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「痒いところはございませんかー?」
 赤ん坊の産毛のような手触りの金髪をわしわしと洗ってやりながらふざけた口調で馬鹿丁寧に尋ねてみると、きゃあきゃあと楽しそうな笑い声とともに「ありませーん」とこの年齢の青年にしては高めの声が返された。
 よかったウケた、と安堵しつつロイは金髪の生え際を丁寧に拭う。
 エルリック兄弟の住処のバスルームは清潔で、浴槽が広い。一緒に入って洗ってやるためなのだろう。さすがにロイは男と裸の付き合いをする気はなかったから、アルフォンスが膝を抱えて浸かっている浴槽の縁に腰掛けて世話をしてやっているだけだが。しかし肘まで捲ったワイシャツはびしょ濡れだ。先に着替えればよかった。
 
 事の起こりは今日の昼。
 
 国家錬金術師資格を返上した後も外部スタッフとして研究所に呼ばれているエドワードが、その関係で用事があるとかで中央司令部に弟を伴いやって来たのは午前中。
 その後仕事がずれ込みすっかり遅くなった昼食を取りに赴いた食堂で、兄弟と部下たちと犬が戯れているのを発見したのが午後もまだ早い時間。離れたテーブルにひとり座り、戯れている弟を眺めていたエドワードの向いでサンドイッチとコーヒーの食事を済ませて、兄とともに暫し眺めているとやってきたのは豪腕の錬金術師。
「おお、エルリック兄弟ではないか! 来るなら我輩にも顔を見せろと言ったのに」
 あからさまにイヤな顔で腰を浮かせたエドワードの横を足早に通り過ぎたアームストロング中佐は、かつて兄へとよくやっていたように弟を勢いよく持ち上げた。
「アル!」
 悲鳴じみた声でエドワードが叫ぶが、天井に届きそうなほど高く掲げられたアルフォンスは満面の笑みできゃあっと嬉しそうな笑い声を上げた。
「………座りたまえよ、鋼の」
 なるほど、中身が赤ん坊なら高い高い、とされて喜ばないわけはない。しかも鎧であった頃より高い視点だ。物珍しくて嬉しいのだろう。
 そう考えながら、立ったままはらはらと手を握ったり開いたりしている過保護な兄へと声を掛ける。エドワードはうるせえよ、と呟き視線をアルフォンスにおいたまま、浅くベンチへ腰掛けた。
「久しぶりだな、アルフォンス・エルリック! おお、重くなったのではないか?」
 持ち上げたまま厳つい笑顔でぎゅうと抱きしめたアームストロング中佐に、アルフォンスはえへへ、と笑って頬擦りをした。ぶらぶらと足が宙に浮いている。エドワードへ視線を移すと、アルも友達たくさん作らねぇとな、などと口では寛大なことを言うこの兄は嫉妬全開の眼でその光景を睨んでいる。
 馬鹿兄、と口の中で呟いて、ロイは頬杖を突いた。
「君も抱きしめてもらいたいのかね」
「んなわけあるかッ! アルが抱き潰されるんじゃねーかと思ったんだよ」
「抱き潰したりなどするものか。中佐はちゃんと心得ているひとだよ」
「………俺は何度も抱き潰されたことがあるが」
「君は丈夫だからなあ」
 そういう問題なのか、とぶつぶつと不満げに文句を言うエドワードは、中佐と他男性陣と犬にアルフォンスを任せて近付いて来たリザに、よ、と手を上げた。
「じゃ、大尉。今日頼むね」
「ええ、任せて」
 これ鍵、と飾りもなにも付かない素の鍵をフライトジャケットのポケットから取り出して渡したエドワードと受け取ったリザに、ロイは不審そうに口を曲げた。
「何の鍵だね? 任せるとは一体」
「ああ、今日オレ帰れなくなっちまったの。研究所のほうでトラブル発生とかで泣き付かれて断り切れなくてさ」
「……それと大尉と何の関係があるのだね」
「だからさ、アルを一人で留守番なんかさせられないだろ? 研究所の仮眠室じゃオレは手ェ空かないから見ててやれないし。だから誰かにうちに泊まってもらおうと思ってさ。大尉ならアルも懐いてるし、うちのこともよく知ってるし。ほらアレだ、勝手知ったる他人の家」
「なにがアレなんだか解らないが、その辺の男どもでは駄目なのか。あいつらにもアルフォンス君は懐いているように見えるんだが」
 みるみる不機嫌に眼が座って行く様をにやにやと楽しげに眺めるエドワードの代わりに、こちらは表情を崩しもしないリザが答えた。
「ブレダ中尉とファルマン少尉は本日は夜勤、ハボック中尉は明日早朝から出張、フュリー准尉は先週からの風邪がまだ治り切りませんから」
「アルも風邪引きやすいからな。風邪引きと一晩一緒にいたら間違いなく移っちまうからさ」
「アームストロング中佐は」
「あのひとだけは絶対ダメ。なんかアルが壊されそうで怖い」
 思い切り顔を顰め、エドワードは顔の前に両手で大きくバツを作った。
「………とのことなので」
「しかし男の家に泊まり込むなど」
 不機嫌に言ったロイに、二人は顔を見合わせて笑い合う。それがまた癪に障った。
「なんだ。何も可笑しいことは言っていないはずだが」
「だってさあ、男ったってアルだぜ?」
「アルフォンス君とて立派に青年だろう」
「見た目はな。中身は子供と変わらねェよ。ひとりじゃメシも風呂もろくに」
「風呂!?」
 思わず声のひっくり返ったロイに構わず、エドワードはしれっと続けた。
「髪とかまだ自分じゃ洗えねーからさ」
 
