『結婚する。子供が産まれるんだ』 そう言ってあの若き天才が銀時計放って寄越したのはもう何年前になるだろう。 ゆうに10年は経つだろうその別れを思い返しながら、ロイは銀の懐中時計を開いた。見るたび遅々として進まない長針がようやく二度周り終え、約束の時間まであと8分。 こつこつ、と扉を叩くその音は有能な副官のリズムで、ロイはノックの音が消える前に入りたまえ、と入室を許可した。 扉を開き現れたリザは誰何も忘れた上司に苦笑することもなく、その眼だけに僅かに微笑を浮かばせて、ほんの少し嬉しそうな声色で告げた。 「エドワード・エルリック氏をお連れ致しました」 「通せ」 立ち上がりながら許可をすると、リザは身をずらして入り口を開ける。リザの身に押さえられた扉の向こうから、10年前より更に視線が高くなり、身体から子供っぽい丸みが全て失せた骨格のがっしりとした青年が現れた。 青年は眩しげにその鋭さを増した切れ長の金の瞳を細め、にやりと唇を歪めて機械鎧の右手を上げ、笑った。 「よ、将軍、久し振り。まーだ中将なの、アンタ」 とっくに大総統になってると思ったのに、と皮肉を放つその口調はそれでも親しげで懐かしく、ロイは皮肉の応酬も忘れてつい破顔した。 「久し振りだな、鋼の。すっかり大人になって」 「それオッサンくさい。てか、アンタはオッサンになったよな。あとオレもう鋼じゃねっての」 「そうだったな。まあとにかく入れ。お茶を持ってこさせよう」 突っ立ったままのエドワードにそう言うと、かつての国家錬金術師とリザの視線が共に青年の足下へと落とされた。ロイは瞬きをしながらその目を追う。 もじもじと動く小さな手が、エドワードの服の裾を掴んでいる。 「ほーら、挨拶しな、アルフォンス」 「アルフォンス?」 そっとエドワードの生身の左手に肩を抱かれ、その背後から姿を現した少年は酷く激しく瞬きを繰り返し、怯えたような、惚けたような顔で薄く笑んだ。 ぺこり、と頭を下げるその仕草に、どこか憶えがある。 「こんにちは、将軍」 「何将軍だ?」 少年はエドワードを見上げ、不審そうに首を傾げた。その呼吸は揃わず浅く、ぜいぜいと軽く雑音すら混じるのを聞いてロイは眉を顰める。 「マスタング将軍だろ?」 仕方がないな、と言う顔でそう告げて、エドワードは少年の肩を抱いたまま入室した。お茶を、と言い残して副官が去る。 「……鋼の、その子は? 息子か? そう言えばアル……弟はどうした」 断りなく昔と変わらぬ図々しさでどかりとソファに座り、少年の手を軽く引いて隣に座らせたエドワードの向かいへと腰掛けながら尋ねると、青年はにやりと楽しげな笑みを浮かべ、少年の肩をぎゅっと抱き寄せて見せた。 「いるじゃねーかよ、アンタの目の前に」 「………なんだと?」 「こいつだよ」 こいつが、『アルフォンス』。 ロイはまじまじと少年を見つめた。 年の頃は10歳になるかならないかというところだろうか。短く揃えた茶に近いダーティブロンドに、瞳は金と言うには緑が強すぎてどこか異様な輝きだ。病を患う者のようなその眼の輝きを、くっきりと浮いた隈と多すぎる瞬きが強調する。 顔立ちはエドワードにはそう似ておらず、優しげな印象がある。ただ酷く痩せ頬も痩け、子供らしい丸みと柔らかさを一切欠いたその身体は痛々しいばかりだ。 呼吸は浅く忙しなく、肺がひとつ欠けた病人がこんなだったかな、とロイは頭の隅で思った。 「………成功したのか?」 何が、と言わずともそれは知れたようだ。 エドワードはどこか嘲るような笑みを浮かべて、まあね、とだけ言った。 「………おとうさん」 ぎゅう、とエドワードの袖を掴んだ少年が、微かな声でそう呼んだ。ロイは眉を顰める。そのロイに取り繕うように、少年の頭を優しく撫でたエドワードは苦笑を向けた。 「ちょっと記憶が混乱しててね……ほとんど昔のことは憶えてねーんだ。何度兄貴だって言って聞かせても、あの女が息子みてーに育てちまったから親父呼ばわりすんだよ」 「あの女? 奥方か」 「とっくに別れたからどこで何してんのかは知らねーけどな」 頭の隅で警鐘が鳴っている。 たしかにエドワードは傍若無人な少年ではあったが、ここまで他人を悪し様に言うようなことはなかったように思う。気心が知れていればなおさら、乱暴な物言いの奥に親しさが見え隠れするような、そんなどこか甘さの混在する子供だったはずだ。 しかし、十代から二十代への10年は長い。 変わってしまったと言うことなのだろうかと、どことなく落胆している自分を嗤いながらロイは眼を細めてアルフォンスを見た。 「………具合が悪そうだが、大丈夫なのか?」 「ああ、いつもだから。肉体に欠損はないんだけど、自律神経がちょっとな。精神と魂が馴染んでねーのかも。まだ昔よりはマシになったんだけどな」 「そうか……」 アルフォンスは不思議そうにエドワードとロイを見比べている。 「そういえば、子供が産まれるとか言っていなかったか?」 母親と共に去ったのだろうか。 そう思いながら尋ねると、エドワードはああ、とそっけなく答えた。 「死んだよ」 ロイは瞬く。 「……病気か?」 「うん、まあそんなとこ。……いいじゃん、そんな話はどうでも」 それよりさあ、と話題を逸らしたエドワードに眉を顰めつつ、ロイは尋ねられるままに近頃の国の情勢や部下たちの様子を話し、エドワードが今住んでいるという西方の話やアルフォンスの様子を聞いた。