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「あーあ、イーストシティにとんぼ返りだね、兄さん」
 宿に戻るなりふー、と溜息に模した声と共に言ったアルフォンスに、エドワードは怪訝な、と言うには鋭すぎる視線を向けた。その素早い反応にアルフォンスはきょとんと兄を見下ろし僅かに首を傾げる。
「………どうしたの?」
「何でイーストシティに戻らなきゃねんだよ。昨日出て来たばっかだろ」
「だって」
 何故兄がこれほど不機嫌なのかも解らず、アルフォンスは更に深く首を傾げる。
「銀時計だけじゃ見せてもらえなかったじゃん、あの閲禁図書。推薦状がいるんでしょ? 中央司令部に推薦状書いてくれるひとがいるならともかく、ボクらの知り合いで偉い人って大佐くらいじゃない」
「…………けど書いてもらってもすぐに中央に戻って来なきゃねーんだし、なんか他の方法………ああ」
 ぽん、と白々しい笑みを浮かべて手を打ったエドワードに、アルフォンスは不審げな視線を向け首を傾げたまま続く言葉を待った。
「ほらあれだ、いるって知り合い」
「誰」
「ヒューズ中佐。あのひとの推薦状なら充分有効だろ?」
「ったって、そんなに親しいわけでもないのに悪いよ」
「一日無駄にするよりゃいーだろ」
「もう夕方じゃん……あのひと軍法会議所でしょ、勤め先。毎日定時で帰れるじゃん。大佐たちと違って夜勤で詰めてたりしないでしょ」
 それよりこれからすぐチェックアウトして東部行きの夜行の空きを探せば明日の朝にはイーストシティだし、すぐに推薦状を書いてもらって午前中に列車に乗れば夕方前にはこちらへ戻れるのだし。
「そうすれば上手く行けば明日中に見れるかもしれないじゃない」
「明日の朝イチで軍法会議所に行ったほうが早ェだろ」
「面会の手続きでどんだけ掛かると思ってんの。下手したら後日またおいでくださいとか言われるかもしれないよ。いくら銀時計があったって、ボクら軍法会議所そのものには伝手ないんだよ?」
 けど、とまだ渋る兄をアルフォンスはじっと見つめた。
「………なんだよ」
「兄さんもしかして、……大佐と喧嘩でもした?」
「してねーよ」
 即答だ。
 ますます怪しい、と眼窩の光を薄く絞り、アルフォンスはベッドを指さした。
「座って」
「なに」
「いいから座ってってば」
 我が儘な子供そのものの顔でむくれながらベッドへ腰掛けた兄へと視線を合わせるように床へと正座し、アルフォンスはかしゃん、と首を傾げる。
「で、どうしたの。何か言われた? それとも言った? 大佐が一方的に怒ってるから会いたくないってことじゃないよね? また兄さんなんかした?」
「またってなんだまたって」
「だっていっつも兄さんが勝手に何かして勝手に怒って勝手に出て来ちゃうんじゃん」
 そう言えば昨日も様子がおかしかったのだ、とアルフォンスは思い返す。
 恋人の家へと行っていたはずなのに珍しく昼前に帰って来た兄はどうも長時間外をほっつき歩いていたようで、どこかくたびれた様子だった。いつものように逢い引きの様子を嬉々として捲し立てることもあいつむかつく、と喧嘩の一部始終を聞かされることもなくて、毎回その惚気話に頭の痛い思いをしている弟としてはそれはとても有難かったのだけれど、今思えばそもそもそれがおかしかったのだ。
 結局その後も東方司令部に挨拶に寄ることもせずに、まあ用も済んでいるからいいか、とアルフォンスは兄の言うままに中央行きの列車に乗ってしまったのだったが。
 いつもならぎゃあぎゃあと反論するはずの兄は無言だ。
「………ねえ、どうしたの? もしかして怒らせたの? 大丈夫だよ、大佐はもう怒ってないよきっと。心配ならまず電話してみて」
「怒らせてなんかない」
「じゃあやっぱり兄さんが勝手に怒ってるんだ?」
「怒ってもねーよ」
「じゃあなんなの。大佐に会いたくないってことじゃないわけ」
「……………。……会いたくはない」
「なんで」
「…………昨日の今日じゃまだ気まずい」
「なにが」
「………………。………別れたから」
 俯く兄をアルフォンスはぽかんと凝視した。開く口があったなら、顎が外れそうなくらいみっともなく口を開けていただろうと思う。
「────嘘!」
「嘘ってなんで」
「え、だって───に、兄さんあんなに大佐のこと好きだったじゃん! え、や、ていうか、ふ、振られたの!?」
「振られてねぇよ」
 オレが振ったんだ、と顔を上げず淡々と言うエドワードに、アルフォンスは今度こそ仰天してがしゃんと鎧を鳴らし身を乗り出した。
「なんで!? 大佐のこと嫌いになっちゃったの!? そんなわけないよね!?」
「…………なんでそう断定形なんだお前」
「だって兄さん絶対ずっと大佐のこと好きだもん!」
「なんで解んの」
「兄さんのことなら解るよ!」
 ふっと上げられた金の眼が少しばかり驚いたように、その眉が緩やかに下げられたことに気付かないままアルフォンスは詰め寄る。
「ね……ねえ、どうして? そんなに凄い喧嘩したの?」
「だから、喧嘩はしてねーって」
「だって、じゃ、どうして?」
 半泣きのボーイソプラノにエドワードは再び俯き、ベッドから滑り降りて膝を抱えて床に座り込んだ。
