冷汗が引かない。
万が一今後後ろでするのが好きだという女性と付き合う機会があったとして、絶対に後ろを使うことはしないでおこう、とロイは心に決めた。なんだかもうセックスが嫌いになりそうだ。気持ち良いとか悪いとかいう問題以前だ。どこが性行為だ。科学実験か医療行為がまだ近い。
とはいえエドワードは『調べて来た』の言葉通り手順はきちんと踏んでいたようだし(推測)、若い性衝動をコントロールするのは大変だったろうに自制心を総動員してかなり気を遣っていたようだ、というのは解った。お陰で怪我は(多分)ない。
が、怪我がなくともこの気分の悪さは残るわけで。
最中ほどではないが、まだ内臓は引っ掻き回されたかのような違和感があるし視界を細かな星は飛んでいるし痺れる手は冷たいし血の引いた額には冷汗が浮いているし。
昔訓練の最中に骨折したときを思い出す。あのときもどっと冷汗が浮いて視界に星が飛びまくりがくがくと身体が震えて立っていられなくなったのだった。
そんなことを考えながら、ロイはふらりと起き上がった。腹筋の上をつうと粘着質の液体が流れる。自分がする立場のときは考えたこともなかったが、冷えた精液は気持ちが悪いものなんだな、となけなしの思考で考え、ロイはベッドから降りて散らばった衣服を掴んで扉へ向かった。
「………どこ行くの? 風呂?」
寝惚けた声が背中に掛かる。ふらふらと大きくよろけて壁に手を突きながら、ロイは「便所」と端的に答えた。途端にがばりとエドワードが飛び起きる。
「具合悪いのか!?」
「ちょっと吐いてくる」
「吐くって……!」
「シャワーも浴びて来るから先に寝ていていいぞ」
言って振り向く余裕もなく寝室を出、ロイは手洗いでひとしきり吐いてからバスルームへ向かった。吐くと一応気分は改善される。
嘔吐は体調をリセットするな、と考えながら浴槽にべったりと座り込んでシャワーを浴び、ああ疲れた、とふらふらと寝室へ戻るとベッドの上にエドワードが正座していた。衣服はきちんと上着まで付けている。
「なんだ? 寒いのか」
エドワードは俯いたまま無言でかぶりを振った。
変なヤツ、と首を捻りながらロイは寝台へと潜り込む。
「鋼の。眠くないのか?」
エドワードは答えずにロイを見下ろした。その眼がなんだか泣きそうだ。ロイは瞬く。
「………どうした?」
「身体、大丈夫?」
「ああ」
そんなことを心配していたのか、とロイは苦笑を浮かべる。
「吐いたら楽になった」
「そっか」
ほ、と息を吐きぎこちない笑みを浮かべて、エドワードは寝台から降りる。
「………じゃあ、オレ帰るから」
「は?」
なんだ、ヤりに来ただけなのかお前は。
さすがにむっとしたロイは半眼でエドワードを睨んだ。
「やるだけやったら帰るのか? なら娼館にでも行けばいいだろうに」
「そうじゃねェよ!」
エドワードは悲鳴じみた怒声を上げた。
「じゃあ何だ? 今日は帰れないんじゃなかったのか? それともアルフォンス君が宿の娘さんに懐かれてとかいう話は嘘か」
「嘘なんか吐いてない!」
「じゃあ何なんだ。この寒い中一晩中ほっつき歩くつもりか?」
「だって」
エドワードはもうほとんど半泣きだ。
「………大佐、すげェ顔色悪いし。なんか、無理させたみたいだし、オレ」
「あー……まあ無理と言えば男とやろうというのが大概無理な話なんだが……」
ロイは改めて認識した。
そうか、こいつとしたのは合意の上での(物凄く譲歩して合意ということにする)セックスなんだった。科学実験でもなんでもなくて。
抱いた相手が達しないばかりか「吐く」とか言ってさっさと消えてしまったわけだから、童貞にはショックは大きいかもしれない。
「あのなあ、鋼の。お互い初めてのセックスが上手く行くわけないだろう」
エドワードの大きな眼がロイを見下ろした。目玉がこぼれそうだ、と考えロイは思わず頬を笑みに崩す。なんだか思考が飽和状態だ。
「女性だって初めてのときは気持ち良いなんてことはまずないんだぞ。何度か繰り返して、段々慣れて快感を得るようになるんだ。女性よりも性感帯の少ない男が相手で最初から快感を与えようというのはちょっと難しいと思うが」
「………そういうもんなの?」
「そういうものだ」
「でも、酒場のにーちゃんとかは」
「本職を参考にするな、バカか君は。彼らはそれが商売なんだ。玄人のテクニックなど童貞の君にあるわけがないだろう」
「バカとか言うなよ落ち込んでんのに」
バカはバカだろう、と笑い、ロイは毛布を捲った。
「ほら、さっさと寝ろ」
エドワードはしばらくロイを見つめていたが、ほら早く、と急かすとのろのろと上着を脱いで隣へと潜り込んで来た。ひたりと寄り添う仕種は心細げな子供そのものだ。
その子供の肩へと腕を乗せ、ロイはふー、と息を吐いて眼を閉じた。身体中がどろどろに溶けそうなほど疲弊している。重力に負けそうだ。
「………なあ、大佐」
「んー……?」
戸惑いを含むような囁く声が、しばしの逡巡のあと「ごめん」、と呟く。
ロイはふと片目を開け、エドワードの襟首を掴んでぐいと持ち上げその唇にひとつ口付けを落した。
歯を立てるでもなく濃厚に舌を絡めるわけでもない、ただ唇で軽く子供の下唇をくわえ微かに音を立てて離すだけの、ロイにしてみれば『ちょっと親しい』程度のさらさらとしたキス。
唇が離れた途端襟首を掴んでいた手がぱたりと落ち、ロイは寝息を立て始めた。
その想い人を呆然と見つめ、エドワードはみるみるうちに顔へと血が昇るのを意識した。
ほんの1秒のとても軽いキスが、驚くほど気持ちが良い。
畜生こいつほんとにたらしだ、と呟いて、エドワードは唇に指を当てた。その指が笑えるくらいに震えているのが解る。
寄り添う子供があっという間に熟睡してしまった寝顔を見つめながら、そのうち絶対気持ち良いって言わせてやる、と物騒な誓いを立てていたことを、待ち焦がれた眠りを貪るロイは知るよしもない。