『アルフォンス君? ………何かあったか?』 無言に不穏を感じたのか、硬く低くなった声にアルフォンスは慌てていいえ、と返した。つい首を振るとがしゃ、と鎧が音を立てる。回線の向こうには酷く耳障りだろうその音に、アルフォンスは慌てて動くことを止めた。 「………あの、大佐」 『うん?』 「あの………すみませんでした」 『何がだね』 訝しげな声には探るような響きはない。ああ本当にこのひとは嘘が上手い、と考えて、けれどこの優しい声の裏側の好意を兄が疑る理由がよく解らなくて、アルフォンスは重く感じた肩を落とした。 「兄さんに聞いたんです。あの、………別れたこと」 『……………』 「それから、………あの、大佐が怪我してたときの」 沈黙があった。 それから重く重く吐かれた溜息が酷く憂鬱だったので、アルフォンスは視線を落とし夜の侵食を受け曖昧になっていく影を見つめた。 「すみません………」 『君が謝ることではないだろう。………あれはまだ気にしているのか』 「大佐は気にしてないんですか」 『君がどのように聞いているのかは知らないが、多分あれが話したそのままではないよ、事実はね』 「…………事実」 『気にするほどのことでもなかった、ということだ。だから君が気に病む必要もない』 「気にするほどの、って、え、でも」 アルフォンスは僅かに混乱した。気にするなと繰り返した声は変わらずに平静で穏やかで、その裏にあるものが嘘なのか真実なのか、それが読めない。 (違う) そうではない、のだ。嘘を吐いていても構わないのだ。 ただ気にするなと彼に言わせるそれが、慈しみであることを知っていれば、それで。 けれど兄はそれではいけないと言う。 「大佐、ごめんなさい」 酷く切なくなって、アルフォンスは回線の向こうの大人に言を次がせず続けた。 「我が儘言わせてください。そんなこと言える立場じゃないのは解ってるんですけど、でも」 『…………いいから、言ってみなさい。どうした』 「助けて」 意識せずに小さく掠れた声は、雑音混じりの電気信号に上手く変換されたのか、よく解らない。けれど大人は沈黙した。 『………何があった? 今どこにいる? 無事か?』 「セントラルです。……なにかあったわけじゃないです、大丈夫」 『では兄がどうかしたのか』 「………兄さんも大丈夫。さっきちょっと、喧嘩しちゃったけど」 『深刻な喧嘩か?』 「ボクが一方的に怒っちゃったって言うか、………でも、大丈夫です。すぐ仲直りします」 『………そうか』 ほ、と吐かれた息には安堵が込められていて、多分それは嘘ではない。もう恋人でもなんでもないあの兄の平穏を案じていてくれているのだと思うと少し嬉しくて、それが悲しかった。 「大佐。………兄さんを引き留めて」 『え?』 「引き留めてください。好きでいてくれてるんでしょう? だったらそう言ってあげて。あのひとはあなたが好きなんだ」 『アルフォンス』 「だって、そうじゃないとあのひと、全然幸せになんかなってくれない」 『君はどう聞いたんだ、その……別れの理由を』 「………酷いことをしちゃったから、別れるって」 『それは随分と端折ったものだな』 呆れたように苦笑を滲ませた声色に、アルフォンスは眼窩の光を瞬かせた。 「端折ったって?」 『アルフォンス君。君の兄は確かに酷く単純なところのある人間だが、それでもそれだけの理由で人間関係を断ち切るほど短絡的か?』 「……………」 『確かにそれが……それに関しての私の態度が原因のひとつではあるのだろうが、他にも様々な要因があるのだと思うよ』 だから、と言ってそれ以上は続けない大人の穏やかな声に、アルフォンスは静かに静かに、埃が積もっていくようにゆっくりと、どこか意識が重く薄暗く滑り落ちて行くのを感じた。 ────駄目、なんだ、もう。 この大人と兄はどこか酷く似ている。 彼らが一度決めたことに、アルフォンスは口を挟むことは出来ない。 蚊帳の外、だ。 繋がっていた糸が切れた気がした。泣きそうだったけれど、たとえ今泣ける肉体があったとしても、きっと涙は出なかっただろうとアルフォンスは思った。 「────大佐。ひとつ、訊いてもいいですか」 『なにかね』 アルフォンスは微塵も震えない穏やかな子供の声が空気を震わすのを不思議に思った。 「兄さんには言いませんから、ちゃんと答えて」 『答えられることならば』 「………あのひとを、好きですか?」 沈黙に動揺を見ることは出来なかった。いつかのように真っ赤に染まった耳も、額を抱えた仕草も、困惑げな、けれどとても嬉しそうだったあの空気もなにもかも、見てとることは出来なかった。 ああボクは電話が嫌いだ、とアルフォンスは思う。 視覚と聴覚しか残されていないアルフォンスの、外界を認識する手段の半分を否応なく殺してしまう。 