私は何をしに来たのだろう、と、幼い少年の言葉に相槌を打ちながらロイはぼんやりと考えた。 南部の熱気は死に掛けた余波から回復しきらない身体を容赦なく苛み、頭蓋の裡が煮えているかのようにゆらゆらと視界が揺れている。陽炎が立つようにも思うが多分それは錯覚だ。 あと数ミリで危うく脳へ到達するところだったと医者に感嘆された眼球を抉った銃創は未だ癒えず、今もずくずくと間断なく疼いている。貫かれた肩はどうにか腕を使うには支障はないほどにはなったがそれでもまだ傷付いた筋肉が回復しきらず、足は杖がなければ舗装された道を歩くことすら困難だ。 そんな身体を引き擦って、無茶だと諭す部下を押し切って、わざわざ病身には厳しい土地へ一日掛けて列車に揺られてやって来て、そうして目の当たりにしているのは、この、───落胆。 憶えていない、とは聞いていた。 それで構わないと思っていた。 実際、そのこと自体は構わない。これから知り合えばいいだけの話だ。ロイを忘れているとしても、結局アルフォンスはアルフォンスなのだ。付き合っていけばきっと、以前とまったくとは言えないまでも似たような、心穏やかな交流を持てるのだとそう、どこかで甘く期待していた。 だが、目の前にいる少年は。 (子供だ───ただの) そうだ、子供だ。ただの、10歳の、少しばかり頭がいいだけの。 その甘く優しい子供の声を懐かしく思うだろうと考えていた。姿は違っても、その声だけは同じであろうと考えていたのだ。 だが、マスタング准将、と呼ぶその声はあの鎧の裡に隠り殷々と響くそれではなく、素直に真っ直ぐに鼓膜を震わす、明るく曇りのない子供のそれだ。 マスタング大佐、と兄の後ろから控え目にその特有の声で呼び、かしゃ、と鎧を鳴らして首を傾げていたあの少年は、もはやどこにも存在しない。 あの聖性は、永久に失われてしまった。 「………マスタング准将?」 ふ、と息を吐いたロイを、少年が訝しげに、僅かに瞳に不安と気遣いを滲ませて見上げた。その優しい瞳の色にロイは薄く笑んで見せる。 「いや、何でもない。大丈夫だ」 「身体の具合がよくないんじゃ?」 「まだ本調子ではないからな。南部は暑いな、当たり前のことだが」 「あの、中に入りますか?」 「いや、」 ロイはかぶりを振り、懐に手を差し込んでから少し迷った。渡すべきか、否か。 だがここで取り出すのをやめては不自然だろう、と考えのない己の仕草に内心で舌を打ちながら、ロイは用意していた封筒を取り出した。 「これを」 「……なんですか?」 「私の連絡先だよ」 封筒を受け取った少年は、ぱちぱちと大きな眼を瞬かせてロイを見上げた。その額を撫でそうになった持ち上げ掛けた指を握り締めてとどめ、ロイは瞳を細める。もう無い左の瞳がずきりと酷く痛んだ。 ああ、空っぽの眼窩、か。 あの頃のアルフォンスもこんな痛みを抱いていたのか、と意識の片隅で考えながら、ロイはゆっくりと微笑した。 「君の兄とはそれなりに付き合いがあった。随分と面倒も見てやったし、私が世話になったことも多い」 「………兄さんが? 大人のひとの、世話?」 「君の記憶の中では11歳ではあるのだろうが、彼は今もう16歳にはなっているはずだ。12の歳に国家錬金術師になっていて、その少し前からの付き合いだから、4年と少し、というところか」 少年は無言で僅かに眉間に皺を寄せた。そんな表情は少しばかり兄に似ていて、記憶の中の鎧の面にその表情が被って行くのをロイは慌てて止めた。 この少年と、鎧の姿でいたアルフォンスは、別の人間だ。 「だから、君が兄を取り戻すというのなら、私はそれに出来る限りの協力をしたいと考えている」 協力、と少年が小さく呟く。そう、協力だ、と噛み含めるように繰り返して、ロイは少年の握ったままの封筒を示した。 「もし何か困ったことがあったら……そうでなくても何か私に出来ることがあれば、いつでも、どんな些細なことでもいいから連絡をしたまえ」 「……………」 「君さえよければ、私は君の後見人になろう。出来る限りの便宜をはかってあげよう」 「………後見人」 「そうだ。……迷惑かね」 「い、いえ!」 少年は慌てたようにかぶりを振り、眉間に皺を寄せたまま眩しいような笑顔を見せた。 「嬉しいです、凄く。その……正直言って、兄さんを取り戻したいって、師匠もウィンリィたちも、あんまり歓迎してないみたいで……あの、ボクまでいなくなっちゃうんじゃないかって心配してくれてて」 「まあ、当然だろうな」 「はい、だからその気持ちはとっても嬉しいんだけど、でも」 「君のしたいことをそのまま認めてくれる者がいないことが寂しいか」 少年は俯いて、小さく笑った。 「………はい。だから」 そのはにかむような笑みに、ロイはいたいけな子供の純真を目の当たりにした大人の抱く罪悪感のようなものに、胸に重しが掛かるのを感じる。 違う。私が君に優しく出来るのは、 (君が大切ではないからだ) 物分かりのいい大人の顔をして、しゃあしゃあと甘いことを言ってのけている、これはただの偽善で欺瞞でこの小さな子供を騙しているだけの、ただそれだけの。 それは愛情ではないのだ、と、そう知ってしまっているからこそ。 ロイはそっと少年の頬に指を這わせた。弾かれたように顔を上げた少年が、驚きに見開いた眼をゆっくりと弛ませて、少し眉を寄せたまま、笑った。 その歪んだ笑顔がどう言った心情により導き出されたものなのか理解出来ないまま、泣き笑いのようだ、とロイは思った。 |
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■2006/3/9 初出:2004.11.19