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「………アルフォンス君。君は、」
 何を続けるべきか迷い、ロイは俯いたその顔を覗き込んだ。
「アルフォンス君、なのか? その、………かつて私の知っていた」
 冷たく厳つい鉄の棺に収まった魂ばかりの、永遠の少年だった。
 ふ、と上げられた瞳は子供のように大きく見開かれていて、アルフォンスはきょとんとロイを見つめた。一筋二筋と、白い頬に涙が流れたことにも気付いていない。
「? ボク、アルフォンスです」
「………それはそうなんだが。今言ったことを憶えていないのか?」
 アルフォンスは不思議そうに首を傾げる。
「けんじゃのいしは名前がいっぱいあるんです」
 知らないの? と無邪気に問うその顔に、ロイは戸惑いうーむ、と再び唸った。
「………憶えてはいるんだな」
 けれど理解はしていないのか。
 
 だがだとすれば、何故泣くのだ。
 
 もしかするとエドワードや自分たちが思うよりもずっと、アルフォンスは自らの記憶を理解しつつあるのかもしれない。
 ただ、時系列順に理解しているわけではないのだ。理解しやすいものから理解しているわけでも、多分ない。
 酷く心に焼き付いた強烈な記憶が前面に押し出され、恐らくこの無垢な胸のうちに嵐を渦巻かせているのだろう。幸いなのは、その嵐のほとんどを彼自身がまだ把握出来ていないということだろうか。
 それもまた、自分の幸せな思い込みなのかもしれないが。そうあって欲しい、という。
 ロイは溜息を吐き、アルフォンスの頬を首に掛けられていたバスタオルで挟んでごしごしと幾分か乱暴に涙の跡を拭った。
「まあとにかく、賢者の石は諦めなさい」
「えー!」
「えーじゃない。研究を続けるというなら兄さんに言い付けるぞ」
 アルフォンスは酷く驚いたような、非難するような眼を向けた。
「ずるーい! ダメだよ! 兄ちゃんにはナイショだって言ったのにー!!」
「だから諦めなさいと言っているだろう」
「ヤだーッ!!」
「騒ぐな、近所迷惑だ」
「ヤだったらヤだ! 造るーッ!!」
 
 ヤだじゃねぇ。
 
「こら」
 ぎゅ、と耳を引っ張り、ロイは強引にアルフォンスの顔を自分へと向けた。
「もう少し大人になって、『にんげんがたくさん必要』の意味がしっかりと理解出来て、それでも造りたかったらそのときはまず私に相談しなさい」
 アルフォンスはきょと、とロイを見つめた。金色の瞳に黒髪の男が映っている。なんとも慈愛に満ちた顔だ、とロイは我ながら呆れた。
「君がもうそれしか方法はないのだとそう言うのなら、そのときは出来る限りの協力をしよう」
 
 ────かつて、君の兄にそうしてやったように。
 
 アルフォンスは訝しげにロイを窺う。
「………兄ちゃんにはナイショ?」
「ああ、内緒だ」
「ほんとーに?」
「本当だ。子供に嘘を吐いてどうする」
「大人は嘘吐きだって兄ちゃんが言ってた」
 
 どうしてこうあの兄は余計なことばかり吹き込んでいるのだ。
 
 内心で苦々しく鋼の錬金術師を罵倒して、ロイはそんなことはない、と首を振る。
「少なくとも私は、君に嘘は吐かない」
「ほんと?」
「くどいぞ。信用したまえ」
 やや口調を強めると、アルフォンスははあい、と素直に頷いた。ロイはよし、とその金髪を撫でる。
「だから、大人になるまではそれは諦めてもっと別のことをしなさい。たくさん遊んでたくさん友達を作るといい。必要な知識なら、君のこの頭に詰まっているのだから」
 そうして多様な価値観を得て改めてこの金の眼の奥にある叡智を活かすときが来たのなら、アルフォンス・エルリックはかつて鎧であった頃の何倍も優れた知性と思考と理性を手に入れる。
 そこへ上手く着地させてやるのが、彼と彼の兄とに関わった自分たちの仕事だろう。ロイはそう決めている。
 なんとも面倒なことだが、エドワードを焚き付けこんなところまで走らせてしまった責任は果たすべきなのだ。
 ロイはもう一度わしわしとアルフォンスの髪を拭き、ぽんとその金髪に手を乗せた。
「さあ、もう寝なさい」
「えー」
「えーじゃない。子供は寝る時間だ」
 アルフォンスは不承不承と言った顔ではーい、と頷いた。
 
