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 ごんごん、と扉を叩くと室内からがしゃ、と金属の音がした。間を置かずに鍵を外し開けられた扉から顔を覗かせたアルフォンスに、エドワードはただいま、とくたびれた声を掛ける。
「……帰ってきちゃったんだ」
「ああ」
 すたすたと室内へと踏み込み片腕に抱えていたコートを寝台へと放り投げ、エドワードはがしがしと金髪を掻き混ぜどさりとソファへと腰掛けた。
「大佐はなにか言ってた? あ、コーヒー淹れようか」
「まあ待て。全部話すから、取り敢えず先に風呂入らせてくれ」
 言いながら靴を脱いで放り、サイドテーブルのポットに手を掛けたアルフォンスを止めてエドワードは立ち上がった。
「兄さん、タオル」
「サンキュー」
 準備のいい弟に礼を言い、差し出されたタオルを掴んで大股で部屋を横切りバスルームの扉をばん、と後ろ手に閉める。さっさと服を脱ぎ散らかしてシャワーのコックを捻り、頭上から降った水に竦みながら髪を解く。
 徐々に湯に変わっていくシャワーと立ち上り始めた湯気に、ほ、と息を吐いてエドワードは壁へと手を突いた。
 
 頬の辺りに───鼻の奥に、むっとした熱の気配が漂う気がする。
 
 甘い、とは言えない、どこか野生じみた生命の熱のにおいが。
 酷く情欲を刺激するその気配をあの男から感じることなどほとんどなくて、情事の最中や後、ごく稀に僅かに欲に溺れた肢体から微かに感じることがあるだけの、エドワードを強く誘惑する熱だ。
 それがまだ、脳髄の奥に、膚の表面に染み付いているようなそんな気がする。
 じわりと下腹に重さを感じてエドワードは慌ててかぶりを振った。性欲ばかりに支配されるかのような己の肉体に苛立つ。
 しかし顔を見て触れて、それですぐに欲情するのかと言えばそうではない。司令部や外で会うときにのべつまくなく襲い掛かりたくなるわけではさすがにない。
 けれど二人きりであの男の部屋で顔を合わせ、その少しばかり滑舌の悪い低音の声を聞き、ぽっかりとうろのように空いた眼を覗いてそうして微かな体臭を感じると、もういても立ってもいられなくなってしまう。そわそわと浮ついた気分でその唇に触れて、濡れた舌に己のそれを絡め、噛み付き、じっと見詰めるその黒い眼を舐めて、体内を指で掻き回して粘膜で繋がってしまいたい。
 征服欲、の現れなのかと言われれば、それも多少はあるのだろうとエドワードは思う。決して屈してはくれないあの男のそれを好ましく思いながらも、それでもこの手に握り滅茶苦茶に掻き抱いてしまいたい衝動も確かにある。
 貪り尽くして、何もかも手に入れてしまいたいと、そう。
 けれど傷付けてしまうことは嫌で、時折衝動的に噴き上げる暴力の波を受け止めるあの男のその忍耐がどこからくるものなのか解らずに、ただ暴力の代わりに身体を暴いていたような、そんな気も今更ながらにするのだ。
 
 果たしてこれは恋だろうか、とエドワードは自問する。
 
 大切に出来ないのなら側にいるべきではない、とアルフォンスは言った。それは至極最もだとエドワードも思う。
 大切にしたいのだ。
 大切にしたかったのだ。
 ───大切にされたかった、わけではなく、ただ、自分が、彼を。
 けれどそれは許されなかった。
 エドワードのなにもかもを許しているかのようなあの男は、この未だ未発達の生身と無機の腕の中に抱き込んでしまうことを許してはくれなかった。
 大切に宝物を愛しむように、傷付けてしまったその欠片を握り締めて狼狽えるエドワードを、許しを装い優しく、酷く愛しく拒絶し続けた。跪き赦しを求めることを許さなかった。怒りを侮蔑を、その負の感情すら欲したエドワードを、何もかもを手に入れたいと叫ぶことを、そっと立てた人差し指で唇を塞いで、その柔らかな仕種で全て封じた。変化を待ってはくれなかった。もっと大人になるからと、もっと大切にしてみせるからと───そう告げることを、許してはくれなかった。
 ただ、そのままのお前であれば構わないのだと。
 けれど人間は───生き物は、永久にそのままであれる存在ではない。命とは不変の存在ではない。刻々と変化していく、それが命だ。経験を経て、時間を経て次々と変化していく、そういうものなのだ。
 ああ、でももしかすると。
 その変化すら許され受け入れられていたのかもしれなかった。
 だからこそ、過ぎたことを振り向くことはするなと、そう。
 
