暗い曇天からひらりひらりとついに雪が落ちて来た。 ああもう今日も積もるか、と溜息を吐いて、エドワードは辿々しい足取りで前を駆けて行く細長い背に転ぶなよ、と声を掛ける。途端昨日から積もりっぱなしの雪に足を取られ、べしゃ、と見事に転んだ弟に言わんこっちゃねぇ、と顔を顰めて駆け寄った。 「だから走んなっつったろ。滑るんだから」 腕を掴んで引き起こしながら、泣くかな、とちょっと首を傾げて見つめてみるが真直ぐ前を見据える大きな金色の瞳は微塵も歪まず、立ち上がった弟は雪を払ってやる間もなく再び一心不乱に駆け出した。 「だーかーら走るなって、アル!」 怒鳴ってみるが聞きやしない。 まったくこいつこんなに可愛げのないヤツだったか、と首を捻りながら、エドワードは背ばかり高い癖に自分よりもひと回り小さな足跡を踏んで前を行く弟の後を歩いた。機械鎧の左足が、かしゃかしゃと小さく音を立てる。 どっか調子悪いのかなと思案しながら歩いていたエドワードは、ふと道端にしゃがみ込んだアルフォンスに気付きまさか、と眉を顰めて駆け寄った。 「喰うなっつーの」 積もる雪を掴んであーんと口を開き今まさに食べようとしていた弟の金髪をぺし、と叩き、エドワードはその白い手を掴んで溶け掛けた雪を払う。 「綺麗に見えても汚ねぇんだっつーの。中央は自動車も多いし北には工場だってあるんだぞ。空に汚れが昇るんだ。汚れが混じった雪喰って腹壊したらどうすんだよ」 「……………」 むう、とむくれて上目遣いに見上げた眼を、なんだよ、と睨み返す。アルフォンスはむくれたままだ。 「アルフォンス」 「……………」 「………リゼルブールの雪なら喰っていいから」 根負けして譲歩すると、アルフォンスはわずかに首を傾げてからにひゃ、と幼児のように口を開けて満面で笑った。 思わず苦笑を返して弟を起こし、服の雪を払って生身の左手ですっかり冷たくなっている白く骨張った手を繋ぐ。 「手袋しろっつってんだろ。風邪でも引いたらリゼンブールに帰るのが遅くなるぞ。ウィンリィもばっちゃんもお前が帰って来んの楽しみにしてんのに」 「兄ちゃんもしてないもん」 「兄ちゃんは大人だからいいんだよ」 むう、と膨れてずーるーいー、ずーるーいー、と節を付けて喚く兄より指一本分身長の高い弟に、ずるくて結構、と返してエドワードは歩き出す。アルフォンスはまだずるいずるいと連呼しながら、それでも素直に手を引かれて付いて来た。 「寒くないか、アル」 「うん」 「早いとこ用事済ませて帰ろうな。帰ったらココア作ってやっから」 「うん!」 ココアココア、と嬉しげに白い息を吐きながらまた歌い始めた弟に笑って、エドワードは繋いだ手をコートのポケットに突っ込んだ。 脳味噌がまっさらなんだよな、と言ったエドワードの言葉通り、戻って来たアルフォンス・エルリックは生まれ立ての赤ん坊よりも何も出来ない肉体だった。 母親の体内や母乳を飲むことで作られる抗体も持ち合わせていなかったからあらゆる感染症に気を配る必要もあったし、筋力も非常に弱く内臓もデリケートで、何より17歳男子の肉体を持ち合わせた赤ん坊を18歳男子が一人で育てることは無理だったから、エドワードはごねたが結局アルフォンスは2年近くの間軍施設の病院で生きた。 退院し、アルフォンスの肉体の造り主で兄であるエドワード・エルリックの監督下で自由に動き回れるようになったのは、ここ半年のことだ。 「記憶はあるんだよ。でもその記憶を理解するだけの知能がないんだ、まだ」 兄の手を借りずにひとりでマグカップのホットミルクを飲めているアルフォンスを見て、ほう、と感心したロイに、エドワードは一頻り近頃のアルフォンスの成長ぶりを惚気た後そう言って頭の後ろで手を組んだ。将軍となったロイの前でこんな自堕落な姿を晒す国家錬金術師はこの青年くらいのものだ。 「ときどき夢見て泣いて起きるしな」 「………夢か」 「今のところただの怖い夢で済んでるけど、意味が解るようになったらそれじゃ済まないかもしれないからさ、側にいてやんないと」 言いながら、早くも飽きたのかきょろきょろと部屋を見回しひょいと長い腕を伸ばして執務机の上の文鎮を取ろうとしたアルフォンスをエドワードはぺしりと叩く。 