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 ほとんど前後不覚のまま無理矢理犯したときのことを、エドワードは忘れてはいない。ロイが忘れたとしても忘れないだろう。
 
 それが、恐怖の記憶である以上。
 
 酷く、恐ろしかったのだ。後悔と自らへの憤りが暴力に転化されてしまう自分の中の獣も、それをあっさりと赦してしまった大人の底の知れない眼の色も。
 表層上、ロイはそのことは大して気にしていないように見えた。だが、もしかすると、本当は。
「……なあ、大佐」
「なんだ」
「オレとセックスするの、怖い?」
 ロイは一つ瞬き、エドワードを眺めた。
「なんでそうなる」
「だってアンタオレとした後って吐いてんじゃん。気持ちよくないんだろ?」
「前と変わらんよ。たまたま疲れていただけだろう」
「今日も気分悪くなったんじゃねえの?」
「大したことはない」
「……だからさ、ちゃんと断れよ。仕事もあるしさっき散々して具合悪いんだって、ちゃんと言え」
 抱き締める腕が掴まれ、緩んだ腕の間からロイが見上げた。暗闇色の眼は夜に馴染み、ただでさえ感情の色を見せないその眼は死んだ魚のそれよりも暗く凝り、真意は読めない。
「鋼の」
「………あんまりオレを甘やかすなよ」
 言った途端後悔した。
 エドワードはロイを押し遣り、寝台の反対側から床へと降りる。
「厳しくして欲しいならそうするが」
「…………それが甘やかしてるっつーんだよ」
 背を向けたまま衣服を拾い袖を通す。ロイは黙って眺めていたが、上着の止め具を掛け、ブーツを拾うに至ってようやく小さく溜息を吐いた。
「どこに行く気だ」
「帰る」
「……せめて夜が明けてからにしたまえ。憲兵に捕まるぞ、未成年」
「捕まんねーよ」
「誘拐でもされたらどうする」
「誰がされるか!」
「鋼の」
 宥めるような声色がささくれた神経に触る。
「何を不貞腐れているんだ」
 エドワードはロイを顧みた。水の底のように僅かに青く色を変え始めた空気に、白い面とシャツが浮かぶ。覗く鎖骨が妙にくっきりと夜気の濃い影を映し、エドワードはブーツを引っ掛けたまま寝台へと乗り上がり、ロイに嫌な顔をさせた。それに構わず詰め寄り肩口へと顔を寄せ、その首筋へと鼻面を擦り付けるように顔を埋める。
「………なあ、大佐」
「なんだ」
「食べていい?」
「なにを」
「アンタを」
「散々喰ったろう」
「セックスじゃなくて」
 僅かに熱を感じる頸動脈に薄く口付け、エドワードは囁く。
「言葉通りの意味で」
 言葉が終わらないうちにぐいと額を押し遣られ、エドワードはじっと大人の渋面を見上げた。
「ふざけたことを言うんじゃない」
「ふざけてねぇよ。……なあ、いいだろ?」
「却下だ」
「なんで」
「君に命までくれてやるつもりはない」
「そう? 割とくれてるような気がすんだけどな」
 まあいいや、と笑い、エドワードは身を起こして脱げ掛けたブーツに足を納め直した。
「建て前でもそう言えるんならいいや、まだ」
「言っている意味が解らないんだが」
「解れよ、それくらい」
「解って欲しいならきちんと説明をしろ。会話することを怠ると大抵の人間関係は破綻する」
 
 ────破綻。
 
 エドワードはひたと恋人を見つめた。
 
 破綻、なら。
 
(もうしてんじゃねーの)
 静かに自分を見つめる大人のその感情を窺い知れない深い穴のような眼にあるものが、愛情───だと、いうの、なら。
 そんな、ものは。
 
(………いらない)
 