 ───愛されていた、と苦く認める。
 
 いつからだろう。最初はそんな素振りはなかった。ずっとあの男はエドワードの我が儘に仕方がないなと嘆息をして、そうして渋々許容していただけのはずだった。
 愛も恋も一欠片も向けてはくれないそれが不満で、けれど本当は心のどこかでその距離に安堵してもいたのだ。
 ただ一方的に欲しがって無理矢理奪い手に入れて、恋しいと喚いて押し付けて、いい加減なようでいて誠実な許容に甘えてそうして、今まで。
 
 愛、というものは、エドワードにとっては酷く重く愛しく特別で、おいそれと他人へ向けてしまえる感情ではなかった。己を狂わせ愚行に走らせた───未だ狂わせ続ける、狂乱を呼ぶ、どこか酷く血の臭いのする───感情。
 それをあの男に与えることは出来なかった。与えたくもなかったし、また与えようとしたところで無理なのだ。あの男は愛の対象にない。何を思われても、どれだけ拒まれても引き寄せて抱き締めてどれだけ血を流すことになろうとも───喩え抱き潰してしまうとしても決して手放してしまうことなど出来ない、そんなものではなかった。
 
 ただ欲しかった。焦がれた。手に入らないものだからこその飢餓だったのかもしれなかった。
 食べ尽くしてしまいたかった。何もかもを愛おしむよりも、貪り、血の一滴、骨の一欠片まで全て。
 そこに、彼の意志はない。
 
 エドワードは小さく瞬いた。流れ落ちて行く湯が眼球を滑り視界が歪む。頬に首筋に張り付く金髪が鬱陶しく、重い。
(………なんだ、最低だ、オレ)
 結局、彼の気持ちなどどうでもよかったのだ。
 その口から本心聞きたいと、優しい沈黙を無理矢理破らせ暴き立てたこともあった。後悔に追い詰められて、怒りの言葉を得たいと、赦しなどいらないと幾度も喚いてきた。
 けれどそれは結局、彼のなにもかもを貪りたかった、ただそれだけのことだった。酷く独り善がりの、これが恋だとするならば、己の恋はどれほどに醜いものなのだろう。
 エドワードが安らかでいれるよう心を砕いてくれたあの男の気持ちに比べて、どれほど優しさに欠けた、子供じみた感情だったのだろう。
 
 震える掌がこの左手を握った感触がまだ残っているような気がする。
 鋼の手足を時に愛しく、時に邪険に扱いながら、それでも彼が縋ったのは体温のあるこの左の手だった。
 無意識、だったのだろう。大した意味はなかったのかもしれない。たまたま利き腕を伸ばした先にあったのが、この左手だったと、それだけのことなのかもしれない。
 けれどエドワードは生身の手にその掌の熱を感じた。弱々しい握力を感じた。酷い拒絶を見せながらも、それでも決してエドワードを傷付けることのない、その慈愛めいた感情の震えを知った。
 鋼の右手であったなら感じることのなかったそれらを、柔らかに刻み込んだその体温を、今すぐに忘れろと言われたところでそれは無理なのだ。どれほど独り善がりの恋であったとしても、彼をただひとり、酷く恋しく思い詰めたその気持ちばかりは本物だ。おいそれと拭い去れるものではない。
(馬鹿だな、大佐)
 拒絶したかったのならこの手に縋るべきではなかった。愛する者を抱えるだけで手一杯の、そんな手に縋るべきではなかった。
 あんな熱を、震えを、声を、においを、最後に与えるべきではなかったのだ。
 あの男が思うほど自分は思想に生きていない。もっと即物的な生き物だ。
 誰よりも何よりも愛しい、離れがたい存在と共に旅をしている間はほとんど思い返すこともない、その不誠実な恋人を責めることも女のように孕むこともない。
 なにも生み出さない関係の、エドワードに何の責任を求めることもない大人の、そんな相手だからこそ、もしかしたら、自分は。
 
