僕の町にはおばけが住んでいる。
おばけの名前はアルフォンス。町はずれの森の入り口の古くて頑丈で素っ気ない石造りのお屋敷に、たったひとりで住んでいる。
この町に住む人間ならみんなアルフォンスのことは知っていて、大抵が彼のことが大好きだ。
アルフォンスは僕のじいちゃんのじいちゃんが子供の時からリゼンブールに住んでいて、僕が初めて彼に会ったのは僕のうちの納屋が嵐で壊れてしまったその時だった。僕がまだとっても小さかった頃だ。
アルフォンスは僕の父さんに呼ばれて手ぶらで現れて、一瞬で納屋を元通りに直してしまった。
魔法使いなの、と吃驚した僕に、違うよ、これはレンキンジュツ、と笑ったそのおばけ鎧は、アルフォンス・エルリックと名乗った。
そうして頭をはずしてからっぽの中を見せてくれたアルフォンスに僕は飛び上がり、それを見て頭を外したおばけと父さんと母さんは楽しそうに笑って、それから僕はアルフォンスと握手をした。
「よろしくね、エドワード」
そう言ったアルフォンスの声は今の僕より小さな子供の声で、それは今でもそのままだ。
アルフォンス・エルリックは、この僕、エドワード・ロックべルの親友になった。
アルフォンスは大抵森の入り口のお屋敷でひとりで遠くから取り寄せた本を読んだり何種類もの新聞を読んだり、食べたり眠ったりする必要のないおばけなのにいつでもお屋敷をぴかぴかに磨いて果物のシロップ付けを作ったり寄ってくる動物や鳥に餌をあげたり、町のみんなのお願いを聞いてレンキンジュツで道具を直したり壊れた堤防を修繕したりして暮らしていたけれど、時折、年に何度か、軍服を着たとっても偉いひとたちがおばけ鎧を訪ねてくることを、僕は最近になって知った。
初めて見た精悍でちょっと怖いおじさんが、実は今の大総統なのだとアルフォンスからこっそり教えてもらったときには飛び上がってしまった。大総統って言ったらこの国で一番偉いひとなのだ。周りの国からこの国を守ってくれている、とってもとっても偉いひとなのだ。
何代か前の大総統と知り合いで、彼がとっても立ててくれたから、今でもときどき昔のことを聞きに来るんだよ、とアルフォンスは言った。アルフォンスは一度憶えたことは絶対に忘れないのだという。
生き字引だよ、まさに、と笑ったアルフォンスは相変わらず楽しそうだったけど、軍人さんが訪ねて来た後は、一週間くらい屋敷に引きこもってしまって誰とも会わないことが多かった。
どんな話をしているのかと訊いたことはないし訊いても教えてはくれないんだろうけど(軍の話は秘密なのだと父さんが言っていた)、僕はそんなとき、アルフォンスが落ち込んでいやしないかとちょっと心配だったから、毎日そっと屋敷の近くまで寄っては窓が開いていないかと確認をした。
そんなある日。
今回のアルフォンスは軍人さんが帰ってからももう10日も屋敷に引きこもっていて、僕はとても心配だった。
たしかにアルフォンスは放っておいても死んでしまったりはしない(というかおばけだからもう死んでいるのかな?)けれど、でも鍛冶屋のマークがときどきアルフォンスの鎧を直してあげながら、ずいぶんとガタが来ているなぁ、と話しているのを聞いていたのだ。
魔法でぱぱっと(マークはレンキンジュツのことを魔法と言う)で直せないのかい、と言うマークに、アルフォンスは困ったように肩を竦めた。
「やろうと思えば出来るかもしれないんだけど、失敗するとボク、死んじゃうからねえ」
事故だとしても自殺はちょっとイヤだなあ、と笑うアルフォンスは、動くとがしゃんがしゃんというやかましい鉄の音の他に、微かにきぃ、きし、と軋む音がした。毎日ちゃんと磨いている表面には、それでも関節の端なんかに薄く錆が浮いていて、よく見れば何度も叩いて直している鎧の表面はぼこぼこだった。たしかにアルフォンスの身体は少しずつ時間に浸食されているようだった。
だから、もし階段とかから落ちて、足や手が外れてしまって、動けなくなっているんだとしたら。
助けを求めることも出来なくて、ひとりでじっとしているんだとしたら。
そう思ったらいても立ってもいられなくなって、僕はその日、まだ閉まっている窓の隙間へ目を寄せて、中が見えないかと悪戦苦闘していた(玄関をノックすればいいと思われますか? そんなの当然毎日やってる!)。
