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 兄の気持ちも解らないではなかった。
 
 がしゃんがしゃんと足音を鳴らしながら穏やかな歩調で夕刻の中央を歩きながら、アルフォンスは鎧の中で小さく溜息のようにふ、と声を洩らした。微かな振動にがらんどうの中の空気が僅かに渦巻く。
 もともと兄は(口はあれだけ達者な癖に)感極まると言葉よりも手が先に出てしまう人間だったし、アルフォンスとの喧嘩も怒りを抑えきれなくなったエドワードが反射的に飛び掛かり始まることが半数だ(残り半数は口で丸め込もうとする兄をアルフォンスがぶん殴って始まる)。
 だから、頭の線がどこかおかしなところで繋がっているらしい節のあるあの兄が、普通では考え付かない愛情表現を相手に叩き付けることはそれほど意外なことでもない(そもそも男を恋愛対象に選んでいる時点で当たり前の基準は当て嵌められない)。
 ただ、相手を酷く傷付ける───それこそ死に至らしめてもおかしくないほどの暴力は、たとえば自分や幼馴染みに対して振るったことは、なくて。
(………どうして大佐相手だとああなっちゃうんだろう)
 甘えているのだろうか、と考えて、それは少し違うのかもしれない、と思う。
 エドワードにとってあの年上の───兄とも父とも付かない立場の青年は、対等な(もしくは遙かに先にいる)人間なのかもしれなかった。自分や幼馴染みは兄にとっては多分、庇護すべき対象なのだ。しかしあの軍人はそうではない。
 だからこそ遠慮もなにもなく、噴き上げる感情のままに行動してしまうのかもしれなかった。そこにある肉を、身体で確認しなくては不安になるのだろう。
(だってボクにはそうできないんだもんね、兄さん)
 お前はここに在るのだと、力強く兄が肯定してくれるからアルフォンスはここにいる。けれど強く頷き不安の欠片もない顔で笑う兄の笑顔の裏に、焦燥が隠されていることをアルフォンスは知っていた。
 触れることができない、と、そのことが、兄を酷く不安にさせる。
 ────結局、エドワードは酷く現実主義で、物理主義なのだ。手に触れることの出来ないあやふやな全てを彼は酷く厭う。
(だけどさ、気持ちって手で触れられないものじゃないか)
 もう一度、疑似の溜息をもらしてアルフォンスはいつの間にか踏み込んでいた広場の、隅に置かれたベンチに腰掛けた。疲れたわけではなかったがこのまま考え事をしてながら歩いていたら疲労がないだけにどこまで行ってしまうか解らない。集中したときの兄ほどではないが、アルフォンスもそれなりに没頭はするのだ。
(………昔はそうでもなかったっけ……?)
 外界との接触が希薄になっている、のだろうか。
 ふとそう考えて、アルフォンスは周囲を見回した。夕焼けにオレンジ色に照らされた石畳の広場は、噴水が光を受けてきらきらとしている。行き交う人々はそのほとんどが足早に家へと向かう途中なのだろう。ざわざわと人混みの音がする。
 それを広い視界で、360度の聴覚で捉えているにも関わらず、なんだか全てが遠かった。
 そう認識した瞬間、ゆっくりと夜に呑まれるように明度が落ちる。ぎくりとしてまだ青さを残している空を見上げ、西へと視線を巡らすと、薄く張っていた雲が夕日を覆ったところだった。そこで初めてアルフォンスは少し風が出ていたことに気付く。
 ほ、と肩を落としてアルフォンスは俯いた。
 
 兄が、外界と繋がっていることが嬉しかった。
 
 好きなひとが出来た、と告げられたとき、アルフォンスにあったのは寂しさよりも驚きで(想像だにしなかった相手なのだから当然だ)、けれどその裏に僅かな安堵も感じたのだ。
 アルフォンスはエドワードを通して外界と繋がる。兄は否定するのだろうが、もうそれはどうしようもないことだとアルフォンスは思う。
 酷く不安定で、当たり前に考えるのなら生きていない、人間ではない───自分。
 それがこうして存在していられるのは全てエドワードのお陰で、だからこそ、兄に見捨てられてはアルフォンスはどこへも行けない。
 独りで立つことは出来ず、もしかすると存在すら、危うい。
 けれど兄が自分を愛してくれていることを知っていたしアルフォンスも兄を愛していたから、そのこと自体はそれほどのストレスではなかった。兄は決してアルフォンスを見捨てない。それは確信出来るし、万が一そうなったとして、きっとそれ相応の理由はあるのだろうから、そのときには仕方がないと諦める覚悟は決めている。
 
 ただ、不安なのは。
 あの兄が───決して自ら幸せになろうとはしない、と、そのことが。
 
 アルフォンスの無機の身体は兄への罰ではない。
 罪は自分たち兄弟二人に対等にあるが、罰に重さがあったとして、アルフォンスのほうがより重いそれを受けたとしたのならそれは、つまりは兄よりも遙かに力が劣っていたのだと───兄よりも遙かに愚かであったのだと、そういうことなのだ。
 なのにエドワードはその右腕を犠牲にし罪を重ねてまでアルフォンスを引き戻した。そして言うのだ。ごめんな、と。
 魂だけで精一杯だったよ、と。
 
