朝目が醒めたら犬になっていた。 無理矢理服を着せられた飼い犬のように手足(前後足?)に絡まる衣服に埋まっていた身体をどうにかその布の海から引き抜き、ベッドから転がり落ち、二足歩行が不可能であることを確認し、自分の姿をきょろきょろと見回し尻にふさふさのしっぽが付いていることに気付いて洗面所の鏡を覗こうとジャンプしその拍子に鏡を落としひびを入れしかしお陰でまじまじと己の姿を確認するに至り、ハボックはおいおいマジかよ、と溜息を吐いた。溜息は声帯を震わせ、わふ、と気の抜けた鳴き声に変換された。 (つかどういうことだこりゃ) 昨夜はお偉方との会合に出席したマスタング大佐を深夜に普通に家まで送り届け、あと1、2時間もすれば朝方、という時間だったために軍用車を借り出したまま帰宅して、そのままベッドに倒れ込んで眠ってしまったはずだった。別に酒も呑んでいないし変なものを口にした憶えもない。錬金術師である上司の影響かこういった事態を直ぐ様『キメラ』という単語に置き換えることが出来たが、けれど寝ている間に錬金術師が侵入して術でも掛けたのでも無い限りは錬金術による変容とも言えない(多分)。 なんにしても大佐だ、あのひとくらいしか解らん、と考えて玄関先へ走り、そこではたと気が付いた。 (鍵開けらんねーだろ) ジャンプを繰り返しそれから先程鏡に映った姿が大型犬だったことを思い出して前足を扉に預け後足で立ち上がり、鍵を噛んで回そうと試みるがノブに顔をぶつけるばかりで上手くいかない。いい加減顔の形が変わる、というまで試して、ハボックはようやく諦めた。鍵とドアノブが涎でべたべただ。 (いざとなったら窓破って出るか……) しかしベランダのないこの部屋は4階で、階下はそのまま車道になっている。 人間の姿であれば最悪でも骨折程度で済ます自信があったが、勝手の解らないこの身体では間違いなく死ぬなあ、とハボックは虚ろな視線を空へ彷徨わせた。 (煙草吸いたい) ベッドサイドに放ってあった煙草の箱を眺め、鼻先を近付けると臭気が鋭く鼻腔を刺した。反射的に顔を背けて前足でがしがしと鼻面を擦り、くし、くし、とくしゃみを繰り返してぶるぶると身体を振る。 (駄目だ吸えねぇ) 当たり前か、とわふ、と溜息を吐き、部屋をうろうろと歩き回るのにも飽きて、ハボックは座れるところはないかと周囲を見回した。乱雑にものが散らばりゆっくりできそうにもない。そもそもフローリングが剥き出しの床はいかにも冷たそうだ。 ハボックはベッドへと登り、どさりと横座りに座った。 (ま、登庁して来なきゃ誰かが様子見に来んだろ……) それまでおとなしく待つことにしよう、と考えて、ハボックは前足に顎を乗せた。 「ここでしたっけ」 「そう」 「下に車はあったけど……どうなさったんでしょうね。体調でも崩されたんでしょうか」 「だとしても電話の一本くらいは入れるだろ」 昼も過ぎる頃になって玄関先から聞こえて来た声に、ハボックは耳をぴくりと動かした。顔を上げる。 「おい、ハボック」 がんがん、と扉を叩く声は悪友のものだ。共にいるのはフュリー曹長だろう。 「ハボック少尉、いらっしゃらないんですか?」 ハボックは慌てて扉へと駆け寄り、少し考えてからうぉん、と一声控えめに吠えた。途端ずざざざ、と後退る音が響く。 「いいいいいい、犬!?」 「おかしいなあ、ハボック少尉、ペットは飼っていないはずなんだけど」 「犬!? 犬か今の!?」 (どっから聞いても犬だろ) よいせ、と扉に前足を掛けてかしかしと爪で擦ると、あれやっぱり犬がいる、と曹長が呟いた。わふ、とやはり控えめに啼くとかちゃ、と音がしてドアポストの蓋が持ち上がった。丸い黒い目が覗く。 「あ、犬だ」 「犬かよ!! 俺帰っていいか!!」 「え、ちょっと待ってくださいよ少尉……ハボック少尉がいません」 「どっか出掛けたんじゃねーのか!? 帰る! 帰るぞ!!」 (その犬嫌いをどうにかしろブレダ) 恐らくは階段の影からぶるぶる震えながらこちらを窺っているだろう悪友に半眼になりながら、ハボックは前足を降ろして覗いている黒い目を見つめた。ぱちり、とその目が瞬く。 「わあ、かっこいい犬だなあ。身体も綺麗な白薄茶…っていうか金色だし、瞳なんか水色ですよ。ハスキー犬じゃないのかなあ。でも金色のハスキーなんて珍し……て、あれ?」 もう一度瞬いた黒い目はすぐにドアポストから離れ振り向いたようだった。 「ブレダ少尉、ちょっと見てもらえませんか」 「ぜっっっっったい嫌だ!!」 「いや、この子の首に認識票が下がってるんです。毛に埋もれててよく見えないんですけど、ハボック少尉のものじゃないかと思って」 ぴたり、と喚いていた声が収まった。 「どうしましょう。