 
 
 アルフォンスを寝かし付け、持ち帰った書類を広げて眼を通していたロイは鳴った電話に顔を上げた。勝手に取ってもいいものか。しかし逡巡していては切れる。
 まあ留守番だしな、とロイは受話器を取った。
「はい、エルリ……」
『あ、将軍? オレオレ。アルは寝た?』
 名乗りもせずに忙しなく話すこの声は間違えようもなくエドワードだ。
「寝たよ。心配しなくていいから君はちゃんと仕事をしたまえ。私用で軍の回線を使うんじゃない」
『アンタほどどうでもいい私用じゃねーんだからいいだろ。休憩中なんだよ』
「私ほどとはどういう意味だ」
『デートの約束とか取り付けるのに電話使うって大尉が溜息吐いてたけど?』
 ロイは黙る。何故バレた。
『そんなんだからフラれんだよ』
 ひひひ、とエドワードが笑う。
「………何の用だ」
 そんなことをこの回線で発言するなこの馬鹿、と腹の中で罵倒しつつロイは溜息を吐く。だからアルだよアル、とエドワードは笑いを納めた。
『平気そうか? 起きて来たりしてない?』
「今のところはな」
 ロイは寝室への扉を見る。
「………毎日起きて来るのか?」
『毎日ってわけでもないけど、ときどきな。もし泣いてたら慰めてやって。夢の内容は問い質さなくていいから』
「悪い夢でも?」
『怖い夢だな。訊くと思い出してますます泣くから』
 エドワードはふっと言葉を切り、低く声を落した。俯くその顔が見えるような声だ。
『オレがいつでもいてやれればいいんだけど』
 酷く優しいその声は兄と言うよりは父親か恋人のようだ。ロイはブラコンめ、と口の中で呟き苦笑した。
「君はいつでも側にいるだろうに。あまり甘やかすと兄離れし損ねるぞ」
『いいんだよ、そんなもんしなくても』
 エドワードこそ弟離れ出来なさそうだな、と思いつつ、ロイは解った、と答えた。
「気を付けておこう。明日は午前中には戻るのか?」
『そのつもり。朝には帰りたいんだけどさ、まだちょっと見通しが立たないんだよな。でも終わり次第帰るから』
「解った。しっかり仕事したまえ」
『アルよろしくな』
 任せろ、と言って受話器を置き、ロイは再び書類を手に取る。機密書類はさすがに持ち出せないからかなりどうでもいい内容のものばかりだが、どうでもいいからと後回しにしまくっていたお陰でそれなりの量が溜まってしまっている。こういうどう考えても事務方で済むんじゃないかと思われる書類にまで目を通さなくてはならないというのは非効率的なんじゃないかと考えながら、ロイは読み終えた『西舎冬期暖房設備の増設について』にサインを入れ、次の『冬期休暇の縮小についての検案』を手に取る。休暇が減るなどと聞いたら発狂する部下が何人か出そうだ、と最近の激務を思いながら眺めていると、微かに子猫か子犬のような声が聞こえた。
 そういえばこの辺りは野良猫が多いとか言っていたか、と頬杖を突いてつらつらと文面に目を走らせながらロイはひとつ欠伸をした。細く聞こえる声はまるで人間の赤ん坊が泣いているかのようだ。発情期なのだろう。
 たしか猫の妊娠期間は3ヶ月程度だから今時期に交尾した猫の仔だとまだ寒い時期に産まれるな、生き延びるだろうかなどと考えていたロイは、啜り泣くようなその声にふと顔を上げた。
 
 ───猫じゃない。

 
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■2004/6/4

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