「そ、それ以上近付くなよ」 (それ犬相手だったら意味ねーセリフだから) びくびくしながら書類仕事を広げているブレダから机一つ分の距離を取って腰を下ろしたハボックは、ふん、と鼻を小さく鳴らした(吠えるとこの悪友は司令室の端まで逃げて行く)。同僚たちは通常の業務をこなしているが、時々近付いてはハボックの頭を撫でた。おとなしい犬だ、と思われているのだろう。牙を剥くのは簡単だったが、別にそうする必要も感じなかったのでハボックは黙って好きにさせた。 (どうすっかねー……) 組んだ前足に顎を乗せると、ちゃり、と認識票が鳴る。その音に気付いたのか、ブレダがふっと見下ろした。手を伸ばし掛け、それから目を彷徨わせる。多分認識票を取りたいのだろうが、手を伸ばすのが怖いのだろう。その伸ばされ掛けた手に鼻を近付けると、がた、と音を立てて椅子ごと後退したブレダが「うおっ」と間抜けな声を立てて転げた。 (あのなあ……そんなじゃ任務にも差し支えるだろお前) 「っつつつ……ってなんだそんな馬鹿にしたような顔すんな」 むかつく犬畜生だ、と毒突きながら椅子を起こしたブレダに、ハボックはわふ、と小さく吠えた。再びがっしゃんと転げたブレダの腰を抜かした姿にふ、と息を洩らして半眼になる。 (ったく、大佐も意地が悪ィよ) やれやれと小さく首を振ると、床にべったりと座ったままの悪友が怪訝な顔をした。 「………お前、なんか動物っぽくねーな」 (人間なもんでね) 「どこ行っちまったんだろうな、ハボの奴」 (ここにいるっつーの) 「何も言わずに姿くらますような奴じゃねぇんだけどな。あれで結構真面目だしよ」 (………そりゃ恐悦至極) 「ふざけた面してっけどな。下の連中も心配してんだぞ」 (ふざけた面は余計だが、まあそうだろうな。今日の作業は誰が指揮とってんだ? はかどってりゃいいけど。つか、行方不明だって正直に言ってんのか下に) そんなことを考えながら見つめていると、ブレダは眉を顰めてハボックを眺め、よいせと大儀そうに立ち上がった。 「なんか言いたげだな、お前」 (言いてぇよ) 「お前に言っても仕方がねぇが、今日のあいつの仕事が俺に回って来てて迷惑だ」 (………悪かったな) 椅子を起こして腰掛けた悪友は、ふ、と小さく嘆息して呟いた。 「………生きてりゃいいんだが」 (……………) 尉官程度の階級の人間を誘拐しても大した意味はないが、あのマスタング大佐の直属の部下であるというだけで他の少尉階級の者よりも多少身の危険に気を配らなくてはいけない自分たちではあるから、その想像はあながち飛躍でもない。少なくともハボックやホークアイ中尉を殺害すれば、マスタング大佐への嫌がらせにはなるだろう。 (でもだからこそ、ちょっとやそっとの危機なら自分で対処出来る人間を配備してんだろ、あのひとは。腕っ節なり頭なり) フュリー曹長やファルマン准尉は司令部外では滅多に声が掛からない。あの上司が彼らに全幅の信頼を寄せていることをハボックは知ってはいるが、それを周囲の人間は知りはしないだろう。ただいくらか使い勝手のいい部下で、なんだ畜生奴ら上手いこと取り入りやがって、と、そう反感を買ってはいるかもしれないが。 「………っかしーな、どこしまってんだあいつ……」 ぼんやりとしている間に仕事を再開したらしいブレダがごそごそと隣のハボックの机をあさっている。見当違いに机の上を荒らす同僚においおいそこじゃねえ、と胸中で呟いて、ハボックはとん、と鼻先で引き出しの一つをつついた。 「って近付くなー!?」 (いい加減慣れろよお前。噛むどころか触ってもねーだろう) もう一度、今度は前足でかしかしと引き出しを掻いてハボックは離れた。