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緑眼の悪魔を飼うほうが、きっとあなたには優しく、容易い。

 
 
 
 
 
 
 
 図書館で専門書を積み上げ読みふけっていた弟は意外なことに怒ってはいなかった。
 どうせ明日には戻るのだし中央で待ってるか、と一応尋ねたエドワードに、もし予定が変更になった場合に落ち合う手間があるから同行すると頷いたアルフォンスは、改めて考えればそのときも、そのあとの列車の中でもいつもより僅かに口数が少なかったかもしれない。あまり騒がしい、という形容詞の似合う人間ではないが、それでも決して大人しい少年ではないというのに。
(………大丈夫かな、アル)
 家主の戻らない家のソファで背を丸めて組んだ足に頬杖を突き、視線の先の床を見つめて今はホテルで今日読んだ本のまとめを作成しているはずの弟のことを考える。
 本当は一緒に研究をすべきなのに文句も言わずに送り出してくれた弟に、恋人が出来てからほとんど初めて、僅かながらに後ろめたさを感じた。そんなことを考えていると知れれば、多分アルフォンスは今度こそ、烈火の如く怒るのだろうけれど。
 
 これから会うはずの男のことは、不思議と脳裏に薄かった。
 
 ほんの僅か、けれど絶対的に足りていなかった呼吸を思い出させてもらったような気持ちになる。きゅうきゅうに締め上げていた襟を緩めたような安堵を感じる。
 大丈夫だから、と。
 そう、第三者に言ってもらえたことが、エドワードを楽にした。
 ただひたすらに、瞬きも惜しいと見つめて、ただでさえ解らない相手なのだから何一つ見落としてはいけないと───そうして来たことで、却って目が眩んでいたのかも知れなかった。
 エドワードの側から彼を見ているアルフォンスには見えなかったことなのだろう。見えていたのならあの聡明な弟のことだ、フォローに奔走したに違いない。
 ロイの側にいる人間だからこそ、ヒューズには見えていたのかもしれなかった。
 エドワードをただの子供として、ロイをただの男として見ている人間だからこそ、ヒューズは笑って馬鹿だな、と言えるのだ。
 何も、特別なことはないと。
 エドワードが恋をしている相手はか弱い少女ではなく、力強い、大人の男なのだからと。
 
 エドワードは身を起こし、背もたれにもたれた。家主はまだ戻らない。午後も遅くなってから司令部を訪ねると、少々遠方に視察に出ているため戻りは深夜に近く直帰であると告げられて、こうして合鍵を使い先日飛び出して来たばかりの家へと上がり込んでいるのだが。
 壁時計がちくちくと音を立てる。電球が古くなっているのかいくらか暗い照明の下、家具の影が濃い。見上げた天井の四隅に魔物が張り付いているかのようだ。
 けれどその魔物は僅かな不安とともに安堵を呼ぶ。
 
 魔物の名を、夜と言う。
 
 
 
 
 
 
 
