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 窓から差し込む満月の過ぎるほどの光の中、薄紅に色付く肢体を見下ろしてその左肩の滑らかな皮膚に鋼の掌を滑らせる。代謝が高いのかその膚のほとんど残っていない傷跡は、多分次にこうして組み敷くときには綺麗に消えてしまっているだろう。
(よかった……)
 結構大きい傷だったけど、と胸中で呟きずきりとその胸に走った痛みを目を伏せてやり過ごし、エドワードは恋人の内部でゆるゆると蠢かせていた指をゆっくりと抜いた。僅かに眉を寄せ眼を閉じた恋人が、ほんの僅か、意識を向けていなければ解らない程度に息を詰めた。
 
 静かに呼吸をして、緩慢に動く。
 
 その様は薄暗い水の中を漂う生き物のようで、到底地上の生き物とは思えない。こうして黙って抱いていると動物とも思えず、これは植物に近い生物なのではないかとエドワードは欲に揺れた思考でぼんやりと考えた。
 無論、軽口を叩けば軽口で返ってくるのは解っている。ただその気になれないだけだ。
(………らしくねーよな)
 いつかの傷を見たいからと、灯りの元での交わりを後悔の顔で懇願すれば渋りながらも頷く。そもそものその後悔の元へと言及し謝罪しようとすれば穏やかな微笑と共に額へと唇が触れる。
 抱き締める腕は温かく、冗談や我が侭に皮肉に返すその態度は何も変わらないようにも思えた。が、それでも。
 
 甘やかしが過ぎる。
 
 この男に我が侭を通す方法を、エドワードはすっかりと憶えてしまっていた。余裕のない顔をして、そうして縋れば恋人は否とは言わないのだ、───どんなことだとしても。
 そしてそれは恐ろしいことだ、とエドワードは漠然と考える。無論傷付けたくない大切な相手だから無茶なことはしたくないし嫌がられるのを承知で馬鹿なことはしないつもりではいるが、それでも、たとえばいつかのように、取り返しのつかないほどのことを二度とせずにいられるかといえばそれは解らなくて。
 エドワードは、己の中で制御の利かない、獰猛で陰鬱な獣が喉を鳴らしていることを知っている。それは性欲だけに起因するものではなくどちらかと言えばそれ以外によって表層に浮かび上がり牙を剥くことがほとんどだったが、その牙を──アルフォンスにならば決して向けることのないその牙を、どうしたわけかこの男には容易く向けてしまうのだ。そしてそれをいなせるはずの恋人は、敢えて──そう、敢えてだ──その身に牙を受ける。
 ぞくり、と、背に悪寒が走った気がした。
 もしかすると、そんなことにはならないとは信じてはいるしそこまで自分を受け入れてくれているとは思わないが、それでももしかすると、今、この首に手を掛けても、この男は、
 
 ───赦して、しまうのではないかと。
 
 それが酷く───恐ろしい。
(………信用するなよ、オレを)
 盲目的な信頼は、怖い。それはアルフォンスとの間にだけあればいいものだ。
 あの無機の弟を、エドワードは世界の何よりも愛している。アルフォンスのためならこの身全てをなげうつことも躊躇わない。
 だからこそ、あの弟からの絶対の信頼を受けることはエドワードには当たり前のことで、またそれなくば心の平穏は得られない。
 