「ひとのもんに手ェ出すなっつってんだろ」 「………見るだけだもん」 「だったら『見せてください』だろ」 叩かれた頭を撫でながらむう、とむくれているアルフォンスと半眼で睨んでいるエドワードにまあまあ、と片手を上げて、ロイはその座る獅子の形をした銅の文鎮を差し出した。 「アルフォンス君に進呈しよう」 途端にアルフォンスは眼をきらきらと輝かせてロイを見つめる。 「ありがとーございます、たいさ」 甘やかすなよ、とロイを睨んだエドワードはいそいそと受け取ったアルフォンスに大佐じゃねーよ、と訂正する。 「今は将軍」 「しょうぐん?」 「そう、昇進したの。准将に」 「…………もう少将だ」 そうだっけ、としれっと耳を掻くエドワードにわざとじゃあるまいな、と唇を曲げ、ロイはふと機械鎧の右手に眼を遣った。 「ところで鋼の」 「なに」 「その右手と左足は直さんのかね。もう直せるんだろう」 「まあ直せるけどさ、アルが直してくれるっつってるからなあ。意味解って言うんじゃねぇだろうけど、ボクが直してあげるねとか言われるとじゃあ待つか、とか思っちまうんだよな」 エドワードは嬉しそうに文鎮を眺めている弟を頬杖を突いて見遣る。ロイはふむ、と顎を撫でた。 「とはいえ、アルフォンス君が錬金術を使えるようになるとは限らんだろう」 「だから記憶はあるんだって。使えるようになるよ、理解出来るようになれば。錬金術には興味があるみたいだしな」 「興味?」 エドワードはにひ、と笑う。 「最近のこいつのお気に入りはアルの抜け殻だ」 「というと、あの鎧か」 そう、とエドワードは頷く。何年も弟の魂の拠り所でその生を守ってくれていた鎧を捨てるには忍びないからと、エドワードは現在居住している家にかつてのアルフォンスを保管していた。 「仲立ちの錬成陣が好きみたいだな。ほっとくと何時間でも見てるし、構築式はまだ書けねぇから全然意味のない落書きだけど、この頃のお絵書きっつったら全部錬成陣もどきだ。多分もうじき簡単な錬成ならできるようになるよ」 ふむ、とロイは感嘆の息を吐く。 「さすが天才錬金術師エドワード・エルリックの弟だ」 「まーな」 「………謙遜くらいしろ」 「あんたに謙遜してどうすんだよ」 しゃあしゃあと言ってクッキーをつまむ国家錬金術師に、ロイはまったく、と溜息を吐いた。 「溜息多いぜ。歳なんじゃねェの、将軍」 「うるさい」 生意気な青年を睨み付け、ロイは飽きもせず文鎮を撫でているアルフォンスを眺めた。 「しかし、だとすると随分と時間は掛かってしまうだろう。機械鎧は色々と面倒じゃあないか?」 「まあね、またちょっと調子悪いからリゼンブールに戻ったら見てもらわにゃならねーし。でもこの状況も一応予想の範囲内ではあるからさ」 アルフォンスもそれを知っていたのだと口許までカップを寄せ、もう大して熱くもない紅茶を冷ますふりをしながらエドワードは言う。 『ボク、兄さんみたいな天才じゃないから時間掛かるかもしれないよ。赤ちゃんが大人になるくらい掛かったら困るよね』 もしそうだったら、さっさと研究所でも病院でも預けて恋人とか奥さんとか見つけていいからね。 ちゃんと錬金術使えるようになったら、絶対兄さんの手足戻しに訪ねて行くから。 どうせ兄さん、自分じゃ面倒がって直さないつもりだろ。 アルフォンスの口調を真似て言い、結局口を付けずにカップをソーサーへ戻してエドワードは頬杖を突いた。とろけそうな、妙に穏やかで幸せそうな笑みがその口許に浮かんでいる。 娘が生まれて間もない頃の亡き親友もこんな顔をしていた、とロイは思う。 この手の中にいる雛が、愛しくてたまらないと言う顔だ。 「馬鹿だよなあ。待つっつってんのに」 「兄ちゃん、バカって言っちゃダメ」 めっ、と睨んだアルフォンスに笑ってエドワードはお前のことじゃねーよ、とその短い金髪をくしゃくしゃと撫でた。その甘い仕種にブラコン、と口の中で呟いて、ロイは溜息を吐いた。 |
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■2004/5/10
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