怯え青ざめた顔で動向を窺っていたブレダは、恐る恐る、といった様子で引き出しを開く。 「…………あるしよ」 (締めが近いヤツはそこに入れてんだよ) 「なんで知ってんだお前……」 (俺の机で俺の仕事だっつーの) ふん、と鼻を鳴らすとブレダは奇妙な顔をした。書類を机に放ったまま立ち上がり、壁に掛けられていたホワイトボードを取ると戻ってくる。 さらさらとアルファベッドを書き込み、ブレダはそれを床に置いた。 「おい、テメェの名前は解るか。今みてぇにやってみろよ」 真剣な目付きで犬に話し掛けているブレダを、同僚がついに頭にきたのか、と憐れみの目で見ながら去って行ったのを視界に納め、あーこいつこういうとこ馬鹿、とハボックはかく、と頭を落とした。のろのろと立ち上がり、ホワイトボードへと近付く。近付いた分だけブレダは下がった。 (えーと……ジャン・ハボック、と) 前足でとつとつと綴りを指し示して行くと、首を伸ばしてそれを覗き込んでいた(近付けよもっと)ブレダの顔色が変わった。びくびくと怯えていたどこか間抜けな顔がすっと真顔に戻る。 「………お前、なんだ? キメラか?」 (やっぱりそれしか思い付かねぇよなあ) 「……………、……大佐に……いや……」 恐る恐る、震える手が伸ばされた。ハボックはじっとブレダを見上げる。肉厚の温かな手が頭に乗った。 「………明日まで待とうぜ、ハボック。……ハボックか? …まあ、明日になってもお前が見つからなかったら、そうしたら大佐に報告する」 (…………研究所送りは嫌だな) 「明日……そうだな、午後だ。午後になってから」 (嫌だが、逃げやしねぇよ。気ィ遣うなって、柄でもない) 鼻を鳴らすとくん、と甘えたような音になった。それに内心で笑いながら、ハボックはぱたり、と一度しっぽを振った。 「お前、起きてんなら3時間したら起こしてくれよ」 (アラーム掛けろよ。つか、軍人なら目覚めろよそんくらい自分で) そんなハボックの内心も知らずに上着を脱ぎごろりと狭いベッドに横になったブレダの太い背中を見ながら、ハボックは前足に顎を乗せた。月明かりが薄い金の体毛を光らせている。 (あー、満月だったのか) 明るい月夜に星はなく、ハボックはくあ、とひとつ大きく欠伸をした。急に眠気が押し寄せる。ふと視線を向けると、悪友は早くも寝息を立てていて、いびきを掻き出すのも時間の問題だと思われた。訓練された眠りにすぐに入ることが出来るのは感心するが、いびきが治らないのはどうにもよろしくない。少し静かに寝る訓練もしたほうがいいぞ、というか医者に相談しろ医者に、と考えながら、ハボックは自分を従えて(それでもひと一人分の距離は必ず開ける)歩くブレダになんだ平気になったんじゃないか、とどこか残念そうに言った上司の顔を思い出した。 明日、ブレダが自分のことを報告したとして。 信じてもらうまでには多少の時間は必要だろう。実際、ブレダも半信半疑だ。 それでもいずれは信じてくれはするだろう。ただその後どうなるかは解らない。多分あの上司のことだから、研究所送りにする前に自ら手を尽くそうとはしてくれる。 だが、それでも駄目ならそのときは。 (あんまり考えたくないな) 治すために、との建前で研究をしてはくれるのだろうが、軍属の錬金術研究施設がそれほど甘いものではないことはハボックも知っている。 あそこにいる科学者たちはいかにも科学者で、ハボックからすれば冷血動物に近い。実験動物を、たとえ元は人間だとしても、きちんと人間扱いするかは怪しい。それどころかこんな錬成例は滅多にない、と散々実験を繰り返された挙げ句に解剖されて標本にされる、なんてことも有り得そうだ。 (大佐はそうならないように目を光らせてはくれるんだろうが) それでもあの上司が、本物の珍しい錬成例であるアルフォンス・エルリックという少年の素性をひた隠しに隠し、兄共々庇っているのは目が届ききらないことを知っているからだ(勝手に致命的にもなり得る弱みを抱え込まないで欲しいが今更言っても仕方がない)。 (まあ、とにかく) 明日の朝までは、安心して眠っていられるということだ。 ハボックは窓の鍵が外され薄く開かれているのを知りながら、そよそよと流れるその夜風に背中の毛を撫でさせ、ただ黙って眼を閉じた。月の明かりが瞼を透かし、薄赤く視界を染める。 ぐが、と、親友のいびきが響いた。 「おい、ブレダ。起きろって」 ゆさゆさ、と肩を揺すられて、ブレダはんあ、と声を上げ瞼を擦った。 「………んだぁ? まだ時間じゃねぇ………」 「時間じゃねぇが、ちょっとロッカーに行って俺の着替え取って来てくれ。パンツから全部一式」 その煙草に灼けた耳に馴染む掠れ声にばち、と瞼を上げ、ブレダはあんぐりと口を開ける。 「は……ハボ!!」 「あと煙草」 腰に隣のベッドから剥いだシーツを巻き付けただけの格好で呑気にそう言った悪友に飛び起き、ブレダはその肩を掴む。 「お……っまえ!! どこ行ってたんだ!?」 「ちょっと犬になってた」 「はぁ!? つか、あれ、あの犬」 「お前気付いてたろうによ。俺だっつの」 視線を返すと裸の胸に認識票が揺れている。犬に舐められたせいか鈍く曇るそれに、ブレダは額を抱えた。 「………………悪酔いでもしたのか俺は」 「いいから早く着替え持って来てくれ。今誰か来たらあらぬ疑いを掛けられるぞ」 「は?」 ちょいちょい、と指差された先に視線を落としまだしっかりとハボックの腕を半ば縋るように掴んでいたことに気付いて、ブレダは憮然として手を離した。 「あーと、着替え一式と?」 「煙草とライター」 「了解。ロッカーの鍵は」 「壊せ」 「いいのか」 「お前俺んちの鍵は撃ち抜いたじゃねーかよ」 どうすんだ修繕、と唇を歪めたハボックに緊急事態だったんだ、とブレダはこきこきと首を鳴らした。 「中で倒れてたりしたら事だ」 「管理人に伺い立てる暇くらいねーのか」 「伺ってる間に犬に食われたら困るだろう」 「食うか!」 「オメーは犬食うんだろう。なら犬がオメー食っても悪かねーよな」 「その話は冗談だってのに」 ごそごそと軍靴を履き、くっく、と笑ってブレダは立ち上がった。 「ちょっと待ってろ。大佐も呼んで来る」 「なんて説明しろってんだ。信じてくれるわけねーだろ」 犬の姿のままだったならともかく、とぼやくハボックに、そうだな、と呟いてブレダはきちんと閉じられ鍵も掛けられた窓越しに空を見上げ、窓枠に掛かる月ににんまりと目を細めた。 「満月だったからとか?」 「狼男かよ」 「似たようなもんだろ」 ハボックは溜息を吐いた。 「だとすれば来月はまたこういう事態になるわけだ」 「満月に合わせて休暇とっておけよ」 「面白くねー冗談だ」 「今度こそ戻らなかったら俺が飼うって手もあるな」 「………犬怖ェくせに何言ってんだか」 ぼやくハボックの犬と同じ水色の目を肩越しに見、もう一度くっく、と笑ってブレダは仮眠室を後にした。 |
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■2005/3/1 続かない。
ハボ犬ならブレダさんは平気、という話。つまりハボとブレダが仲がいいと嬉しいなあという話(そうですか)。なんで犬になったのかとかそういうのは突っ込まない方向で。
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