だらりと弛緩した身体の末端が震えている。 ロイはその震える指でこめかみを揉み、まだ熱の引かない息を吐いた。肺の内側が灼けるようで、まるで病熱のようだと考える。 まったくどれだけ強い成分の薬を作っていたんだ、と溜息を吐いて、ロイは寝室のサイドテーブルに残したままの、子供から没収したまま忘れていた赤い錠剤を後で調べてみようと考え目頭を押さえた。どこからレシピを見つけたものかは知らないが、健康な成人男子である自分が半錠でこれだ。もしレシピが出回っているのだとしたら問題だ。 眼を閉じると瞼の奥がびくびくと脈打つ。以前コーヒーに一錠混ぜられたときのように起き上がれないということもないが、あの子供を押し倒し衣服を脱がしてしまう前に指の震えがベルトを外すのも困難になるとはさすがに思わなかった。 砕いた薬を押し込んでいた舌の裏側が苦く痺れ、指で触れても感覚がない。身体は冷えているのに芯がまだ燻っているようで、その熾火を焚き付けないようロイは慎重に呼吸する。嘔吐の余韻が抜けず、横隔膜が微かに痙攣しているような気がする。 まったくみっともない、と考えて、バスルームへと妙な使命感や罪悪感に駆られた子供が飛び込んでくるようなことがなくて良かったとロイは嘆息した。 湯を浴びながら溶け残った薬を吐き体内に残る欲の残滓を掻き出して、込み上げた嘔吐感のままに胃の中を空にし熱が上がりすぎたのか瘧のように震える身体に驚いて慌てて湯を水に変えて、それでも治まらずに自慰で達した。それでも熱が引かずに膚から感覚が引くほど身体を冷やして、それでようやく立ち上がることが出来たのだ。あの子供が見ていたのなら、それこそ烈火の如く怒り狂っただろう馬鹿な真似をした。 けれど、そうでもしなければ突き放せる気がしなかった。 怒っているか、と子供は訊いた。勿論腹は立っていた。けれど多分それは子供が思うそれとは別の怒りだ。 あの子供が自らの目的よりロイを優先したことは、今までただの一度もなかった。 エドワードがしきりに気にしたあの嵐の日の後ですら、アルフォンスが見ているこちらが気の毒になるほどしょげ返っていなかったのなら、申し訳なさそうな顔を作りながらも多分あの兄は弟とともに東方から旅立っただろう。こちらを真っ直ぐに見据えているときのエドワードはロイに酷く誠実だが、けれど僅かでも自らの背負うものを顧みてしまった瞬間、意識の全てがそちらへと向く。そしてそれをロイは望んでいたのだし、あの子供のそういった偏った性質に安堵してもいたのだ。 部屋に灯っていた明かりに嫌な予感がした。 予想通りの、本来ならもう東方にはいるはずのない小さな姿をソファに見つけて、眩暈がするほど失望もした。 この、小さな子供の、煌めいていた───眩しい、その光を陰らせたのだと、 たかが恋のためにその歩みを止めるような、そんな当たり前で平凡でくだらない忌々しい存在に、そんなものに引き落としてしまったのだと、そう。 見たくない、と思った。ただ見たくないと。 純粋で真っ直ぐで悲愴なほどの強さを秘めた、いつか大人になっていくどこかで少しずつ剥がれ灰色にくすんでいく煌めきを、けれど今、陰らすその様を。 ───子供の煌めきを剥ぎ取ってしまうくらいなら、突き放してしまったほうがいい。 鎧の、哀れな永遠の幼い魂の元から唯一無二の存在を引き離してしまうくらいなら、救ってやれないのならせめて、あの鋼の手を振り払ってしまったほうがいい。 きっと酷く憧れているのだ。 子供時代にしかない諸々に、あの兄弟にしかない絆に、愛しいと、手を離してしまいたくないと思うその生温い感情を遙かに上回るほとんど嫉妬のような、憧憬。 自分にはもうない、愚かなまでにひたむきで無謀な、地を這いずる人の身でありながら天に唾するその様が。 足掻く様が。 太陽に拳を突き上げる、羽根のない小さな背が。 声を枯らす───その咆哮。 振り返らずに行ってしまうしなやかな後ろ姿。 弟しか見ない目で、幽鬼に命を与え笑う顔。 その笑顔と命の熱を受けて光る暗い眼窩の赤い光。 命なき鎧を愛嬌たっぷりに操って、死の臭いを振りまきながら、不思議と光に満ちた───声。 繋いだ手が環に、なる。 彼らはどこまでも行けるだろう。 