少しの間話をした。兄の話だ。他の人間の話はアルフォンスには解らなかったし、ロイも話す気はないようだった。 代わりにアルフォンスはリゼンブールのロックベル家に住まう人々の話をした。幼馴染みが元気だという話をしたときだけロイはわずかに目を細めて優しい顔をしたのでもしかしたらそれなりに親しい知り合いなのかもしれなくて、そうであるならこの軍人が兄の上司であったというのもあながち嘘ではないのだなとアルフォンスは考えた。 ロイの話して聞かせるアルフォンスの知らない鋼の手足を持った国家錬金術師の兄は非常に兄らしく、けれど到底兄には似合わない悲惨な運命を背負っていて、どこか遠くの物語を聞いているかのような気分になる。大方の事情はウィンリィやピナコや兄や鎧であった頃の自分と知り合いだというロゼや、また師匠から聞くことは出来ていたのだけれど、ロイの口から聞く兄はそのどれとも違っていて、アルフォンスはなんだか少し切なくなった。 兄は、エドワードは、悲運と悲嘆と悲劇の似合うひとではなかったのに。 いつも明るくて太陽のようで、大丈夫だアル、と頼もしく胸を叩き、一度決めたことはやり遂げ、どんな困難にでも自らが正しいと信じた道を突き進むことの出来る、そんな少年だったのに。 だからアルフォンスは安心して兄に運命を委ね、手を取り共に歩んで来たというのに。 挫折、の意味を、アルフォンスは未だ知らずにいた。言葉として知ってはいても体感したことはなかった。 だから兄を取り戻そうと、そうできると信じているし、それを眉を顰め難しい顔で見る周囲の大人たちが不思議でならなかったというのに、ロイの話を聞いているとその大人たちこそ正しく、アルフォンスの目指すところは泥の底であるのだと、それは飛翔ではなく堕落であるのだと、そう言われているようで。 「………兄さんとボクは、本当に」 小さく呟いたアルフォンスの声に、ロイが言葉を止めた。アルフォンスは微かに息を止めて、それからますます音量の落ちた声で呟く。 「本当に、母さんを生き返らせるのに、失敗した、んですね……」 上目遣いに窺った先で、ロイが隻眼をひとつゆっくりと瞬かせた。何を今更、と言っているようにも見えたし、ただ優しく肯定したようにも、見えた。 ───このひとは。 優しいひとなのだろうか、とアルフォンスは考える。そんなことも解らない。知り合ったばかりなのだ、読み取れなくても当然だ。 しかし子供特有の嗅覚が、厳格な規律の元生きている彼には通じない。 手を取ってもいいのか、悪いのか。手を引かれ連れて行かれる先に何があるのか。 そもそも、手を差し出してくれているのかさえ。 後見人になってやろう、とは言ってくれた。しかしそれはアルフォンスを通して兄へと差し伸べられた手に思える。 (このひとはボクを見ていない) 多分、そうなのだ。 この夜色の瞳はアルフォンスを見ていない。今も、アルフォンスに視線を据えている今でさえ、見られている気はしなかった。 先程までの値踏みするかのようだった視線は今はもう、アルフォンスを通り抜けてここではないどこかを見ているような茫洋としたものへと変化している。 どこか脱力したようなその目の色に、アルフォンスはまた少し悲しく思う。 「………マスタング准将?」 「何かね、アルフォンス」 ずきり、と鳩尾が痛んだ。アルフォンス、と呼ぶその声は滑らかで、彼はかつて自分のことをそう呼んでいたのだろうと察することは出来たが、けれどそれはこの自分ではないのだ。 失われた、4年の歳月の。 「アルフォンス?」 俯いてしまったアルフォンスの頬に、そっと熱い指が触れた。アルフォンスはぎくりとしてその指を思わず掴む。 「准将、あの、具合悪いんじゃ」 「……調子がいいとは言えないが、最近はずっとこんなものだ。大丈夫」 「でも、熱があるんじゃ」 握られた手をやんわりと外して、ロイは唇を歪めるような気の強い笑みを見せた。やつれた頬と尖った顎がそれに凄味を与え、アルフォンスは思わずその一変した怖いような笑みを凝視する。 「大丈夫だ」 優しげな口調ではあったが、それは明らかに拒絶だ、とアルフォンスは思った。内側へと踏み込ませることをしない、気遣いなど無用だと、そう。 「……そろそろお暇するよ」 「で、も……少し、休んでいったほうが」 「いや、駅で部下を待たせているんでね。夕方の列車で中央へ帰らねばならん」 「そんな、凄く顔色悪いですよ。ホテルとって今日は休んだほうがいいです。なんならうちで……師匠に頼んで来ます」 立ち上がったアルフォンスの手を熱い掌が掴む。ぐっと力を込めたその手はその子供の手の柔らかな感触に怯んだのか一瞬で力が抜けするりと外れた。しかしアルフォンスの足を止めるには充分だった。 「本当に大丈夫だ、アルフォンス。………君は優しいな」 好ましいものを見たかのように微笑んだ目はしっかりとアルフォンスを捕らえていて、少年は戸惑い、僅かに目を伏せた。 (どうして、そんなに) 懐かしそうな顔をするのだろう、と、アルフォンスは胸中で呟く。 アルフォンスは彼を知らない。彼も10歳のアルフォンスのことは知らないはずだ。 先程まであれほど頑なにアルフォンスを通してアルフォンスではないものを見ている風だったのに、どうして今、こんな風に、優しい眼で、声で。 「ではな、アルフォンス。……また、いずれ」 伸びて来た手が金髪を撫で、離れ、アルフォンスが顔を上げたときにはロイは杖を突きながら中庭を横切り、ゆっくりと植え込みの向こうへと姿を消すところだった。それをぼんやりと見送って、アルフォンスは駅まで送ってあげればよかった、と考えながら握り締めていた封筒へと目を落とす。 封筒には角張った力強い文字で、親愛なるアルフォンス・エルリックへ、と記されていた。 ああ、とアルフォンスは呟く。 (かつてのボクは、親愛なる、と呼んでもらえる人間だったんだ) けれどそれは今の自分ではない。 手の中で握りつぶされた封筒が、くしゃり、と乾いた音を立てた。 |
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■2006/3/9 初出:2004.11.19