「やあ、アルフォンス」
 よく来たね、と微笑んだロイは一人掛けのソファに深く腰を掛けていて、けれどその黒髪はわずかに跳ねている。アルフォンスは眉尻を下げた。
「ごめんなさい、寝てたんじゃ」
「いや、少し疲れて昼寝をしていただけだ。まだ軍務に復帰していないからな、怠惰を満喫しているところだよ」
 くつくつと喉を鳴らして笑い、ロイはアルフォンスへ座るよう促した。
「将軍、なにかお茶請けを調達してきますが」
「ああ、必ず店員にどれがお勧めか聞いて買ってくれ」
 はい、と生真面目に返したその顔には先ほどアルフォンスへと見せたあえかな笑みはなく、失礼します、と頭を下げて颯爽と(まさに颯爽という言葉が似合う)出て行ったリザを眼で追い、アルフォンスはほ、と息を吐いた。
「……綺麗なひとですね」
 ふと瞬いたロイは不意に頬を崩して苦笑した。
「参ったな」
「え?」
「君は昔から彼女のような女性が好みなんだな」
「え……え!?」
 ロイは面白がるように頬杖を突いてアルフォンスを眺める。
「鎧でいた頃の君はね、ホークアイ中尉にいたく懐いていたのだよ」
「そ、そんな失礼なことしません!」
「失礼? 何故だ?」
「だ、だって、ひとの奥さんに……」
「奥さん?」
 誰が? と心底不思議そうに首を傾げられ、アルフォンスはきょとんとロイを見つめた。
「……だから、マスタング准将の」
「………だから、誰が?」
「リザ……さ、ん、が……」
 そこまで言って先ほどのロイの言葉を反芻し、アルフォンスは沈黙する。
 
 ───ホークアイ中尉、って言った?
 
「………あの、つかぬことを伺いますが」
「なにかね」
「リザさん、は、お仕事上旧姓を使われているんでしょうか」
「……いや、本名だな」
「…………。……フウフベッセイとか」
「そもそも彼女は未婚だよ。配偶者がいるとは聞いていないな」
 アルフォンスはくたり、と背を丸めてソファにもたれた。
「じゃ、なんで、あなたの家で玄関に出るんだよ……」
「私の副官だからだよ、アルフォンス。彼女は私の身の回りの世話が今の任務だ。住み込んでいるわけではないがね」
「で、でも、恋人ではあるんでしょ…?」
 言い募るアルフォンスに、ロイは肩をすくめた。
「どうして君がそう思い込んでいるのかは解らないが、私と彼女は将来を誓い合ってもいないし愛を囁き合うこともない。信頼はしているがね、それと伴侶であることは別だろう」
「……そ、う…なんですか……」
 ほう、と息をついたアルフォンスに、ロイは唇を歪めて少しばかり意地の悪い、からかう笑みを浮かべる。
「残念そうだな」
「いえ、安心したんです」
「ほう? 中尉に一目惚れかな」
「いえ、」
 否定し掛け、アルフォンスは唐突に絶語してロイを見つめた。その滑らかな頬が見る見るうちに紅潮していく様をロイは言葉を忘れて見入る。
 思考が真っ白になって行く。
「あ……あの、そうかも。り、リザさん、綺麗だから」
 俯き、明らかに何かを誤魔化す口調で早口に言ったアルフォンスに、ロイはふと笑みを納めて目を伏せた。その顔を上目遣いに見、少年はすうと頬が醒めていくのを感じた。
「………ごめんなさい」
 小さな囁きに、ロイは顔を上げた。少年は泣き出しそうな大きな目を伏せて俯いている。
「………会いに来なければよかった、です」
「何故。訪ねて来いと言ったのは私だ」
「だって、やっぱり、迷惑でしょ?」
 地位も立場もある大人の時間を、こんな子供に費やすのは。
「……気にしなくていい」
「でも、……もう帰りますから、休んでください。具合悪そう」
「アルフォンス」
 そそくさと腰を上げた少年を呼び、続いて立ち上がろうとしてがくりと崩れた膝を抑えたロイにアルフォンスは慌てて駆け寄った。
「だ、大丈夫ですか、マスタング准将!」
 足を抑えて俯くロイの背に手を当て狼狽えるアルフォンスの手を、熱い掌がゆっくりと捕らえる。アルフォンスは金縛りにでもあったかのように身体を強張らせた。
 視界の中、前髪に影になるその顔の、覗く口元が苦く歪む。
「───ロイ、だ」
「…………、え?」
「君は軍とは何の関わりもないんだ。……ロイと、名で呼びなさい」
 ゆっくりと上げられた眼は言葉の親しさとは裏腹に冷たく凝り、アルフォンスはその命令の意味を正しく察してやはり来なければよかった、と後悔する。
 
 その声で、マスタングと呼ぶな、と。
 
 お前はかつてのアルフォンスではないのだと。
 
 瞠った眼は乾き涙が落ちることはなく、アルフォンスはほとんど無意識に肯きながら、自らにない鎧の日々を思った。
(泣きたいときに泣けないのならのなら)
 鎧も生身も、大して変わりは、ない。
 この胸の軋みが涙とならないのなら、今、自分がここにいる意味は。
 
 兄が、その全てを懸けて自分を蘇らせた、その意味は。
 
(───兄さんを取り戻そう)
 そうして返してあげよう。故郷のひとたちに、かつての知人たちに、優しかっただろう───このひとに。
 
 かつての自分は失われ二度と取り戻せないのだから、せめて、兄を。
 
(そのためならボクが消えても惜しくない)
 もともと無かった命だ。
 
 この身は兄の命で出来ている。
 
 そして、とアルフォンスは考える。
(ボクよりも、兄さんのほうが価値がある)
 それは考えてはならないことだ、とアルフォンスは知っていた。多くの愛されて育った子供が知っているように、愛されて育ったアルフォンスは知っていた。
 たとえ世界にとって有用無用が決定づけられているにせよ、それを考えたり、ましてや口に出すなどしてはならないのだと、それはただ愛してくれるひとたちの哀しみを呼ぶに過ぎないことだと、アルフォンスは知っていた。
 けれどそれでも。
 何に付けて優れている兄こそが有用な人間であることを、凄いや兄さん、と無邪気に感嘆するとき、アルフォンスがそれと意識せずに理解していたことも、また事実だ。
 アルフォンスは握られたままの手で骨張った大きな手を握り返した。ダブリスで握ったときと同じように、今日の彼の手も病熱を持っているようだった。
「……少し、中央で勉強して帰りたいんです、……ロイ」
 男は僅かに瞳を眇めた。アルフォンスは己の金の瞳がどれほど冷えているかも知らぬまま、続ける。
「だから、しばらくこっちにいます。……また会ってくれますか」
 ロイは静かに瞬きし、ゆっくりとアルフォンスを抱き寄せて、父親のようにそのこめかみへと口付けた。
「………勿論だ、アルフォンス。君さえ不都合がないのなら、この家に泊まりなさい。そのほうが安心だ」
 その保護者の役割を掲げ一線を引くロイの態度に薄く笑い頷いた自分を、アルフォンスは知らない生き物だ、と思った。

 
 
 
 
 
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■2006/3/9

初出:2004.11.29

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