窓の隙間はぴったりとしていて、分厚いカーテンが中と外とを隔てていた。けれど一箇所だけ、ほんのちょっぴりカーテンに隙間がある窓があったから、僕はなんとか中が見えないものかと背伸びをしたり目を眇めたりして窓枠に張り付いていて、お陰ですぐ後ろでかさ、と草を踏む音がするまで背後の気配に気付かなかった。
「何をしている?」
僕は飛び上がった。
はっと振り向くと、青い軍服の、黒い髪の男が立っていた。茶色の瞳は鋭くて、白い手袋に包まれた左手はポケットに収まっているけれど、右手は腰の後ろへと回されていた。そこにホルスターがあることくらいいくら田舎者の僕にだって解る。
だから僕は慌てて両手を上げて、ぶんぶんと首を横に振った。
「ぼ、僕、アルフォンスの友達なんです! アルが全然出て来ないから、心配になって!」
「……最後の錬金術師の友達? 子供が?」
「この町の子供はみんなアルと友達だよ! 撃たないで!」
まだ若い軍人さんは、ふっと綻ぶように苦笑した。
「撃たないよ。手を下ろしたまえ」
それでも僕は軍人さんが銃から手を離すまで両手を上げたままでいた。
「……あれ? マスタング少佐?」
ふいに頭上から耳慣れた優しい幼い声が降る。僕と軍人さんは同時に振り仰いだ。二階の窓からアルフォンスが覗いていた。
「期限にはまだですよね? まだ出来てませんよ。ちょっと今回は量が多くて大変で」
「いや、単に非番だったんです。あなたの話を聞きたくなって、つい昨日の仕事を終えてすぐに夜行列車に乗ってしまいました」
アルフォンスが呆れたように肩を竦める。
「何度来たって錬金術は教えませんよ」
「せめて我が家の書の読み解き方くらい教えてくださいよ」
「それ教えちゃったら理解しちゃうじゃないですか。あなたの曾お祖父様はとっても優秀な錬金術師だったんだから」
ふふ、と可愛く笑って、アルフォンスは僕に視線を落とした。
「エドワードもどうしたの? まあ、ちょうどいいや。少佐がいらしたってことは今日はもう仕事にならないから、キミも上がっておいで。今玄関開けてあげる」
ぱたりと窓を閉じてお屋敷の中へ消えたアルフォンスの言葉に従い、僕と軍人さんは共に玄関へ回った。
「………君はエドワードというのか」
「え? は、はい。エドワード・ロックベルです」
「ロックベル医院の?」
「それはおじさんちです、エルリックさんとこ。僕のとこは義肢装具師やってます」
「………ということは、アルフォンス・エルリックの親戚か?」
「名前は同じだけど、でもアルフォンスっておばけですよ?」
このひとはアルフォンスに中身があると思っているんだろうか。
そう思いながら訊くと、軍人さんは奇妙な顔をした。
「何を失礼なことを言っている? 君の偉大な先祖の」
「エドワードのうちは代々長男はエドワードって名前なんですよ、マスタング少佐」
かちゃり、と軋まない扉を開けて銀色の姿を現したアルフォンスがふふ、と笑った。
「ロックベル家が? エルリック家でなく?」
「三代前のエドワード・エルリックが、ロックベルの名前を継いで義肢装具師になったんです。それ以来エドワードはロックベル家の長男の名前なんですよ」
「では何故エルリック家はエルリック医院と名乗らないのです?」
アルフォンスは密やかに笑った。息が漏れるような笑い声に僕はぞくりと身を竦ませる。
怖かったわけじゃない。
でも、身体の芯が震えた。
嫌な震えだった。
「『エドワード』が、医師なのはロックベルの血筋なのだから、と言って強引にそうしてしまったんです。あのひとの我が儘には誰も逆らえませんからね」
くすくすと笑って、アルフォンスは「ウィンリィはエルリックで良いって言ったんですけどね」、と続けた。
「ウィンリィ・ロックベル女史ですか。彼女もエルリックとは名乗らなかったとか」
「ウィンリィは家業に誇りを持っていたので。さあ、どうぞお入りください。二人とも急に来るから、食べるものはなにも用意してなかったんですけど、お茶はありますから」
アルフォンスに誘われて、いつもならすぐについて行くのだけどこの見慣れない闖入者が気になって、僕はちらりと軍人さんを横目で見た。軍人さんは澄ました顔で、いかにも勝手知ったると言った様子でアルフォンスについてお屋敷へと踏み込んだ。僕は慌てて追い掛ける。
なんだかこの若いのに少佐だと言う軍人さんと、アルフォンスを二人きりにしてはいけないような気がした。