「大佐。………愛してくれてますか?」 『……………、………好きだよ』 とても、と囁いた声が酷く酷く優しくて寂しくて、アルフォンスはかしゃり、と俯いた。 「…………有難うございました」 『アルフォンス』 呼び止める声が離し掛けた受話器から響いた。 『君のことも好きだよ』 「─────、」 アルフォンスは動くことを忘れた。呆然と立ち尽くしその唐突な言葉に意識を奪われ混乱する。 (どうして) 何故、そう言えるのだ。一言も言っていないのに。 誰かに愛して欲しいなど。 誰かを愛したいとさえ。 アルフォンスの心情を知るのか否か、大人は続けた。 『君の兄とは別に君そのものを、好ましいと思っているよ。私のところの部下たちもそうだろう』 「…………え、と」 『だから、早く兄と仲直りしたまえ。そしてもう気にするな。君がそこまであれの面倒を見てやる必要はないし、そのために君が苦しむ必要もない』 膝が萎えそうだったけれど、アルフォンスの意識とは裏腹に鎧の身体はぴくりともしなかった。 『またこちらへ来るときは連絡をしなさい。君からの電話も通すように言っておくから、司令部に掛けてくれても構わない』 「…………でも」 『鋼のは連絡を怠るかもしれんからな。君に頼んでおくよ』 突然来られると無駄足を踏ませるかも知れないだろう、と笑う声にアルフォンスは唐突に震えた。 ────このひとは、大人だ。 大人のひとなのだ。 けれど大人が寂しさを感じずにいるわけではないと、アルフォンスは知っていた。毎日きちんと畑を手入れして自分たち兄弟を育て笑顔で生活していた母でさえ、戻らない父をただじっと、寂しさを堪えて待っていた。 息子夫婦を亡くしたピナコは泣きじゃくるウィンリィを宥めながら涙を見せることなく淡々と葬儀を取り仕切っていた。 けれど彼女たちは寂しがっていた。悲しく思っていたのだ。決して無情なひとたちではなかった。 寂しさで足を止め蹲ることがなくても、その痛みは胸を苛む。 ああどうして、兄さんはそれを知らないのだろう。 「…………解りました。ちゃんと連絡します」 『そうしてくれると有難いよ』 「お休みなのにすみませんでした」 『予定があったわけでもないし、構わないよ。では、またな』 「はい、………また」 がちゃん、と受話器を置くと余った硬貨がじゃらじゃらとやかましく落ちてきた。それを一枚拾い指先につまみ、感触のないままにじりじりと指の間隔を狭めていくと鉄の硬さに負けた銅貨はぐにゃりと歪む。 宥めるような大人の言葉をアルフォンスは信じていなかった。兄がいなければ、彼らとは関わることもない。彼らがそれで寂しい思いをすることも、ない。 アルフォンスはじっと曲がった銅貨を見つめ、それから集めた硬貨ごとベルトポーチへと入れた。 兄が、このことで足を止め蹲ってしまうとは、思わなかった。 胸は痛んでもそのうちそれに慣れて、また前を見て走り出すことは知っていた。 ただ、ボクが。 (ボクが嫌だったんだ) 兄と二人、ただ二人だけで世界が構築されていくような、そんな認識の閉じた、螺旋ですらない環の中の安寧が。 他に誰も要らないと、お前だけを愛しているとそう言われることが。 それに安堵を感じてしまうことが。 ────ボクはひとではなくなってゆく。 加速度的に勢いを増して、次第に兄の思い出に、ただひとつの幸いに、子供の玩具のように、───ブリキの人形のように。 この閉じた世界の留め金を誰かに壊して貰いたかったのだと、世界が閉じていたのだと気付かされてしまった今だからこそ、解る。 誰かと繋がっていたかった。 兄ではない、誰かと。 誰かを愛していたかった。 それが兄の幸いへと繋がると、アルフォンスは信じていた。 エドワードを愛しているからこそエドワードではない誰かと繋がっていたいと思うことは、アルフォンスの中では矛盾しない。 (だけどもう無理だ) アルフォンスはエドワードの手を振り解くことが出来ない。 もうずっと、兄の手の内で、息もしない無機の身体で、掴むことの出来ない魂だけで。 いつか、形のない魂と感情に、兄が耐えることが出来なくなる日まで───ずっと。 ずっと。 |
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■2005/2/10 アルの病理。一心同体だと叫ぶのは兄で、けれど相手と融合し依存しているのは兄ではなくアル。
兄はアルの闇を知らずアルは兄に闇を見せていない。外界を知った後の閉鎖的な安寧への恐怖。
安定しない音叉は音叉の役割を果たさない。
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