 ばん、と、外で車の扉が開閉する音にふっと目覚めた。列車の中でアルフォンスに無理矢理毛布を巻き付けられて少しばかり仮眠は取ったが一昨日からほとんど眠っていなかったせいで、少しばかりうとうととしていたらしい。
 耳を澄ませていると車の走り去るエンジン音がして、続いて玄関の扉が静かに開閉された気配がした。こつこつと、廊下を硬い踵が、けれど静かに打つ。颯爽とこの家を出て行くときや軍部で会うとき、その軍靴は高らかに音を立てて姿勢良く大股で歩くのに、そうではないときの彼の仕草は密やかで大人しい。強く存在感を示すことで鮮烈な印象を与えてはいるが、元々の彼は存在感の薄い、静かな人間なのかもしれないとエドワードはふいに思った。
 立場、というものに相応しい自分を演出することは、多分大人であるのなら誰でもやっていることなのだろう、と思う。
 エドワードやアルフォンスにはまだ必要のない生き方だ。
 いずれ必要になるときが来るのだろうか、と考えながらリビングの扉を見つめる。ゆっくりとノブが回り、外気を纏って現れた男はその白い顔に表情を乗せないままに、微かに嘆息した。
「───君か」
「誰だと思ったんだよ」
「鍵を捨てなかったのか」
 コートをコート掛けに掛けながらの言葉に、エドワードは小さく肩を竦めた。
「ひとんちの鍵をそうほいほい捨てられるか」
「鉄屑にでも変形させて捨てればいいだろう。君なら一瞬だ」
「………アンタこそ、鍵取り替えてねえじゃん」
「昨日の今日で無茶を言うな、そんなに暇じゃない。大体変えたところで君には意味がないだろう。入ろうと思えばいつだって侵入できる」
「不法侵入なんかしねえよ」
 語気を荒げるでもなく、けれど冷淡な口調のままのやりとりにエドワードは話の糸口を掴み損ねて眉を顰めた。どうした、何故来た、と尋ねてもらえれば、それで話をすることが出来るのに。
 着替えるのか軍服の襟を緩めながらさっさと寝室へと入ってしまったロイの背中を目で追って、エドワードはふいに、いつもはそうやって、自分が話しやすよう、会話が成り立つように誘導してもらっていたことに気付いた。
(………うわ、マジでガキなんじゃんオレ……)
 隣室のクローゼットや引き出しを開閉する音を聞きながら、エドワードは掌で口元を覆う。対等に見られたいと思いながら、こんな些細なことですらどれだけ気を遣わせていたのかにも気付いていなかった。
 き、と小さく扉が軋む。目を上げれば扉に手を突いたまま、男が無表情にこちらを見ている。小さく首を傾げたその仕草をしばし見つめ返して、エドワードはその姿にひとつ瞬いた。
 着替えなど疾うに済ませていておかしくない時間隣室でごそごそと何かしていたというのに、ロイは軍服の上着を脱ぎ長靴を脱いだだけの姿だ。一日着ていていくらか皺の寄った白いワイシャツのボタンがいくつか外されていて裸足の、まるで今から仮眠を取るだけのような格好に、子供は首を傾げる。
「………なに? 風呂でも入んの? もしかして明日早い?」
 訪ねて来て迷惑だったか、と訊けば、ロイは答えずにゆっくりとエドワードへと歩み寄った。
「大佐?」
 伸ばされた骨張った長い指が、胸倉を掴む。
「たい……ッ、」
 ぐ、と横様に引きずられてエドワードはソファから転げ落ちた。胸倉を掴んだ手に引き上げられて背は打たずに済んだが、仰向けに転がされ腰骨の上に跨れて身動きが取れない。
「ちょ、なに」
 襟元を離れた冷たい手が額を押さえ付けた。指の隙間から天井が覗く。
 鎖骨のあたりをぬるり、と這った酷く熱い濡れた肉が舌だと気付き、エドワードは息を詰めた。
「大佐!! こら、オレ今日はそういうのしに来たんじゃねえ……ッ、」
 じたばたと暴れる手首を掴む手は冷たいのに、すうと耳許に寄せられた唇から洩れる息が熱い。
「────俺がしたいんだ」
 緩く耳朶を食む唇は乾いていて欲の欠片も感じさせはしないのに、囁く掠れた声は酷く濡れている。
「嫌なら眼を閉じていろ………」
 溜息のように、力の抜けた語尾にエドワードはかっと身体中を駆けめぐった熱に唇を噛んだ。こんなあからさまな誘いを掛けられて冷静でいられるほどの自制心は、年若い自分はまだ持たない。
 抵抗の止んだ手を解放し、黒髪が耳許から離れた。シャツの裾から入り込むつい先程まで冷たかった手は見る見る熱く火照り微かに震えて、エドワードは僅かに混乱する。
 こんな風に性急に、この男が欲に堕ちて行く様は初めて見た。
 めくり上げたシャツから覗く子供らしからぬ鍛えた身体に小さく口付け性感を煽るその唇がなくても、エドワードの中で熱は勝手に膨れ上がり思考を呑もうと暴れる。息を詰めて生身の掌で口元を覆いその熱をやり過ごそうとしてみるが、ずきずきと痛むほどにこめかみに目元に上る血流は激しさを増して、男の骨張った、見た目よりもずっと硬く無骨な指が下肢をゆるく撫でたときにはやはり血の降りたそれはすっかりと張り詰めていた。
「たい……さ、オレ、先に───話を」
 聞く耳を持たないのか返事をする余裕もないのか、震える指がベルトを引き抜き下衣を緩めた。
「大佐!! 聞けよ少しは!!」
「………うるさいな、エドワード」
 歌うように、囁くように名を呼んだ濡れた声は掠れていて、エドワードは愕然として身を起こし掛けた。その肩を大きな掌が押さえ付ける。
「少しは俺の望みを叶えてくれてもいいじゃないか……?」
「だっ…から、しねーとは言ってねーだろ! アンタにこんなことされて平気でられるほど枯れてねーんだよオレは!! でも先に話くらいさせ、」
「俺は話はないな」
 ふいに、唇が欲の先端を掠めた。痺れるように走った快感にエドワードは息を詰める。
「………したいだけだ」
「────やけくそで突っ込まれるのはヤなんだけど!!」
「やけくそなのは君だろう? 大体君に突っ込んでも面白くない」
 え、と金眼を瞬かせるうちに、自らの下衣を緩めながら伏せた黒髪がゆっくりと子供の欲の輪郭を舌で辿った。エドワードは息を詰め、歯を食い締める。湧き上がる快感と理性を焼き切りそうになる欲とは裏腹に、泥濘のように不安が広がる。
 
