駆けて行く足音がした気がしたが、子供の通る大通りへと抜ける道は寝室からは見えない。 ロイは夜気に冷えた窓ガラスへとごつ、と頭を凭れた。 (…………子供において行かれる、というのはこういう気分か?) 自分で育てたわけでもないくせに馬鹿なことを、と頭の一番鈍い部分で考えているのが解る。 子の親となるのが自然な年齢の、周囲に可愛い娘を持った親馬鹿のいる、あたたかな家庭というものに多少なりとも憧れを覚えないわけでもない、そんなごく普通の男の行き場のない父性を補完したかった、とか。 頭の回転がよくこちらの話についてくる様の好ましい、まだまだ成長途中の煌めきを見せる弟か甥のような子供に絡むのが心地よかった、とか。 けれど同時にそんな庇護欲とはかけ離れた部分で、好きだよ、と囁く声変わり途中の掠れた独特の低音が好きだった。 だから、それを恋、と呼ぶのも、また、 (………欺瞞だな) 恋をしてやれなかったことは、何よりあの子供が一番よく知っている。 君に恋をしている、君が愛しい、と囁いたところで、ロイの嘘を見抜くのが下手な子供は、それでもその偽りを看破するだろう。 君に恋は出来ないと、態度で言葉でそう現し続けて来たのはロイだ。 あの子に恋が出来れば良かった。 そうすれば別れの寂しささえ、甘い疼きとして愉しみへと転化できた。 (………寂しい、んだな) 解っていたことだ。あの子供の手を離すそのとききっと自分はとても寂しいのだろうと、そんなことは、疾うに。 あの子が愛しいと。 この手に握ってしまいたい、と。 ああ、でも、本当はこちらから察してやらなくてはならなかったのに。 加速度的に過敏に、暴力的になって行く子供の恋心は今まさに過渡期で、己に備わりつつある青年の獰猛さを、若い雄の牙を制御しきれず恐れるばかりのまだ幼い心を察して、そうしてこちらから手を離してやらなくてはならなかったのに。 なのに、結局自分がしたことは。 無様だ、とロイは息だけで呟いた。目を伏せる。 身を翻した赤いコートから覗く義手を掴もうと跳ね上がった己の手に、瞬間的に失望した。 その失望は感情をコントロールし切れずに、唇が待て、と子供を止めようとした。それをぎりぎりで押さえることが出来たのは、大人の分別ではなく単に、下らない矜持ゆえだ。 己の半分ほどの年の子供に縋ろうとする無様な自分が醜く、それが許せなかったと、単に、それだけの。 その見栄がなければ決して言ってはならない、少年もロイも望んではいない一言を、言ってしまっていたかもしれなかった。 待て、と。 ────行くな、と。 一度きつく眼を閉じる。登り始めた太陽は瞼の裏に白く光を満たし、まだ静かな街は直に目覚めざわめき始める。いつも通り、何も変わらない一日だ。誰にとっても、自分にとってすら。 ただ、あの子供には少し辛い一日となるのかもしれない、と、それに僅かに胸が痛む。 恋が醒めたわけではない、と、子供は言った。好きなんだ、と。痛々しいほど歪んだ顔で。 一方的に終わらせた恋を失恋と呼ぶのなら、あの子供の今日は失恋し立ての新たな一日だ。 ロイは寂しさが何も留めないことを知っている。仕事も食事も睡眠も、ただ少し人恋しくなるだけで独り過ごす夜さえも、僅かな我慢で通せるだけの、ささやかなダメージとストレスであることを知っている。 けれどあの子はそれを知らない。 寂しければ寂しいだけ愛している者を求める。独りでは息も出来ないと、愛しい存在に縋り付く。 しかし酷く強がりな兄でもあるあの子はつい先ほどの決別の寂しさに、弟に縋ることはしないかもしれない。 ただ、独り。 手を伸ばし、底にぬるくなった水を残すグラスの縁を撫ぜる。きん、と微かに掠れた甲高い音が不快に鼓膜を震わせ、ロイは眼を細め指を引き頬杖を突いた。 (アンタが駄目になってくのを見たくない) 不意に頭の奥で繰り返された言葉にロイは耳を傾ける。子供の掠れた低い声は滑らかに語り出し、幾度でも言葉を繰り返す。 (……駄目には、ならない) 誰も、だ。彼も、自分も。 お互いにそんな暇はない。お互いに、それほど依存はしていない。 そう言う意味で、決して愛せはしないのだと苦渋の色を浮かべた子供の誠実さはロイに安堵を与える。 彼が彼の至上を差し置いて恋に走るほどの愚かな子供であるのなら、ロイは側に寄らせはしなかった。その才能に感服はしても、子供の好意に一片たりとも応えようとは考えなかったに違いない。 けれど彼が駄目になると思うのなら、───庇護されることが、赦されることがあの子供の重荷になると言うのなら。 丁度よかった、のだ。辛い決断を子供にさせてしまったことは気掛かりだが、もし彼が別れを決めなかったとしてこちらから手を離せた気はしない。 甘やかすな、と繰り返したあの子を、今更突き放せる気はしない。 この手の中に握り込んで、いつか壊してしまうのではないかと時折怯えながら、その指の間からこぼれ落ちて行ってしまうのが怖くて。 