 はあ、と湯の熱と湯気に上せ掛けた息を吐いて、エドワードはコックを捻ってシャワーを止めた。湯の滴る金髪を掻き上げ絞る。
 酷く都合のいい恋愛相手だ、と小さくごちる。その自覚に苦く笑みに歪んだ唇が震えた。噛み締めた奥歯がぎり、と鳴る。
 許しに甘えて好意に甘えて我が儘を通して、けれどそこには慈しみもあるはずだと信じていた。何か与えることの出来るものがあるのだと信じていた。どれだけあの男がなにもいらないとかぶりを振っても、それでも何らかのあたたかな感情を、そそいでいるものだとそう思っていたのに。
 結局、自分は彼に何も与えることはできなかったのだ。ただ奪い尽くして消耗させて傷付けて、寂しさを拭ってやることも、彼の望むままのただ前を見て駆ける無謀で愚かでまだ見ぬ未来を懸命に信じるばかりの小さな子供でい続けることもできず、そんな望みの通りに振る舞ってやれるほどの大人にもなれず。
 
 エドワードは小さくかぶりを振った。
 もう、終わったことだった。今更何を悔いたところでどうしようもないのだ。
 ただ、まだ忘れることのできない熱に狂おしく締め付けられる心臓を持て余しながら、少しずつ慣れていくしかない。
 苦痛は好きではなかった。後悔も好きではなかった。けれどエドワードはそれに慣れていた。
 
 欲したものが、一度は手に掴んだそれが誰にも奪われまいときつく抱き締めていた腕の隙間をするするとこぼれ砕けて失われていくことに、酷く慣れていた。
 
 ああでもあの大人のことは、もう一度、と欲することはできないのだ。
 
 エドワードは乱暴に身体を拭い衣服を身につけて扉を開けた。コーヒーの匂いが鼻腔をくすぐる。
「兄さん、ちゃんと髪拭いて。……顔赤いよ、上せた?」
 コーヒーより水のほうがいいかな、とがしゃんと立ち上がり掛けたアルフォンスを手で制して、エドワードは向かいの寝台へと歩み寄りどさりと座り込んで胡座を掻いた。がしがしと髪を拭く。座り直した弟は、少し首を傾げてそんな兄をじっと見ていた。
「………大佐と話、出来た?」
「いや、」
 ふー、と溜息を吐いて、エドワードはタオルを放り、髪を掻き上げた。
「全然」
「全然って……話しに行ったんでしょ」
「聞く耳持たないって感じだったんだよ。こっちは話はないの一点張りで」
「それでのこのこ帰ってきたわけ?」
「いや……、」
「バッカじゃないの、兄さん。何しにこっちまで戻ったんだよ」
「紹介状受け取りに」
「そんなの後でいいだろ!」
「よくない。それが第一目的。…あー、でもごめん、アル。それも言いそびれた」
「……なんでボクに謝るんだよ……謝る相手が違うだろ」
「謝ってもアイツ全然聞く気ねえ。耳素通り」
「そこをなんとかして来なよ! まったくもー……いつもは凄く強引なのに、なんでここぞと言うときに腰が引けるんだろ、兄さんて」
 はーあ、と呆れの色の濃い声を洩らして、アルフォンスはコーヒーを満たしたマグを差し出した。エドワードは黙って熱いだろうそれを右手で受け取り、ふうっと湯気を飛ばしてふと、そういえばあの男は熱い飲み物でも平気で口にするのだったなと思い出す。猫舌というわけではないのだろうが、だからと言って口の中の皮が厚いということも当然ないからよく火傷をして、そのたびエドワードは叱ったものだ。
 いい年をした大人だからきっと他にこういった怠惰を叱ってくれるひとがいないのだろうと、僅かばかりの優越感を抱きながら。
「……兄さん?」
 じっとコーヒーを見詰めたまま口を付けない兄に不審を感じたのだろう、訝しげに呼んだアルフォンスにうん、と生返事をして、エドワードはゆっくりと苦く香ばしい液体を啜った。胃の腑がじわりと温まり、気分はどうあれ否応なく僅かばかり和む。
 
