今日は少し寒いねと、囁き合うひとたちを見ていたので。 余分に用意してもらったベッドの足下に畳んだ毛布を意味もなく畳み直して、アルフォンスは真っ黒な窓を見た。まだ月はそう大きくは欠けておらず、星の見えない都会とはいえ幾分か明るい空ではあるはずなのだが煌々と灯した部屋の明かりが邪魔をして、その濃紺は見えない。 兄は未だ帰って来ない。 取り敢えず紹介状だけは書いてもらってくる、とこの期に及んで腰の引けたことを言う兄に帰って来なくてもいいからね、と呆れた声で返して、けれど出掛けずに部屋にいるからね、と付け足すとエドワードは奇妙な顔をした。どこか申し訳なさそうな、この鎧の身体についてアルフォンスが語るときにするような、言いたいことを言えずにいる、どこか罪悪感でも抱えているような顔だった。 兄さんは馬鹿だな、とアルフォンスは小さく思う。 常に側にいなくては不安になる、などと言うのは普通、親からはぐれた小さな子供か(アルフォンスにはまだ経験はないけれど)恋をしている恋人たちだろう。家族であるのにそれぞれの都合で僅かの間居場所を異にしたからといって不安になるのなら、それは信用し切れていないということだとアルフォンスは思う。 家族であるのだから、物理的に離れていたからと言って心が離れてしまったり、ましてや兄弟であることが無効になるなんてことはない。 アルフォンスは兄を愛しているし、兄が何よりも自分を愛してくれていることを知っている。度々エドワードが繰り返す愛の言葉などなくても、魂の隅々にまで染み付いて、その認識は薄れることはない。 兄の、幼馴染みの、ピナコの、友人たちの愛情の気配をアルフォンスはいつでも感じていたし、それに不安を覚えることなどなかった。 だから、他の誰かに恋をしたからと言って、その愛情が薄れてしまうなんてことはない。 なのに兄はどこか後ろめたいような顔をした。 誰か大切なひとのために、ほんの数日旅の足を止めて時間と気持ちを割くことに何を躊躇うことがあるのだろう、とアルフォンスはそれが不思議だ。どうせあの兄は、もしアルフォンスが誰かに恋をして、そのひとのために僅かに足を緩めるようなことがあれば表面上は渋い顔をしながらも送り出してくれるのだ。そういうひとなのだ。いつでも、犠牲は自分ひとりであればいいのだと。 ───罪は、全て自分にあるのだからと。 フロントで用意して貰った熱い湯の入ったポットの脇にことん、とカップを並べて、アルフォンスは再び窓を見た。鏡と化した窓に巨大な鎧が映り込んでいる。 エドワードはアルフォンスに罪を分けてはくれない。 それがほんの僅か寂しくて、その無意識の傲慢さが時折、腹立たしい。 兄の才能が優れているのは誰よりもアルフォンスが知っている。あの人体錬成理論を、焼かれてしまったレポートを知っているのはアルフォンスだけだ。あれほど美しく完璧な理論と錬成陣を、アルフォンスは未だかつて見たことがない。 あれを見せられた瞬間、アルフォンスは兄が師匠であるイズミよりもずっと鋭く稀有な才能を有しているのだと確信したし、今もそれを信じている。 けれどだからこそ兄は無意識に天才の傲慢さを有していて、アルフォンスが兄に劣ることを前提としてしまう節がある。 だから罪を分けてくれないのだとアルフォンスは考えていたし、多分それで間違ってもいないだろう、とも思っている。 アルフォンスが自らの錬成の犠牲になったと、兄はそう考えているのだ。アルフォンス自身の力が足りていなかったために兄は左脚一本で済んだところを全身を持っていかれてしまったのだと、そうは考えてはくれないのだ。 もし、アルフォンスの力が足りていたのなら。兄と同等かそれ以上の才能を有していたのなら。 もしかすると兄の足も犠牲になることはなかったのではないかと、時折そんな風にも考える。 母をあんな無惨な姿で現世に呼び戻すこともなかったかもしれないし、自分も、兄の右腕を犠牲にしてまで魂ばかりの、命汚い姿を晒すことはなかったのではないか、と。 