なんとも欲の深い傲慢な思考だ、と考えながら、それでも握り込むのを止めることが出来ない。大切な者の笑顔を握り締めて、高みへ、共に。 決して飛ぶことは出来なくても、地べたを這いずるしかない人間でも、共に駆ける者たちがいればどこでも目指せた。 けれどあの子供と共に駆けることは出来ない。それが解っていてなおこの手の内に握り込みたがっている自分がいることをロイは知っていたし、事実半ば以上握り締めたつもりになっていた。 彼も自分も、誰かに握られていることを由と出来るような生き物ではないのに。 あの子供の気質は王のそれだ。我が儘で傲慢で、誰にも膝を折ることはせずに、真に孤独で、幸せになる才能というものがあるとしたら多分著しくそれに欠ける、どこか───不運のにおいのする。 逆に、彼の弟は幸せになる才能を確実に有している、とロイは思う。鎧の幽鬼は死者ならざる愛情と光で、不運に足掻く兄をすくい上げている。 だから、あの兄弟は上手くいく。 生気の塊のような兄が死者である弟へ命の煌めきをもたらす。叡智と愛を備える弟が、いつでも淵を覗こうと揺らいでいる兄を光へと繋ぐ。 その絆は誰にも入り込むことはできないほどに強固で、ロイにはそれが好ましい。だから本当は、もしかすると、あの兄だけではなく弟も、愛してしまいたいのかもしれなかった。 ロイはふと笑った。 (本気で父親になりたかったのか、俺は) あの、兄弟の。 なんて馬鹿馬鹿しい、と自嘲する。父親代わりになりたかったのならもっと他に方法はあったはずなのだ。保護者などいらないと、父親のような愛情など重いのだと、血を吐くような言葉を子供に言わせずに済んだ方法が、何か。 ───結局、ロイがしていたのはセックスだけだ。 それ、だけだ。 「……………っ」 ふいにせり上げた嘔吐感を喉を詰め口を手で覆って呑む。水しか入っていない胃袋が縮み上がり胃と食道が胃液に灼け、ぎりぎりと痛んだ。 ゆっくりと逆流する水と胃液の渦が収まるのを待ち、ふ、と息を吐く。 怖い、わけではなかった。 けれど酷く嫌悪する。 最中は格別変わりはないのに、行為が終わり、うとうととする子供の寝顔を見ていると必ず酷く吐き気がした。 まだ年端も行かない、けれど確実に同性である雄が自分に恋をしていて、それを心地よく感じている、その事実、が、何故か。 (………気分が悪い) 雄の顔をして雄のにおいを振り撒く。 同じように雄のにおいがするはずのロイへと欲情して瞳を輝かせるその紅潮した顔は嫌いではないし、気味が悪い、とも思わない。慣れたのだと言えばそれまでだが、この関係が始まったばかりの頃も切実なほどの抵抗はなかったように思う。 セックスはまだ、許容できていた。 ならばなにが許容できなくなったのだろう。恋をしてもいないのに同性とキスをして身体を開くよう要求されて、甘い言葉を囁かれて女のように啼いて見せろとねだられて。 他の男なら疾っくに炭になっていた。彼はまだ生きている。それどころかその関係を終わらせよう、と言った子供を思わず引き留めそうになったのだ。自ら足を開いたことも、少なからずある。 子供だから油断したわけではない、つもりだった。だが、 ───あれが大人になりつつあるから気分が悪いのだろうか。 声も身体もその眼差しも、はっきりと男性性を主張し始めているから、だから。 再びせり上げた吐き気を奥歯を噛み締めてやり過ごし、ロイは開きっぱなしになっていたファイルを閉じた。少し眠ろうと立ち上がり、寝台へと腰掛ける。ふと突いた手にまだどことなく湿った感触を感じ、上げ掛けていた足が止まった。 シーツを換えるべきかどうかを考えて、結局ひとつ溜息を落としただけでロイは情事の痕跡の残る寝台へと潜り込んだ。 青い臭いと子供の髪の匂いがする。手繰り寄せた毛布に長い金髪が付いているのを見つけ暫し眺め、つまみ取ることをせずにロイは毛布を身体に巻き付け身を丸めた。起きたらシーツを張り替えて、寝具を洗ってしまうことにする。 子供の体臭も髪も、もう二度とここに残ることはないのだろう、と考えながら、ロイは目を閉じた。 (………そういえば) 俺は一体いつから大人なんだろう。 窓の向こう、小さな庭越しの通りから、静かに朝の音がしていた。 |
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■2005/1/4 解りやすくしたくて色々率直にしましたがかえって解らない気がします。R18表記はエロというより内容が難解なせい。なんですが結局わたしにしか解らない気もする……。
えーと解説代わりの一言を。興醒めだよ! というひとは見ないほうがいいです。あと見ても意味解らないと思います。興醒め反転→間違っているというのならどちらも間違っている。
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