ふたりでいれば───誰も辿り着くことの出来ない場所にも、太陽の下でも、星もない夜にも、どこまでも。 誰も干渉をしない、完全に閉じられた関係は酷く病的で、けれど完成されている。 それを美しいと思ってしまうのは多分、自身が錬金術師であるからだ。 あの兄弟の体現する環は不完全で完全で、唯一にして全に匹敵する。 欠けたものを補い合い補完して、その小さな閉じられた世界でたったふたりだけで循環していく命だ。 (その環、を) ロイはふっと瞬いた。 その───世界を。 (───壊したかった、のか、………アルフォンス) ロイはゆっくりと眼を上げ、もう一度瞬く。睫が微かに肌に触れる、そんな微細な刺激さえ煩わしい。 あの無機の子供の病理を、その根深さと空洞の抱える闇深さに気付いていながら本当はなにひとつ解ってやれてはいなかった。 ああ、だから。 (引き留めて───か、) ロイがエドワードと僅かに、けれど他の人間とは違った関係で細く深く関わることで、あの兄弟の環は崩れる。 その環を崩壊に導く僅かな亀裂が、アルフォンスにとっては光差す外界との唯一の接点だったのだろうか。 思わず立ち上がり電話に向かい掛け、迷いのままに足を止めてロイは爪を噛んだ。ぎち、といくらか伸びていた爪が軋む。 もしここで───アルフォンスを慮ってエドワードを引き留めたとして、それでどうなるというのだろう。 力強さを得つつある、己の中の凶暴な男性性の手綱を取る方法を模索している最中の未だ年若いあの錬金術師の、図太く強靭でありながらその強靭さに任せて自らに刃を立てるばかりの弱さを、今引き留めたなら今後も幾度も見せつけられることになるのだろう。そしてそれによって傷付くのはロイではなく、間違いなくエドワードのほうだ。 エドワードが傷付けば、アルフォンスも傷付く。エドワードがそれを乗り越え再び走り出したとしても、何もかも腕の中へと抱え込んでいくあの空虚な子供は傷付き続ける。 結局繰り返すだけだ。そうして傷付いたまま、あの子供は兄を振り払うことも出来ずに繋がれた手を引かれて行くのだ。その傷を、兄には決してそうだと悟らせないままに。 あの虚ろの裡に何を抱え込んでいるのか、ロイには正確には解らない。けれど胸の裡で流れない血を流しているのはエドワードだけではないのだと、そのことくらいならば解る。 そして弟が傷付いていたとそのことに気付いたとき、エドワードは深く後悔をするのだろう。何故気付いてやれなかったのかとそう己を責め、またその兄を見て、アルフォンスもまた胸を痛めるのだ。 子供の柔らかで傷付きやすい心はしなやかで、伸びやかに成長していくうちにその傷を癒し乗り越え忘れていくものだと解ってはいても、それでも不安が拭えない。 あの、未だ年若い兄弟が互いに傷付き胸を軋めるその様を思うと何故か酷く切なくなる。庇護の翼の下に包みたくなってしまう。 それを、彼らが望んではいないと、そう解ってはいても。 保護者でも肉親でもなく、ただ僅か関わっただけの他人であるというのに、何故これほどまでにあの子供達を、───あの子供達が 唐突に鳴ったチャイムに、ロイはびくりと背を正した。反射的に時計を見上げる。もう充分に深夜と呼べる時刻だ。他人の家を訪問するに適しているとは言い難い。 なにかトラブルがあったのならまず電話が鳴る。 もう一度やや間延びしたかのように鳴ったチャイムにロイは眉を寄せ、そっと足音を忍ばせて玄関へと歩み寄った。途中棚の隙間に忍ばせていた発火布を取り慣れた仕種で右手に嵌める。 どんどん、とやや強く扉が叩かれ、おい、と誰何よりも早く掛けられたその声にロイは眉間の皺を深くし、溜息を吐いてのろのろと鍵を外した。 |
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■2005/11/19 薬については「食欲増進剤/効果4時間」参照。SSエドロイは全部繋がっているので上から読むの推奨です。
ところでSSエドロイの大佐んちの鍵って真鍮じゃなくて鉄だってどこかで書いたような気がするんですけど気のせいですか。<魔物3
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