 ふと、ぼんやりと膚を撫でるばかりのエドワードを、薄く開いた瞼から覗く黒い瞳が見上げた。思考は一瞬よりもわずかに長く、その間が不審を与えたようだ。
 エドワードはロイの耳の脇に生身の左腕を突き身を乗り出してゆっくりと唇を食んだ。そうしながら右手で腰を辿り片足を担ぎ上げると大きな左手が金属に包まれる肩を掴み、右腕はゆるりと背へ回された。腰を抱え、秘部へとゆっくりと熱を押し込む。
「─────、」
 息を止め、声もなく衝撃をやり過ごそうとするその苦痛に似た顔を見つめる。
 薄赤く色付いていた膚がみるみるうちに色を失い額へとうっすらと冷たい汗が浮かぶのが、満月の煌々とした明かりの中、はっきりと見えた。
 エドワードは宥めように何度もその頬に唇を落とし、呻きひとつ洩らさない恋人のその苦痛の表情に、ふと罪悪感を感じて半ばまで自身を埋めたところでそれ以上の侵入を止めた。
「………大佐、苦しい? 平気? 続けていい?」
「…………、……」
 薄い唇が微かに動く。喘ぐようなその声にならない呟きに、何、と問い返せば再びほとんど息の声にならない譫言のような言葉が何事かを紡ぐ。聞き取ろうと顔を寄せると強く眉根を寄せたロイは両腕を背へ回しシーツへと突っ張っていた右足もエドワードの腰に巻き付けて、強く引き寄せた。
「────ッく、う……ッ」
 自ら一気に貫かせ、噛み締めた歯の間からさすがに呻きを洩らしたロイに、瞠った目を幾度も瞬かせてエドワードはしがみつかれるままに恋人の上へと完全に乗っていた身を何とか起こし、浅い息を繰り返すその青白い顔を覗いた。呆れた溜息が洩れる。
「無茶すんなよ……」
「………と、……った、んだ」
「え?」
 震える息を大きく吐き、ロイは瞼を上げた。不機嫌な顔が苦々しくエドワードを見上げる。
「挿れるか抜くか、どっちかにしろ、と、言ったんだ」
「………あ、そっか」
 冷たい汗に濡れる額を撫で、エドワードはへら、とばつの悪い苦笑を浮かべた。
「半端のほうが辛い?」
「きつい」
「そっか、ごめん」
 ちゅ、と可愛らしく音を立てて口付け、エドワードは色の戻らない青白い顔を覗く。熱くなりかけていた身体は冷え、触れている膚からは早い鼓動が響くがそれが快感によるものではないことは萎えた下肢からも解る。
 エドワードはいつものように直ぐ様律動することを諦めて、再び伏せられた青く血管の透く瞼に唇を落とし、左手を胸に滑らせ指の平で軽く突起に触れた。肩に絡んでいた腕が、ほんの僅かに震える。
「…………ッ、」
 瞼に唇を這わせ、睫を押し込まぬよう注意しながら舌でその薄い皮膚を押し上げると肩が強張り、思うよりもざらざらとした感触の眼球を舐め上げれば喉から引き攣れた息が洩れた。自身を呑まれている内部が窄まり、エドワードはその甘い痛みに僅かに息を詰めながら丹念に舌を這わせた。舌先に僅かに塩気を感じて、涙が流れたことを知る。
「────……、」
 執拗な愛撫に微かな喘ぎが混じり、背を滑る指の震えが納まらないのを感じてエドワードは名残惜しげにぴちゃり、とわざと水音を響かせて舌を引いた。ゆるりと閉じたその片側の瞼の間から、幾筋も涙が流れ落ちる。
「あのな……鋼の、」
 文句を言い掛けた唇を塞ぎ、深く口内を犯す。そうしながらより腰を押し付けて僅かに揺らすと、押し広げられる感覚にロイの背が強張った。未だ熟れない腔内は狭く、けれど確実に熱を増していて、脈動しながらエドワードへと絡み始める。
 一度大きく腰を回し悲鳴じみた呻きを口腔に呑んで、エドワードは唐突に自身を抜いた。
「……は、───アッ!」
 口付けを止めて直ぐ様最奥まで貫けば、突然の衝撃に殺し損ねた声が上がる。同時にくちゅりと濡れた音が薄く鼓膜を叩き、エドワードは興奮に荒い息を吐く唇をふと歪ませ笑んだ。
「声、出して」
「……断、る……ッ」
「いいじゃん、たまには」
「気持ち…が、わ…る……、い」
「んじゃ気持ちよかったら出してくれんだな」
 詭弁だ、と言い掛け睨んだロイは、反論の言葉を待たずに淫猥な水音をわざと響かせながら律動を開始したエドワードに息を詰め、月明かりに照らされる欲情したその顔を眇めた眼で凝視した。
「ッく、………ぅ」
 前立腺を擦り上げ、胸に落とされた唇が快楽を与えようと立ち上がったそこを執拗に舐め歯を立てる。身体を冷やしていた汗が温度を変えて、心拍数が面白いように上がって行く。放っておかれていた中心にゆるりと左手を這わすと背が撓り、緩み掛けた唇が強く引かれた。
「声出してってば……」
 薄く開いた濡れた眼が睨み上げる。エドワードは笑みを納めてその紅潮し始めた顔を見つめた。
 多分、この大人の眼には相当余裕のないものとして映っているのだろうとエドワードは思う。以前は瞳の色を覗くことの上手かったこの大人を、こうして表情だけで騙すことなんて出来なかったのに。
(………ほんとに余裕ないのかな)
 この大人がこの自分に容易く騙されていることが信じられない。だからもしかすると自分で意識していないだけで、相当切羽詰まった余裕のない眼をしているのだろうか、とも思う。
 少なくとも、迷う、眼を。
「……大佐。好きだよ」
「………ッふ、ァ……、」
 僅かに顔を背け再び眼を閉じたロイの唇から、ほんのわずかに甘い声が洩れた。その思う通りの反応にエドワードは唇を噛み、腰を抱えより繋がりを深くして消え掛けている肩の傷跡へと歯を立てた。
 甘く呻いたロイの腕が、背を強く引き寄せた。
 
 
 
 
 
 こと、と小さくグラスの置かれる音がした。瞼を上げると辺りは深く闇に沈み、窓から差していた月明かりもない。
 夜明け前か、と考えて、エドワードは横臥したまま視線を巡らせた。窓際に椅子を引き寄せた人影が、かさ、と乾いた音を立ててページを捲る。ほとんどない星明かりを頼りに活字を追っているらしい。
 視力が落ちるだろうに、と呆れ、しかし暗闇に慣れて来た眼でそれが書籍ではなくファイルであることに気付き、エドワードは再び呆れた。
(仕事があるならそう言えばいいのに)
 それは会えば抱きたいとは思うが、恋人の生活に負担を掛けるつもりはないのだ(結果的に負担となっていることは多々あるのだが)。
 
