シグさんとメイスンさんに加えてボクまでが入室している師匠の寝室はぎゅうぎゅうだ。そのぎゅうぎゅうの隙間に兄さんと、お医者さまが座ってる。
ベッドの上には師匠。
お医者さまとメイスンさんは入り口のほうに下がってボクらを見てる。シグさんはベッドの向こう側。ボクと兄さんはこっち側。
もう充分話は済んだのか、師匠とシグさんは時折目を合わせるばかりで何も言わない。ただその師匠の右手はずっとシグさんの厳つい大きな両手に包まれていて、シグさんの日に焼けた精悍な顔は、血の気が引いてどす黒い。
師匠はいつもほとんど灰色の顔が、今日は蝋燭みたいに真っ白だ。いつもより綺麗な肌の色に見えて、ボクはさっきから少し居心地が悪い。師匠の左手はボクの手を握っていて、その上から兄さんの左手がぎゅっと握り締めている。
師匠の真っ白ないくらか痩けたその顔には、不思議といつもと同じ強い表情が浮いている。けれど瞳は優しく光り、師匠はさっきからずっと兄さんと話をしている。
兄さんはこくりこくりと頷いて、ときどきはい、と呟いて、ぎゅっと眉を寄せて師匠の顔を食い入るように見つめている。
記憶に焼き付けようとしているみたいだ、とボクは思う。
「アルフォンス」
ボクは師匠を見つめた。かしゃ、と音がしたことで自分が首を傾げたことに気付くと、同時に師匠は少し笑った。
「お前はそうやって首を傾げるのがすっかり癖になっちゃったね」
「……直したほうが良いですか?」
いいや、と師匠はまた笑った。
「アル。……お前は私に何が訊きたい」
師匠はいつもはまるで男のひとみたいにはっきりしたひとで謎掛けのようなことはほとんど言わないのに、時々不思議なことを言う。
ボクはもう一度首を傾げた。
「何か訊いたほうが良いですか?」
「訊く必要がないのなら、良いよ。多分お前はもう、私などよりこの世の叡智に長けているのだろうから」
生も、死も、その身に刻んで。
───流れすら。
「………良く解りません」
「流れは流れを認識しない。……解らないのは正しい、アル」
ふ、と、師匠が目を閉じそうになった。ボクは思わず手を握り締める。その握力に、師匠は再びボクを見た。
「せんせい」
ボクの中に響いて殷々と広がるその甘い子供の声が、本当に小さな子供みたいだ、とボクは人事のように思った。
「ボクはどこへ行くんでしょう」
言ってしまって、師匠の頬に微笑が浮かんだのを見て、ボクはなにを口走ったのかを知る。
視界の隅のボクを見つめる兄さんに、少し申し訳なくなってボクは俯いた。兄さんの骨張った大きな手に包まれている、ボクと師匠の手を見詰める。兄さんの手は、いつの間にか師匠の手が小さく華奢に見えるほど大きくなっていた。
「アル」
師匠が囁いた。
ああ、嘘だ。
こんなに優しい声を出すなんて嘘だ。
だって師匠はとても厳しくて凛としたひとで、こんなに優しくて甘くて、
───まるで母さんみたいな。
「お前は自由だ」
ボクは顔を上げた。どうして涙がこぼれないのだろうと、そればかりが不思議だった。
「お前はどこにでも行ける」
「せんせい」
「お前の好きなときに、好きなところへ」
師匠がボクと兄さんを見て、もう一度微笑んだ。
「そうだろう、エド」
兄さんの眉間にぎゅっと皺が寄る。
師匠は目を閉ざした。
「………お前たちは自由だ」
ボクは、握ったその手の握力が失せたことを感じないこの鉄の手を、心底煩わしい、と、思った。
弔いの鐘が鳴っている。
空は薄曇りで、南部の強い日差しに身体を苛まれていた師匠のために、神様が雲を呼んだのかもしれないとアルフォンスは思った。
「なあ、アル」
葬列から少し離れた場所で、神父が聖書を読み上げるのを見ながら、エドワードがぽつりと呼んだ。アルフォンスはうん、と呟く。
エドワードのほつれ掛けた三つ編みの長い金髪が風に靡く。
「もう良いよ、ね、兄さん」
エドワードはアルフォンスを見上げた。アルフォンスは葬列を見つめている。
「リゼンブールに帰ろう」
「………アル」
「故郷に帰ろう、兄さん」
アルフォンスはがしゃり、と音を立てて首を傾げ、兄を見下ろした。昔よりもずっと高くなったエドワードの視線は、それでも人間離れした巨大な鎧のアルフォンスには全く届かない。
「リゼンブールに帰ろう。……幸せに暮らそうよ」
「でも、お前」
「もう良いんだ、兄さん。もうこのままで」
そんなことよりもボクは、幸せになりたい。
ぽつん、と呟き再び葬列に目を向け、神父の祈りに合わせて指を組んで俯いた弟に、エドワードは両手をポケットに突っ込んだまま、ゆっくりと薄曇りの空を仰いだ。
神の無いこの世界に天国や地獄など在るはずもなく、この空の向こうには師匠も母もいはしないのだけれど。
彼女たちへ届けと祈るなら、やはり自分は空へ向けて祈るのだろう、と考えて、エドワードはきつく目を閉じた。
こぼれない涙が眼窩の奥に凝り、酷く熱かった。