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 今のうちに刷り込んでおけば便利かも、とそそのかされはしたものの、たった三歳児ではどれだけ女性がいいものでどれだけ男がむさ苦しいものかを説いたところで意味が解らないだろう(解られても嫌だ)。
 なので取り敢えず牛乳を与えて見ることにしたのだが、結局飲んでくれない。
 どうも味が好きだとか嫌いだとか言うよりもただ飲みたくない、のほうが強いようだと何度目かの牛乳戦争を勃発させて気が付いて、ロイはホットミルクの入ったマグカップをえいえいとテーブルの端に追いやって黙々とパンを噛んでいる幼児を頬杖を突いて眺めた。
「君の弟は」
 ちろり、と金の眼がロイを窺った。ごくん、と頬張っていたパンを呑み込む。
「幾つなんだったかな?」
「まだひとつ。ちっちぇんだぜ。おむつしてるしー」
「牛乳は飲むか?」
 嫌そうに顔を歪めたエドワードに地雷だったか、と考えながら黙って答えを待つと、幼児はついと目を逸らした。
「べー……べつに、アルは飲むことないんだ。おかあさんのおっぱい飲んでればいいんだ」
「一歳と言ってもそろそろ二歳くらいにはなるんじゃないのか? もう乳離れはする頃だろう」
「いみわかんねー」
「……あー、だから、おかあさんのおっぱいはもう飲まないだろうと言っているんだ。いや別に飲んでいてもいいが、牛乳も飲むだろう? 飲まないのか?」
 ぐ、と言葉に詰まり視線を泳がせてあからさまに顔を背けたエドワードに、ロイは溜息を吐く。
「弟が飲んでいるのになあ……」
「なっ、なんだよ! いいだろ別に! 大体おかあさんもおとうさんもヘンだよ! にいちゃんだから牛乳飲むんだって、ヘンだろ!」
「……うん?」
 なんだか会話がおかしい。幼児との対話は比較的意味が通じ合ってはいたから、多分何かこちらが汲み取れない意味のことを言っているんだなと考えて、ロイはしばし思案した。
「………エドワード、君が一番最初に牛乳を飲めと言われたのはいつなんだ?」
「え、知らない。おぼえてねえよそんなの」
 首を振り、けれどそれでも律儀に首を傾げてエドワードは記憶を探っているようだった。
「アルがうち来てからだ」
「うん?」
「おとうさんが……」
 むうと、眉を顰めて、おかあさんはアルにおっぱいをあげなきゃいけないからお前は牛乳を飲むんだぞ、兄ちゃんなんだからな、と言ったのだとエドワードは唇を尖らせた。
「ヘンだろそんなの! だってアルだって赤ちゃんのとき、ずっとおっぱい飲んでたわけじゃないんだぜ! そりゃ、寝てるかおっぱい飲んでるかおしっこしてるかどれかだったけど、でもおかあさんだってオレといるときもいっぱいあったのに……」
「あー……」
 うーん、と呟き、しかし妊婦は授乳できるものなのかなあと考えて、多分一度乳離れしたのに弟の授乳を見ている間に恋しくなって強請るようになり、だから牛乳を与えられたのかな、と結論付けて、ロイはひとり頷いた。
「なるほどな。牛乳に罪はなさそうだ」
「なに言ってんだよ、アタマ大丈夫か?」
「至って正常だ」
 ロイは理不尽に追いやられていたマグカップをとった。
「別に君のおかあさんのおっぱいの替わりなわけではないが、牛乳に敬意を示して飲んでやれ」
「はあ? ……牛にとか農家のおじさんにとかは言われたけど、なにそれ。牛乳って生きてないじゃんか」
「酪農家のひとは売買が成立した段階で金は貰っているからこれが君の腹に収まろうが流しに捨てられようが関係ないし、牛に至っては搾乳されたらそれまでだ。だが、この牛乳は君が飲んでやらなければただ捨てられてしまうんだぞ。可哀想じゃないか」
 うええ、と呟き、幼児はカップの中の温くなってしまったミルクを眺めた。ちろり、と上目遣いに金眼がロイを窺う。
「………飲まなきゃ、ダメ?」
「できれば飲んでほしいところだな。無理強いはせんが」
 15歳になってもまったく飲めないのだから、敬遠する事情があった(推測)とはいえ味も匂いも駄目なのだろうし望みは薄そうだ、と考えながら控えめに勧めると、エドワードはもう一度うえ、と舌を出してしばし逡巡し、それから意を決したようにがっとカップを両手で掴んだ。
 おお、と眼を瞬かせて眺めていると、勢いよくあおりぐーっとカップを傾け、そこでぴたりと動きが止まる。
「マズーッ!!」
 ぶはっと盛大に吹き出しげへげへと噎せ、エドワードは無理無理と首を振った。
「まずっ! こんなん飲みもんじゃねー!! ゼッタイ飲まねー!!」
「……………。……それは残念だ」
 吹き出され思い切り浴びせかけられた牛乳を滴らせながら、ぐったりと脱力してロイは呟いた。
 