「………兄さん?」
「軽蔑していいぞ」
「え?」
「オレ、いつも大佐のことはお前に全部話してたけど、ひとつだけ言ってないことがある」
「………なに?」
「………前に、テロリストを捕まえたときにさ、失敗したことがあっただろ」
「うん………」
 酷く惨めで、無い心臓の痛むような失態だった、とアルフォンスはふと俯いた。ベッドへ寄り掛かる兄の隣へと移動して、同じように膝を抱える。
「………お墓参り、また行かなきゃね。この間は全然……」
「気にすんな。お前のせいじゃない。……思い出させたいわけじゃないんだ、アル。忘れろ」
 忘れられるわけがない。自分たちのために何人もが命を落としたのだ。もっと上手くやっていれば軍人たちは誰も死なず傷付かず、自爆したテロリストだって、たとえそう経たずに死刑台へと送られる運命だったにしても、命を拾うことが出来ただろうに。
 けれど兄に思い出させたいわけでもなかったから、アルフォンスはただうん、と頷いた。エドワードは無表情に空を見つめている。その横顔が白い。
「そのときにさ、オレ、大佐に、…………凄い酷いことして」
「酷いこと………?」
 エドワードはじっと口を噤む。瞬きをしないその横顔を眺め、アルフォンスは記憶を手繰った。
 確かあのとき、アルフォンスへと宿へ帰れと告げ、兄は司令部に残ったのだ。資料室を見て来るよ、と言った兄は結局翌朝になっても戻らなくて、多分怪我をしたというマスタング大佐に会って付き添っていたのだろうとアルフォンスは勝手に察していて、昼を過ぎてから戻って来た兄がしばらくの間は東部にいる、と告げた時も、ただうんと頷いただけだった。
 そのときの、兄の酷く申し訳ないような、悔いるような顔を憶えている。
 エドワードは言ったのだ、ごめんな、と。こんなことで、オレたちの足を止めるわけにはいかないのにな、と。
 自分たちのせいで亡くなったひとたちの墓参りをしたいから残るのだ、と、その理由はアルフォンスには酷く最もに思えたから、兄がそんな風に謝罪するのがよく解らなくて、だから首を傾げて見せたのだったが。
「───お墓参りで残ったわけじゃなかったの……?」
 察しのいいアルフォンスの言葉に、エドワードの肩がぴくりと震えた。アルフォンスはじわり、と魂の奥底へと広がる嫌な感触に眉を顰めたい気分を味わいながら、じっと兄の横顔を見つめた。
「なに、したの、兄さん。大佐、あのとき大怪我してたんでしょう? ボクが会ったときって何日か経ってからだったけど、でも包帯もまだ全然取れてなかったし、顔色も凄く悪くて熱も全然下がってなくて、でも中尉とか少尉も結構怪我酷かったのに出て来てるしとか言っててさ、………あのときも兄さん黙ってたんだよね、そう言えば。いつもなら休め休めって絶対騒ぐのに」
「……………」
「……なにか言ったとか?」
「いや」
「じゃ、なにしたの。………また殴ったりした?」
「いや、……もっと酷いこと」
「もっとってなに」
 酷く逡巡した様子で再び黙り込んでしまった兄のつむじを見下ろし、アルフォンスは思考を巡らせた。けれど言葉でないとするなら、怪我人を殴り付ける以上の非道はアルフォンスには思い至らない。
 言葉でも暴力でもないとするなら、なんだ。
「兄さん。………そんなに言いにくいこと?」
 そういえばこの兄は、あの恋人を理不尽に殴り付けたそのときでさえ、物凄く傷付いた顔でしっかりとアルフォンスへと報告をしてきたのだ。その兄が今まで沈黙を通していた、言えば軽蔑されそうな、こと。
「兄さん、解んないよ。良くないことをしたって兄さんが思ってるっていうのは解ったけど、それしか解んない。それに大体、そのことが別れた原因だって言うなら、なんで兄さんが振るわけ? 大佐に酷いことを兄さんがしたんでしょ? 大佐がそのせいで兄さんを嫌いになったならともかく、兄さんから振る理由が全然解んないんだけど」
「…………だってあいつ、気にしないって言うんだ。そんなわけないのに」
「………………。……許してもらって何が不満なんだよ」
「気にしないわけないんだよ。………もし本当に気にしてないなら、それは絶対おかしいんだ。あんな───簡単に許していいことじゃない。もっと怒るべきなんだ。それこそ、………殺されてもおかしくないくらい、のことを、したのに」
「こ、殺される?」
 エドワードは小さく頷き、俯いた顔を歪めた。
「────あいつ、オレといるとどんどん駄目になってく」
「……………」
「あんな風に許して欲しくなんかない。もっとちゃんと、………あんなに、オレに気を許すなんてあっていいことじゃない」
「………兄さん」
「オレ、」
 ひとつ、呼吸の音がした。エドワードは顔を上げ、じっと正面へと視線を据えて絞るように、呻くように低く続けた。
「────大佐を犯したんだ」
「………犯すって」
「強姦したんだ、無理矢理。凄い怪我してたのに。………資料室で、誰が来るかも解んなかったのに」
 意味が繋がるまでに数瞬を要した。
 アルフォンスは忙しなく眼窩の光を瞬かせ、兄の言葉を全て掻き集めて再構築し直した。
(つまり、酷いことっていうのはそれで、大佐はそれを簡単に許してしまったってことで、)
 