「送って行こう。少し待て」
 無言で視線を逸らし立ち上がったエドワードに溜息を吐いたロイに、子供はふいに唇をつり上げ笑った。
「鋼の、」
「ん、ごめん。なんでもない」
「何でもなくて急に笑うな。………やっぱりおかしいぞ、君」
「オレはいつもおかしいよ」
 軽い口調で言った途端素早く伸びてきた腕が肩を掴み、強引に半身を返させた。無表情の中、薄く明度を増していく窓からの青い光に黒い目を石のように光らせて、ロイはエドワードを見つめる。
「なに?」
「それはこちらの台詞だ。何なんだ、一体。何があった?」
「なにもないよ」
「嘘を吐くな」
「本当だって。────アンタがなかったことにしようとしていることならあったけど」
 怪訝そうに眉が顰められる。その顔を薄く嗤いながら眺め、エドワードは続けた。
「資料室でさあ、滅茶苦茶しちゃっただろ、オレ」
「………まだ気にしていたのか」
「しないわけがねーだろ」
「気にしなくていい。あのときの君は随分と混乱していた」
「そういう問題じゃない」
 ふいに語尾が震える。エドワードは震えを隠しきれなかった息をごくりと唾とともに飲み込み続けた。
「解ってんの? アンタ、あのとき、───いや、あのときだけじゃなくて、いつオレに殺されてもおかしくないんだけど」
「そう易々と殺されてやるほど耄碌はしていないつもりだが」
「足開いて身体ん中掻き回されて、怖くないわけだ」
 ふと眉が寄せられた。エドワードはその渋面を見上げ、唇を舐める。
「アンタがあんまり甘やかすから、オレ、なんだか段々解んなくなってきた」
「……なにが」
「境界が」
「何の境界だ」
「アンタとオレの」
 鋼の腕を伸ばし、シャツの上からしっかりと筋肉のついた硬い腕を掴む。そのままぎ、と軋むほどに力を込めると、ちらりと苦痛の色を浮かべたロイが機械鎧の手首の関節を軽く捻るように掴んだ。それだけでふと握力が緩み指が剥がれ、エドワードは目を瞠る。
「────なに、これ」
「機械鎧も人体も同じだ。必ず急所がある」
「え、」
「君の機械鎧は動きの制限が少ない分、その急所の覆いが少ない。剥き出しの靱帯を捻ったようなものだ。不具合は出ないはずだが、何か問題があるようなら整備士に相談しろ」
「な………、」
 ロイは薄く嗤って驚愕の色を浮かべるエドワードの顎を軽く指ですくった。
「耄碌はしていないつもりだ、と、言っただろう。………もっとも、君が錬金術を使ってセックスの最中に私を殺そうとでも言うのなら、無傷で防ぐ自信はないがね」
「………殺されない自信はあるっての」
「子供の殺気くらい読める」
「子供扱いかよ」
 ロイは瞳を細め、もう一度エドワードの顎をすくうようにくすぐって身を屈め額に唇を触れた。
「君が獰猛だということは知っている」
 額の上で唇が呼気と共に囁きを落とす。
「猛獣使いには猛獣使いなりのやり方があるものだ」
「………あんまり上手い喩えじゃないな、それ」
 くく、と笑みに息が震えた。
「まったくだ」
 まったくだ、とロイの言葉を胸のうちで復唱して、エドワードはわずかに瞑目した。
 
 ………まったくだ。
 こうやってまた、こいつはオレを赦してしまう。
 
 宥めて慰めて、子供の心の平穏を、精神のバランスを満たすその役割をほとんど無意識に買って出てしまうこの苦労性の大人の慈悲に近い感情は、何を起因にするのだろう、と、エドワードは考える。
 
 決して───無闇に博愛精神を持つ男ではない。
 その懐は深いが間口は狭く、彼の懐へ飛び込むことは容易ではない。それは直属の部下たちにあれだけ慕われながら、それでもたった数人しか腹心と呼べる人間がいないことからも解る。
 けれどその数人の部下たちを、そして最大の理解者、最愛の親友を、この男は深く深く愛しているのだ。そしてその掌に強く握り込んで、決して離そうとはしない。
 彼らはこの男に握られていることを選び、この男はそれを許し、そうして無防備な背を向け合って立っている。
 