 ───以前なら多分、させろと言ったところで仕事があると断られていたはずなのに。
 
 そうでなくてもこうして同じ部屋で、眠っている自分を気遣い明かりも付けずにいるなどということはなかったはず、なのに。
(……そういやなんで居間か書斎に行かないんだろ)
 そんなことを考えながら眺めていると、ふと影が動いた気配がした。反射的に眼を閉じる。
 ひたひたと極力抑えた裸足の足音が近付き、ふと熱の気配が覆い被さった。どきりと高鳴った心臓をなだめてじっと寝たふりを続けていると、身体の上に蹴り飛ばしていたらしい毛布を被せられる。首元をきちんと抑えた手がそっと額の金髪を払った。
 その、酷く優しい手にエドワードは僅かに惑う。
(────な…、)
 
 なんだ、これは。
 
 ゆっくりと離れた気配は再び窓際へと寄り、ファイルを捲り始めた。エドワードは闇の中瞠目する。息が浅くなるようだ。静かに胸が冷えていく。
 
 こんなのは、違う。
 たとえば母のような、幼馴染みの祖母のような、───眠れぬ夜を持て余す、弟のような。
 
 その感情の名を、エドワードはよく知っている。この自分を愚行へ走らせた、どうしようもなくこの身を苛む、それは、
 
「………大佐」
 ふとロイが顔を上げた。薄く笑った気配がする。
「起こしたか、すまないな」
「いいよ、別に」
「まだ早い。寝ておけ」
「………アンタが起きてるなら起きる」
「寝ないと背が伸びないぞ」
「るせぇよ! ……邪魔なら邪魔だから寝てろって言えよ」
 ロイは僅かに瞬いた。
「邪魔ならそもそも家に入れない」
「………仕事あったんだろ」
「ああ、さっき急に思い出しただけだ。むしろ君がいなくて熟睡していたりしたら思い出さなかっただろうから、かえって良かった」
 嘘吐き、と口の中で呟いて、エドワードは身を起こした。手招いてロイを呼ぶ。すぐにはやって来ない恋人をしつこく呼び、痺れを切らしてベッドから降り掛けると溜息を吐いたロイが立ち上がった。
「なんだ?」
「キスしていい?」
「……君がそういうお伺いを立てるのは珍しいな」
「うん。困らせるだろうから訊くくらいはしないと」
「……………」
 嫌そうに歪んだ顔に小さく笑って、エドワードは許しのないままに口付けた。閉じた唇をこじ開けて侵入すると、ぐいと襟首が引かれる。
「おい、仕事中だ。盛っていないでもう一度眠れ。大体先ほど散々、」
「大佐」
 低く呼ぶ声が自分でも笑えるほどに熱を帯び僅かに震えていて、聡い大人がそれに気付かないはずもなく。
 しばらく絶句していたロイは天井を仰ぎ、額を抑えて苦々しく嘆息した。
「………ったく、どうしたんだ君は。このところおかしいぞ」
「解んねぇ。……けど、なんか、凄く、……アンタが欲しいんだ」
「女性相手なら相当な殺し文句なんだがな」
 言いながらもう一度、けれど今度は諦めを滲ませた軽い溜息を吐いたロイにエドワードは薄く笑う。
「アンタにだって充分効いてるみたいな気がすんだけど」
「……あのな、」
「アンタ明日は夜からだろ、仕事。大丈夫だよ」
「君が言うことではないな、それは」
「うん、ごめんな」
 素直過ぎて気持ち悪い、と可愛げのないことを言って気味悪そうに肩を竦めた大人に手を伸ばし膝立ちし、その頭を抱きしめる。頬に触れる黒髪が湿っていて、ああシャワーを浴びたのか、とエドワードは思った。もしかすると吐いて来たのかもしれない。
 このところセックスをすると大抵抱き潰してしまうせいか、事後に気分を悪くさせてしまうことが多い。そうなる前に言えよ、と言っても渋い顔をするだけで決して気分が悪いとは言ってはくれない相手だが、そんな気の遣われ方をしても自己嫌悪に陥るだけだと解っていないのだろうか。
 それとも、自分でも解っていないのか。
 
 もしかして、とエドワードは黒髪に口付け眼を閉じて考える。
 
 身体を合わせること自体、が、彼に負担になっているのではないだろうか。

 
 
 
 
 
>>2

 
 
 

■2004/12/27
見切り発車です。大丈夫かな。「みなそこふかくすなごにうもれ」と読みます。
連作予定。水底単体は恐らく酷く救いがないです。連作通して救いがないかも知れない。
………救いがないままだったらスポイルからこの連作まではパラレル…で……(自作品でパラレルって意味が解らない)。

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