌で涙で濡れた頬を拭う。視線を返したアルフォンスの瞳には焦点が戻っている。
「大丈夫かね、アルフォンス君」
「はい……」
「眠れるな?」
「…………」
 ぎゅう、とシャツが握られる。ロイは仕方がないな、と微苦笑を洩らした。
「では及ばずながら、君の兄が帰るまで私が代わりに側にいよう」
 それなら眠れるな? と尋ねると、アルフォンスはようやく表情を緩めてこっくりと頷いた。
 
 
 
 ベッドに寝かし付け椅子を寄せて座ると当たり前のように手を握られた。
 いつもこうやって手を繋いで寝かし付けているのかあの兄は、と甘やかしっぷりに呆れつつ軽く握り返してやるとアルフォンスはえへへ、と笑う。
「しょーぐん」
「何だね」
「おやすみのキスして?」
 ロイは瞬いてアルフォンスを見た。アルフォンスは期待が裏切られるなど思ってもいない顔でロイを見上げている。
 あー、と呟き、ロイは暫し考えてからアルフォンスの前髪を撫で上げてその秀麗な額に口付けた。アルフォンスはもう一度えへへ、とはにかむように笑う。
「おやすみなさい、しょーぐん」
「………ロイでいい」
 アルフォンスはぱちぱちと大きな眼を瞬いた。頬にはまだ涙の跡は残るのにそのくりくりとした眼には恐怖や悲しみの欠片もない。
「将軍と発音しづらいんだろう? ロイでいい」
「ロイ?」
「そう。ロイ・マスタングと言うんだ、私は」
 アルフォンスはにっこり笑って頷いた。
「知ってます」
「そうか」
 握られた手が温かい。
「おやすみなさい、ロイ」
「おやすみ、アルフォンス君」
 アルフォンスは微笑を残したままぱたりと瞼を閉じた。頬杖を突いて眺めていると、そう待たずに規則的な寝息が洩れ始める。寝つきが良いのは安堵したためか、泣き疲れたためか。
 ロイは毛布をアルフォンスの肩へ引き上げ、再び頬杖を突いた。
 
 窓の外では猫の声。
 見つめているのは優しい騎士のやわらかな闇。

 
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■2004/6/6

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