 ───オレのせいだ、と。
 
(兄さんのせいじゃないのにね)
 それは全てアルフォンス自身の罪なのだ。愚者への相応の代価なのだ。
 けれどエドワードはそれを赦さない。全て自らの背へと負って、ただひたすらに、アルフォンスを───優しい思い出を擁護する。
(思い出を)
 き、と小さく鎧が軋んだ。動いたつもりはなかったが、小さな動揺に反応した鎧が僅かに指を蠢かしたようだった。
 
 もしか、して。
 エドワードにとってはもしかして、アルフォンスはもう、過去の遺物なのではないのだろうか。
 幸せは未来でも現在でもなく過去にあるのだと、兄がずっとそう信じていたことをアルフォンスは知っていた。だからこそ母を蘇らせようと躍起になったのだ。
 優しい世界は全て幼い日々の思い出に。
 
 ────兄にとって、アルフォンスは幸いだ。
 
 だがつまりそれは、もしかすると、昔の写真を大切に懐に抱くような、そんな感傷と同様の、
(───そんなわけない)
 ぶるぶる、と兜を振るとやかましく鉄が鳴る。側を通り掛かった女性がぎくりとアルフォンスを見、そっと足を速めて立ち去った。
(そんなわけない、兄さんは)
 いつでもちゃんとアルフォンスを見ている。そうして愛してるよアル、と笑う。必ず元に戻してやるから、もう少しだけ我慢してくれと。
 幸せは、きっと未来にあるのだと。
 
 けれどその都合のいい認識を信じ切れていない自分を感じ、アルフォンスは額を抱えた。
(………大佐)
 兄が、外界と繋がっていることが嬉しかった。
 あのひとに好きなひとがいることが嬉しかった。
 あのひとを愛してくれるひとが在ることが、とてもとても嬉しかった。
 
 エドワードは酷く警戒心が強く、自分や幼馴染みやその祖母や思い出の母や、故郷の愛しいひとたちの他の人間を、胸に抱き慈しむことを、しない。
 そのエドワードが思い出を共有していない人間に心を寄せてくれたことが本当に嬉しかったのだ。兄の総てである過去を共有しない人間を、今とこれからの可能性を、未来を、生を愛したことが。
 それはそのままアルフォンスのがらんどうの身体へと響く。
 未来の可能性はアルフォンスに光をもたらす。
 
 ああ、でも、それも。
 
(大佐)
 もうおしまいなのだ。兄はもう、幸いを得ようとはしないだろう。
(助けて───誰か)
 兄を、自分を。
 
 悲鳴のように呟いて、アルフォンスはふと視線を上げた。広場の隅に、二つ並んだ公衆電話がある。
 ふいに思考に兄の手袋に包まれた指が閃いた。
 随分と以前に一度だけ、エドワードが恋人の自宅へと電話を掛けたことがあった。そのときの指の動きを、そのリズムまでもを、アルフォンスは正確に記憶していた。
 ベルトポーチに触れる。ちゃり、と硬貨の音がする。
 アルフォンスはふらりと立ち上がり、ほとんど意識せずにゆっくりと、電話へと歩み寄った。無人だ。これだけの人混みの中、そこだけがぽっかりと、瞬き灯った街灯に照らされて静かだった。
 ベルトポーチに手を入れる。ちゃりちゃりと鳴る音と指先の振動を頼りに硬貨を掴み出し、アルフォンスは電話の上に積んだ。硬貨を入れ過ぎて財布を壊すのが嫌で買い物の度に無造作に突っ込んでいた釣り銭は思ったよりも多くて、東部に掛けても充分に間に合いそうだった。
(………仕事だよきっと)
 いない、だろう、自宅になど。
 そう考えながら、アルフォンスはあのときの兄の指のリズムを正確にトレースし、ダイヤルを回した。じじ、と小さくノイズが入る。コール音が響く。
『………はい』
 五度鳴らして出なければ切ろう、と決めた瞬間、三度目のコールで空洞に響いた馴染みのある声に、アルフォンスは一瞬絶句した。
『もしもし?』
「あ、」
 小さく呟いた途端回線の向こうで僅かに気配が動いた。姿勢を正したような身を乗り出したような、そんな気配だ。
『アルフォンス君? どうした? よくうちの番号を知っていたな』
「あ、前に兄さんが掛けたの見てたから、憶えてて………あの、すみません、お休みだったんですよ、ね」
『休みでよかったよ。留守にしていたら出られなかった。どうしたね?』
 穏やかな声は酷く優しくて、ああこれほど優しい声でアルフォンス、と名を呼んでくれるようになったのは多分彼が兄と付き合い始めてからのことだ、と考える。
(でもいいんだ)
 兄の付属品で構わなかった。兄を通して認識してくれているのでも、それでもよかった。
 兄を通して外界と繋がる、その細い糸が、アルフォンスには必要だった。

 
 
 
 
 
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■2005/2/9

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