 ────あれ、でも。
 
「だ、ったら、兄さん、どうして兄さんが振るんだよ」
 エドワードの力のない視線がゆるりと動き、アルフォンスを仰ぎ見た。アルフォンスは僅かにひび割れた声で続ける。
「大佐がそれで兄さんに怒って、もう付き合っていられないって、そういうのなら解るよ。でもなんで、それもこんなに経ってから───兄さんが」
「だから、オレといるとあいつ駄目になるんだ」
「駄目って」
「だっておかしいだろ、オレだって振られたほうが楽だった。殴られたりとか燃やされたりとか、そうされて当たり前だったのに、あいつ、」
「ちょっと待って。それって責任転嫁って言うんじゃないの」
 ふいに鋭く険を帯びたアルフォンスの言葉に、エドワードははっと弟を凝視した。鎧の面に表情は現れず眼窩の赤光は薄く瞬くばかりだが、弟が気配のように、僅かに怒気を立ち上らせていることに息を呑む。
 アルフォンスは一瞬強く怒気を膨れ上がらせ、それからゆっくりと、息を吐くように気を逃がした。
「─────まあ、そういう理由なら、なんで兄さんから振るのかはよく解んないけど、でも別れて正解かもね」
「…………アル」
「だってそうじゃん」
 アルフォンスは低く続けた。
「大事なひとを大事にできないのなら、近くにいる意味はないよ。恋人なのに大事に出来ないんなら、兄さんは大佐といないほうがいい」
 
 大切なひとをただ傷付けるばかりなら、相手にとって凶器でしかないのなら、そんな恋は。
 
「…………兄さんは、大佐に甘え過ぎてる」
 エドワードは僅かに視線を落とし、薄く自嘲した。
「そ、だな」
「解ってないよね、兄さん。兄さんが思うような甘え方じゃないんだよ。そういうんじゃない。………兄さんが苦しんで選んだって思ってるその選択自体が甘えてるって言ってるんだ」
 アルフォンスはやもすると荒げそうになる声を低く押さえつける。膝に押し付けた拳がその気を逸らし損ねて僅かに震えた。
「大佐が兄さんを許してくれるのは兄さんを好きだからだ」
「それは、」
「その気持ちが兄さんにとって不本意だからって、兄さんがそれを責めるのは間違ってる。兄さんのすべきことはそこで大佐を切り捨てて自己嫌悪に逃げることじゃなくて、きちんと反省をして、謝ることだ。大佐が簡単に許してくれたっていうなら、もっと責めて欲しかったって思うなら、その罪悪感をひとりで耐えるべきだったんだ」
「…………アル」
「酷いことをしたって思っているのなら、兄さんが苦しいのは当たり前なんだ。大佐が兄さんの罪悪感を宥めてくれなかったからって、あのひとがそれを責められるのはおかしいよ。兄さんのしたことはただの自己満足だ」
 一気に捲し立て、零れそうなほど瞠った眼で見つめる兄を見返して、アルフォンスはでも、と小さく首を傾げた。不自然なほどに声が明るく晴れる。
「もう遅いよね、どう言っても」
「……………え、」
「だって兄さんは決めて来ちゃったんでしょう? 大佐とさよならしちゃったんだよね? じゃあもうボクが何言ったって駄目なんだ」
「アル、」
「でもよかったと思うよ、そんな酷いことするひとなんか恋人でもなんでもないもん。兄さんはもう大佐には触んないほうがいいと思うな。だって酷いことしちゃうんでしょ? ───だから、兄さんはもっともっと反省するといいと思うよ、独りでさ」
 白々しいほど明るく言い切って、アルフォンスはがしゃり、と鎧を鳴らして立ち上がった。
「アル、どこに」
「出掛けてくる。散歩。………戻るまでに少し考えといて。東部に行くのか、明日ヒューズ中佐に駄目もとで頼みに行くのか」
「………………」
「別に意地悪言うつもりじゃないけどさ、だって『こんなことでオレたちの足を止めるわけにはいかない』んでしょ?」
 声色を真似て繰り返された言葉がいつかの自分の言葉だとエドワードが気付いたとき、アルフォンスは静かに扉を閉め、がしゃんがしゃんと鉄の足音を響かせて出て行った後だった。

 
 
 
 
 
>>2

 
 
 

■2005/2/8
音叉。殷々と安定した振動音をもたらす。

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