 
 
 
 
 育児というのは大変だ、と改めて親友の奥方や世の中の母親に敬意を感じながら、ロイはよろよろとベッドに上がった。先客が嫌そうに顔を歪める。
「ぶさいくな顔だな」
「なんで入ってくんだよ!」
「仕事をしてきた上に一日子供の世話をして風呂にも入れてやった相手にソファで寝ろというのか。鬼か貴様」
 君が豆粒だから大丈夫充分だ、といい加減に言いながら潜り込むと、どか、と腹を蹴られた。
「………あのな、君」
「豆粒ゆうな!! お前なんかよりでっかくなるんだからなッ!!」
「いやあ、望み薄だろう」
「なんで解るんだよ!?」
「私は未来が解るんだ」
 真顔で言うとエドワードは僅かに怯んだ。
「嘘に決まっているだろう」
「お、オトナがウソつくなんてひきょーだ!!」
「理屈が解らん」
 もう寝ろ、とぽんぽんと頭を撫でて眼を閉じると、子供はまだぶつぶつと文句を言っていたが、やがて静かになった。薄く眼を開けて窺うと、ぐうぐうと小さくいびきを掻いて眠っている。
 そう言えば鋼のはときどきいびきを掻くな、鼻が悪いんだろうかと考えながら、その小さな鼻の頭をちょいとつまんでむーむーと呻かせて笑い、ロイはもう一度眼を閉じた。
 
 
 
 
 
 ちょいちょいと髪を軽く引っ張られる感触に眉を顰め、ロイは薄く瞼を開いた。
「お、大佐おはよう。この傷どした?」
「………あー、」
 鋼の指で黒髪をいじって遊んでいた子供は左手の指の背でちょいちょい、とロイの左の目元をつついた。
「夢か……」
「はあ?」
「なかなかリアルな夢だった……」
「いや、解らん。つか、だからこの傷どしたって。あとなんでオレここにいんの」
 いやよかった夢だった、と安堵したところでもう一度寝ようと眼を閉じたロイは、ばちりと勢いよく瞼を跳ね上げ飛び起きた。夜着の袖をまくり、散々引っ掻かれたミミズ腫れと蹴られた青痣を確認し、うわなに虐待? いじめ? と眉を寄せて覗き込んでいた子供の左手を掴んで昨日自分が切ってやった爪を見る。案の定、へたくそにぎざぎざのままだ。
「……………」
「なあ、なんだよ。アルどこ行ったか知らねえ? オレ確か中央にいたと思ったんだよなー。なんでアンタんちにいるんだろ」
「アル………」
 はっとしてベッドから飛び降りると、おいちょっとなに、と状況においてけぼりの元凶が戸惑った声を上げた。
「アルフォンスだ!」
「はあ?」
「知らせないと!」
「なに………」
 制止しようと上げ掛けた手をそのまま、エドワードはどたばたと居間へと行ってしまった恋人を呆然と見送った。
「………なにがあったんだ?」
 当然、答えてくれる者はいない。

 
 
 
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■2005/8/2
いやほら…14巻がですね……(目逸らし)
しかし3歳児ってこんなにはきはき喋れるのかな…(あやしい)

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