途中でリザがコーヒーを運んで来て、小一時間も雑談したところでエドワードが腰を上げた。 「仕事の邪魔しちゃって悪かったな」 「いや、将軍職ではそう雑用のような仕事はないし、何もなければ暇なものだよ」 「そっか、いいご身分だな。……それよりさ、ちょっと司令部の中、見学してっていいか? アルに見せてやりたいんだ。少しでも思い出すかもしれないし」 ロイは首を傾げてアルフォンスだという少年を見る。 「………その子は本当にアルフォンス君なのか?」 「失礼だな」 エドワードは苦笑する。 「アルだよ、間違いなく。最近は全然だけど、もっと小さい頃はたまにオレのこと兄さんて呼んだし、誰に言われなくてもウィンリィの名前も知ってたんだ」 「……………」 「記憶が戻れば、精神も安定するはずだ。そうしたらもう大丈夫」 自信満々に言い切って、エドワードはアルフォンスの肩を抱いた手に力を込めた。アルフォンスはこんこん、と小さく咳をする。乾き切れた唇から、ひっきりなしに浅い乱れた呼吸が洩れている。 「……ホークアイ中佐に通行証を書いてもらいたまえ」 「サンキュー」 に、と笑い、青年は昔と変わらぬ乱暴さで扉を大きく開いた。 「んじゃな、将軍。しばらく中央にいる予定だからさ、また来るよ」 「明日か明後日あたりに食事でもどうだ?」 「アンタと飯食ってどーすんだよ。中佐も一緒なら考えないでもないけど。アル、中佐には懐いてたから何か思い出すかもしんないし」 「……誘ってみよう。どのホテルに滞在しているか、中佐に伝えておけ」 相変わらず弟のことで頭がいっぱいらしい青年に溜息をついて見せると、エドワードは再びにっと笑ってアルフォンスの手を握った。 「ほら、挨拶しな、アル」 「さようなら」 ぺこん、と頭を下げた少年の、それが今日三言目の言葉だったと気付いて、閉じた扉を見ながらロイはもう一度溜息を吐いた。 鋼の錬金術師の弟は、あんな寡黙な少年ではなかった。 聡明でしなやかで意外と強かな、天才の兄の影に霞むことも卑屈になることもない、その過酷な運命にも心を歪めることのない子供だったのに。 あれはアルフォンスではないな、とエドワードには告げることの出来ない言葉を呟いて、ロイはもう一度溜息を吐いた。 こん、こん、と、ゆっくりと叩かれた扉にロイは眺めていた書類から視線を移した。 「誰だ」 誰何すると沈黙が返される。ロイが眉を顰めもう一度口を開き掛けたその時、こほ、と小さな咳が響き、続いて幼い声が名を告げた。 「アルフォンス・エルリックです、将軍」 声色は僅かに違うものの、聞き覚えのあるその口調にロイは思わず立ち上がり、大股に部屋を横切って扉を開いた。真っ直ぐに立っていたダーティブロンドの短髪の子供は、しきりに瞬きを繰り返す不健康な金掛かる緑の目に、聡明な光を乗せている。 「お仕事中に何度もすみません。……入ってもいいですか。兄さんに見つかりたくないんです」 「───来たまえ」 軍服を翻して誘うと、アルフォンスは素直に扉を閉めて入室した。そのアルフォンスを伴い、ロイは更に奥の来賓室へと足を向ける。アルフォンスを招き入れ、閉じた扉に鍵を掛けてロイはソファを示した。 「座りたまえ。ここならば誰も来ないし、声も洩れない」 「有難うございます」 浅く乱れる呼吸の下で言い、ぜいぜいと胸を鳴らすアルフォンスはふわふわとした足取りでソファまでの短い距離を歩き、崩れるように座り込んだ。そのまましばらく息を詰めたり細かく吸ったりと身体を宥めている様子をロイは見守る。 「……その肉体は不完全なのかね?」 「いえ、健康ですよ、本当なら。この身体は人体錬成で得たものではないので」 「なんだと?」 アルフォンスは蛍光色じみた緑の目を上げ、どこか痛むように歪んだ笑みを見せた。 「この子は、兄さんの息子なんです。兄さんと兄さんの奥さんだったひとの」 こんこん、と少し咳をして、アルフォンスは宥めるように胸をさすった。それは苦しい息を堪えているというよりも小さな子供を慰めているかのような手付きで、ロイは瞬きを忘れて見下ろす。 「………どういうことだ?」 「今、説明します」 アルフォンスはシャツの裾を掴み、脱ぐように持ち上げ骨のくっきりと浮く痩せ細った背中を晒した。シャツが首に纏わる。 「ここ、見てください。首の下」 ロイはアルフォンスに近付く。窓のない部屋の妙に白い明かりの下で、アルフォンスの背は灰色掛かるほどに色がない。 胸椎の頭の下、ちょうどアルフォンスの鎧と同じ箇所に。 「───魂の定着、か」 「理解が早くて助かります」 「生身の……赤ん坊に?」 「そうです。……産まれたその日にこの子はボクを押し付けられた」 ロイは低く呻く。 「自分の子供を殺したのか……」 しかしアルフォンスは首を横に振り、いいえ、と答えた。 「死んでいませんよ。死体に魂を定着させても肉体は生き返ることはないから、やがて腐敗してしまうんです。鎧と同じです。ただ動くだけで、感覚もない」 「……まるで試したかのような言い方だ」 「試しました」 ロイが僅かに黙る。アルフォンスは子供の容姿にそぐわない、どこか諦観したような、まるで疲れ果てた大人のような笑みを浮かべた。 |
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■2004/7/15
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