 けれど、それでいい。
 
 孤独に弱い男だとは思わないが、それでも彼の側に信頼できる人間が集っていることは安心だ。守り守られ、そうして進んで行ける背を見ることで、エドワードは安堵する。
 自分と彼の道は違うけれど、時折交わるその道越しに、進む背を見出すことでエドワードは僅かながらに推進力を得る。それが常だった。なし崩しのように恋人関係となってからもそれはずっと変わることはないと、エドワードはそう思っていたのだ。
 だが深く知れば知るほど、彼が自分に心を傾ければ傾けるほど、その感情の距離が近づけば近づくほどに、何かが歪む。
 一足飛びに彼の傍らまで詰め寄った自分が疾うに近付くことを止めてしまっているというのに、ゆっくりと、けれど歩みを止めることなく傍らへと立った大人の包むような慈悲は、───愛情、は、
 
「………重たいんだ」
 
 ぽつり、と呟いたエドワードに、無言で返したロイはそっとその背に手を添え寝台へと促した。エドワードは素直に腰掛ける。隣へと座ったロイの体重を受けて、ぎ、と微かに寝台が鳴った。
「アンタはオレの保護者じゃない」
「………以前にも同じことを言われた気がするな」
「父親じゃない」
「そうだな」
「だから、……アンタがどう思ってようがそんなのオレには関係ないって思ってたけど、でも、そういう………愛情、みたいなのは、凄く重い」
 エドワードは俯いていた顔を上げた。真っ直ぐに見上げた先に、無表情のロイがいる。
「だから、大佐」
 囁いた声が僅かに割れた。
「………オレはアンタを好きだけど、食いたいくらい好きだけど、殺したいわけじゃ全然なくて、多分、───アンタがオレになれれば一番いいんだとは思うんだけど」
「言っている意味がよく解らない」
「アンタがアルなら良かった」
「………鋼の」
「だったら平気だったんだ。だってアルはオレの家族だからさ」
「だからなんだ」
「だから、家族なら重くなかったんだ。当たり前のことだから」
 
 愛している、ことなんて。
 
「────オレはアンタを愛せない」
 ロイはふと眼を細めた。笑った、ような気がした。
「知っている」
「オレはアンタに掴まってやれない」
「ああ」
「………オレはアンタを掴めない」
「だろうな」
「オレは、」
 震える息そのままに揺れる声を低く絞り、エドワードはふいに、顔を歪めた。
「………だから、オレは、───アンタが駄目になってくのを見たくない」
「何?」
「でも、見ているしかなくなるんだ。どうしようもないんだ。もうこれ以上は、オレはアンタに気持ちをやれない。好きだって気持ちは全部アンタにくれてやってもいいけど、でもアンタを愛してはやれない」
 
 だから、本当は、同化できれば一番よかった。
 
 彼が弟なら、なおよかった。
 
 一番近くで、いつでも握り締めて抱き締めて、そうして止めてやることも、叱ってやることも、───共にどこまでも行くことすら、きっと躊躇わずにいられたのに。
 
 ロイは瞠目したままエドワードを見つめ、それからひとつ思い出したように瞬いた。
「………よく、言っている意味が解らないんだが」
「うん、いいんだ、解んなくて。もう大丈夫だから」
「大丈夫って何が」
「うん」
 エドワードはロイの右手を取り、その薬指に口付けた。
「………左手は勘弁しといてやるよ」
 いつかの言葉を小さく繰り返し、けれど笑みはなく瞼を伏せたまま、エドワードは熱のない口調で続けた。
「アンタの未来までは求めない。………もう、いいよ」
「はが………」
「大佐」
 
 ふ、と。
 
 俯いた子供の唇が笑った。
 
 
 
「さよなら」

 
 
 
 
 
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■2004/12/31

あと大佐視点の3が入って水底はおしまい。のはず。

水底は、ずっとやりたくなくて避けていた、お別れの話です。

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