 身体の芯が蕩けていくような、けれどその実細胞のひとつひとつを燃え上がらせるような、そんな熱が命の気配であることに、エドワードはずっと以前から無意識に気付いていた。
 あの男を抱きたかったのは、欲を満たしたい身体の都合の他に、その命の熱を確認したいと、そんな感情が理由の大半だったように思う。
 生きている、とそのことを、普通なら繋がることのない身体を無理に繋げて、柔らかな体内を犯して、そうして身体中の、五感の全てでその存在を感じ取りたくて。
 大して昂ることのない、際限なく熱の上がっていくかのような己と比べればむしろ冷ややかなほどの身体が、それでも僅かばかりに体温を上げて、薄く湿る。微かに立ち上るのは汗のにおいばかりではなくて、熱の気配は命の気配そのものだった。
 抱くたびに確認をして、安堵する。その繰り返しを、その安堵を知っていたから彼は身体を開いてくれていたのだろうか。
 ただ、エドワードが求めていたから───エドワードが安らかであれるよう。
(───あれ、でも)
 先程触れたばかりの身体が、ふいに思い起こされた。
 震える膚も蕩けたような息も、なんだかいつもよりもずっと熱くて、無理矢理とはいえ大して慣らしてもいないのにエドワードを受け入れることのできた身体が、不自然で。
 水の冷たさに真っ白に血の引いた顔の中で、唇だけが赤々としてその様に酷く不安になった。
 まるで病熱に浮かされたかの───ような。
「兄さん?」
 はっと顔を上げたエドワードに、アルフォンスがかしゃん、と小さく首を傾げた。エドワードはサイドテーブルに乱暴にマグを置き、こぼれた濃い茶の液体になにやってんだよと咎める弟の声を無視して寝台から飛び降り靴に素足を突っ込んだ。上着を羽織りコートを掴む。
「兄さ………」
「悪ィ、アル! オレもっかい行って来る!」
「えっ?」
「大佐、具合悪くしてるかもしれない」
「………え!?」
 がしゃん、と慌てて立ち上がったアルフォンスが手早く濡れ髪を編みながらさっさと扉へと向かったエドワードを慌てて追ってきた。
「ちょ、兄さん、」
「なんでもなかったらすぐ戻るから! 戻れなかったら連絡するから、」
「ね、ねえ、ボクも行こうか? 倒れてたりしたら運ぶのに人手がいるかも」
 廊下へと飛び出し掛けていたエドワードは、動転したようなアルフォンスの声に振り向いた。おろおろと胸のあたりを押さえた弟が、返事を窺っている。
「いや、ここにいろ。なんかあったら電話で呼ぶから」
「………うん、解った。じゃ、急いで」
「おう」
 ひらりと手を振り、エドワードは駆け出した。深夜だが、他の泊まり客の安眠の心配まではしていられない。
 階段を駆け下りて行ってらっしゃいませと頭を下げたフロント係を素通りし、エドワードは通りへと駆け出した。街灯の灯りが先程戻ったときと同様寒々しく辺りを照らしている。
 
 あの震えには、あの熱には憶えがあった。
 いつかの赤い薬を、あの大人に没収されたまま後のことはエドワードは知らなかった。
 とっくに処分したものと思い込んでいたが、よくよく考えればあの怠惰な大人のことだ、引き出しに放り込んだままだったということも充分に考えられる。そう思えばあのとき妙に寝室に篭もっていた時間が長かったことも、口付けを拒んだことも納得がいく。
 そして何より、性急に欲に堕ちていった、あの様も。
 なんて馬鹿だ、とエドワードは舌打ちをした。
 自分を拒むために、たったそれだけのために自らを傷付けるような真似をして、けれど結局拒み切れてはいないのだ。
(オレの諦めの悪さは解ってんだろ、大佐)
 何故もっと効果的に、もっと冷たいやり方で拒むことをしないのだろう。
 殺す勢いで貪ろうとするエドワードを、もっと本気で───それこそ燃やし尽くしでもするつもりで拒絶すれば、きっとエドワードはそれ以上近付きはしないのに。
 エドワードの命はエドワード自身のもので、同時にアルフォンスのものだ。あの男に、この命をくれてやるわけにはいかない。
 
 たかが恋に、命を懸けてやるわけにはいかない。
 
 けれどあの男はエドワードの命を欲しない。エドワードの人生を欲しない。エドワードの感情を欲してはくれない。
 なにも欲しがってはくれないのだ。
 だから。
 
 もう一度舌打ちをして眉間に深くしわを刻み、エドワードはひとつ息を吐いて走る速度を上げた。

 
 
 
 
 
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■2006/3/16
自己嫌悪←→自己嫌悪の様相に。
このばかっぷるども! て殴りたい…うう…(呻)

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