 こいつわざとだ。わざとに決まってる。
 
 畜生可愛くない、と腹の中で呻いて眉間を揉み、ロイはよし解った、とリザへと手を差し出した。
「………なんです?」
「鍵だよ。寄越したまえ」
「何故です」
「私が行くよ。私は明日は非番だ。適任だと思うがね」
 リザは瞬きの少ない瞳でじっとロイを見下ろす。
「少将に子供の世話が出来るとは思えませんが」
「子供と馴染みがないというなら大尉だってそう変わりはないだろう」
 リザはどうする、と言うようにエドワードへ首を傾げて見せた。エドワードは頬杖を突き自堕落に足を組んでにやにやと笑っている。
「まー、上官命令だし? 少将がやりたいっつーんだからオレは構わないけど。アルに風邪引かせたり怪我させたり泣かせたりしたら、そりゃちょっとは覚悟はしてもらうけどさ」
 
 なんの覚悟だ。
 
 そうは思ったが口には出さず、ロイは決まりだな、と差し出したままの手をちょいちょいと振った。リザは仕方ない、とばかりに溜息を吐くとその手に鍵を乗せる。
「ではこんなところでサボっていないでさっさと仕事を終わらせてください。本日の業務は定時までに全て上げていただかなくてはなりませんから」
「って、なんでそうなる!?」
 リザの眼がひやりと光る。
「まさか、アルフォンス君を遅くまで待たせる気ですか? 少将が仕事を終えるまで、彼は司令部で待っていなくてはならないのですよ」
「いやだから、残った仕事は後日回しで」
「明日非番の方が何をふざけたことを。本日中に上げていただかなくては処理が週明けになってしまいます」
「しかしさすがにあの書類の山をあと4時間ではちょっと」
「そうお思いでしたらさっさと取り掛かってください。出来ないのでしたらエルリック家へはやはり私が」
「解った! アルフォンス君のためだ気合で乗り切ろう!」
 早口で言い切りリザを留めて残ったコーヒーを飲み干し、ロイは慌てて席を立った。
「ではな、鋼の! 弟の面倒はちゃんと見てやるから、君は心配せずに仕事をしたまえ!」
 すちゃ、と片手を上げてばたばたと食堂を出て行ったロイにエドワードが大笑いをしている。巨漢の中佐を交えて戯れていた一同が不思議そうに首を傾げたが、エドワードの笑いの発作はしばらく収まることはなかった。

 
>>2

 
 
 

■2004/5/21

4回くらいで終わると思われます。…多分。

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