けれどそれが無駄な逡巡であることもアルフォンスは知っていた。 そんなことは今更嘆いたところで仕方がないことなのだ。これは因果応報というものだ。手に余るものを手に掛けてアルフォンスは身体を失い、もう何も失いたくないと駄々を捏ねた代償に兄は腕を失った。 けれど兄はそこで仕方のないことなのだと納得することが、出来ない。アルフォンスが全てを失ってしまったせいだ。 それはエドワードのせいではないのに、あの兄は自らを責める。だから幸せになろうとしないのだ。アルフォンスよりも自らを優先させることを自らに禁じているのだ。 アルフォンスが今幸せでないなどと決めつける権利は、エドワードにはないと言うのに。 兄さんは馬鹿だなあ、とアルフォンスはもう一度繰り返す。 (………ボク、結構幸せだと思ってるんだけど) いつか身体を取り戻せる、それをアルフォンスは信じていたし、あの兄が足掻いている以上、必ず叶う望みだと知っていた。盲目的だと誰に思われても構わなかった。エドワードはそれほどのものを有しているのだと、誰が信じなくてもアルフォンスだけは信じていた。 だから、今のこの苦難の道は、いつか拓ける未来に通じる泥の道なのだとアルフォンスは考える。未来の幸福の種を、苦難にかまけて捨ててゆくことは人生に対する怠慢だと思ってもいるのだ。 錬金術師は業が深く、欲が深い。けれどそれはとても人間的なことだ。それを恥じる必要は、ない。 ───生きることに強欲であることを咎められるというのなら、世界は滅びに向かうだろう。 生きることは幸せになるということだ。呼吸をするとき、食事をするとき、眠るとき、生き物は喩えようもない幸福を感じる。それを全て失ったアルフォンスだからこそ、解る。 幸福を求めることは、生きているのなら当然の欲求だ。 だから、幸せになって。 小さく、呟く。 (………幸せになりたいんだ) ───生きていたいんだ。 寝台に腰を掛けると、ぎ、と小さく軋んだ。イーストシティでの定宿になっているこのホテルの、馴染みのある部屋だ。身体の大きなアルフォンスに合わせてか、他の部屋よりも幾分か面積が広い部屋をいつも提供してくれる。先日来たばかりで舞い戻った兄弟に、忘れ物ですか、と笑ったフロント係ともすっかりと馴染みだ。 名前も知らないフロント係も、友達になるほどの時間のなかった知り合いも、いつかまた会おうねと約束をした旅の先での友人も、その出会い全てがアルフォンスを生かす。 向かい合った窓に、相変わらず鎧が映り込んでいる。眼の辺りが赤々と光り、黙っていればとても不気味な存在だ。 ───小さな出会いすべてをなかったことにして。 兄とふたり、ただ手を取り合ってどこまでもゆくことが、一番簡単で安定した幸福だと気付いてはいるけれど。 ああでも、生きているということは。 (決して、安定しているということじゃない) 生き物は日々変化して成長する。それは安定や安寧とは縁遠いことだ。 完全に安定している生き物なんて、そんなものは。 死んでいるのと、同じだ。 窓の中の赤い光がちかちかと瞬いている。 兄さん、帰って来なきゃいいのに、と呟いて、けれどその心中で帰って来て欲しいと願っている自分にもアルフォンスは気付いている。 誰も彼も他の全てを置き去りにして、ただアルフォンスの元へと。 ただ、兄ひとりと手を繋いで。 安定を。 完全な環を。 ───安寧を。 (ボクは) ───本当は、死んでるのかもしれない。 「………兄さん、帰って来なきゃいいのに」 もう一度呟きながら、アルフォンスはポットの湯が冷めないように、そっとキルティングのカバーを掛けた。 |
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■2005/11/6
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