 この男は何を言っている?
 
 普段なら絶対に考えられない行動と言葉だ。いつだってこの男はエドワードと身体を重ねることには淡泊で、自ら求めてくることはほとんどない。稀にあったとしてもそれは大抵あまり有難くない理由の自虐に似た行動で、だからエドワードは彼が積極的に自分を求めて来るときには慎重にその感情を覗かせない真っ黒な穴のような眼を覗いていたのだけれど、でも今日はそれすら許されていない。
(───キス、)
 そうだ、と思いついてエドワードは頭を上げてそろそろと黒髪を見下ろした。自身をゆっくりと愛撫する舌に語尾が乱れないよう慎重に言葉を紡ぐ。
「………大佐、キスしよう」
「しない」
 そうすれば瞳を覗けるかも知れない、と考えたエドワードの提案は、あっさりと却下された。
「したくない」
 黒髪の合間からちらりと覗いた舌が妙に充血して、赤い。色付き始めた首筋の膚もまるで身体を重ねた後のような酷く食欲をそそる色合いをしていて、押し倒してやったらどれだけ気分がいいのだろうと考えそんなことを思う自分に咄嗟に嫌悪する。話をしに来たというのに、簡単に欲に負ける自分が気に食わない。
 はあ、と耐え兼ねるように薄い唇から熱い息が洩れた。見た目ですら微かに震えているのが解る指が、俯いた口元を拭う。表情は前髪に隠れて見えない。
「大佐? ………アンタ、なんか変じゃねえ?」
「お前こそなにか変だな、普段ならがっつくくせに。───いいから黙って寝ていろ」
「んなこと言ったって、」
「いいから黙って犯されろと言ってるんだ」
 ゆっくりと、見上げた黒い眼が濡れている。けれどその闇色の昏さにエドワードは顔を強張らせた。大人の大きな掌が、そうっとやわらかで壊れやすいものでも包むように、瞼を覆った。
「────嫌なら、眼を閉じていろ………」
 そっと瞼を押さえて去ったそのかさついた指先は、けれど酷く熱を持っていて。
 時折乱れる密やかな息遣いと、膚に口付ける微かに濡れた音と、ガラスの擦れる音がして、程なく水音が響いた。震える指が油剤を掬いきれずに落としたのか剥き出しにされた腹を水滴がいくつか滑る感触がする。その腹筋の上に黒髪が触れ、汗に濡れた額が落ちた。縋るように、投げ出されていたエドワードの左手を大人の右手が握る。その震える肌を握り返し、エドワードは鋼の右手で瞼を覆い、きつくきつく眼を閉じた。
 なまめかしい息遣いに煽られる情欲とは裏腹に、完全に意志を無視されたことが酷く、悲しかった。
 手酷い手段で拒絶されているのだと知り、エドワードはただ唇を噛み締めた。

 
 
 
 
 
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■2005/10/20
緑の眼は嫉妬の眼。グリーンアイドモンスター。
自分だけ楽になっちゃダメです兄さん。

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