少しここで待ちますか? どこか少尉の行きそうなところに心当たり、あります?」 「連絡も無しに仕事サボるのが有り得なきゃ、認識票を畜生の首に括ったまんまどっかに行っちまうのも有り得ねぇ」 素に戻った声でそう言いながら、それでも相当おっかなびっくりといった様子の足取りで近付いて来たブレダが、びくびくしながらドアポストから目を覗かせた。ハボックは悪友を驚かせないよう僅かに下がる。 「…………犬だ」 「犬ですよ」 「なんか付いてんな、首」 良く見えねぇ、と呟く悪友に一歩近付くと、がちゃんと音を立てて蓋が降りずざざざ、と後退った音が響いた。がく、と頭を垂れ、ハボックはブレダの心臓がおとなしくなるのを待つ。 しばらくして再び恐る恐る開いた蓋から覗いただらだらと脂汗を掻いている顔を見ながら(目元くらいしか見えないのにこの汗では顔全体はどうなっているのか考えるだけで怖い)ハボックはそっと更に一歩近付き、首元に鼻面を埋めてぐいぐいと毛を掻き分けた。上手く行かず、焦れてふん、と鼻を鳴らし毛を舐め濡らして認識票らしきものを露わにする。 「…………ハボックのだな」 「どうしたんでしょう、ハボック少尉」 「ちょっと退いてろ、曹長」 言ったが早いかぱたんと蓋が降り、お前も退いてろワン公、と声が聞こえたかと思うとがんがんがんと立て続けに頭を殴られたような衝撃に襲われ、ハボックはよろめいた。勝手に腰が抜けてぺたり、と横座りに腰を落とし、くらくらする頭を宥めてそこで初めて発砲されたのだと気付く。 (管理人から鍵借りるとかなんかねーのかお前は!?) 犬の聴覚の鋭さに舌を打ち(気分)ながら、ハボックは煙を上げているドアノブを見た。がちゃがちゃ、と強引に回され、扉が開く。 「ってうお!? 退いてろっつったろもっとそっち行け!!」 「って閉めないでくださいよ!」 ばたんと閉じられた扉の向こうで曹長が呆れた声を上げ、もう一度ドアノブがぎしぎしと回された。 「あれ、腰抜けた? 大丈夫かい?」 よしよし、と撫でてくる手が妙に気持ちがいい。ああ動物に触り慣れてる手なのか、と考えて、ハボックはふと憂鬱になった。 (感覚も犬か、俺) 「少尉いないですねえ……」 きょろ、と見回して溜息を吐いた曹長に、ハボックはわふ、と啼いて見せた。 「ん? 君、少尉の犬かい? ご主人はどこに行っちゃったんだろうね」 (いや俺だよ俺。動物なんか飼ってねーって言ったろ。つか、こんな狭い部屋でこんなでっかい犬が飼えるか) 「………何か言いたそうだね。お前の言葉が解ればいいのになあ」 「おい、曹長。とにかく鍵探せ鍵。車の」 「あ、はい」 (おめーが探せよんなとこ隠れてねーで) 扉の影からびくびくと指示するブレダを半眼で見遣ると、ひ、と詰まった悲鳴を上げた悪友は首を竦めた。でかい図体してなんでこんなにこいつ犬駄目なんだよ、とがっくりと項垂れて、ハボックは前足で鼻面を掻く。煙草が吸いたい。 「ありました、鍵。部屋の鍵も。部屋は特に荒らされた様子はないです、………多分」 (スマン最近掃除してない) 鼻が妙にむずむずするのはそのせいだな、と考えながら、ハボックはのそりと腰を上げた。だだだだだと凄い音を立ててブレダが逃げた。ばたん、と閉じた扉を見上げていると、妙に子供じみた小さめで指の短い丸い手が頭に乗せられた。 「お前も司令部においで。少尉を捜さなきゃいけないから、大佐に指示を仰がなきゃ」 (うんまあ、いくら捜しても見つからねーだろうよ、曹長) ハボックは肩を竦める代わりに、耳をぴくん、と軽く振った。 「犯行声明や脅迫状の類は来ていないな、中尉」 「今のところありません」 誘拐ではないのか、と顎を撫でる上官を見上げ、ハボックはこりゃ困った、とかしかしと首に下げられた鎖を掻いた。ちゃらちゃらと認識票が音を立てる。 (誘拐でも事件に巻き込まれたんでも家出でもなんでもないっすよ、大佐。いや事件っちゃ事件なんですが) 「そもそもこの犬はなんなんだろうな」 (ハボック少尉であります、マスタング大佐) 敬礼でもしてみせれば解るだろうか、と前足を上げてみるが、耳許を掻くくらいにしか役に立たず、わあ猫みたい、と曹長を喜ばせただけで上官たちの格別の注意を引くことは出来なかった。 「それらしい事件も起きてはいないし………まあ、連絡待ちしかないだろうな。取り敢えず憲兵隊にはハボック少尉を見掛けた場合にはすぐに捕捉して連行するよう通達しておこう」 (俺何の犯人なんですか大佐) 捕捉とか連行とか、とがっくりと頭を垂れたハボックを見下ろし、黒髪の上官はにやり、と人の悪い笑みを見せて顎を撫でた。嫌な予感がする、とこの場の全員が思ったことをハボックは知っている(無論ハボックも思った)。 「おい、ブレダ少尉」 「ははは、はい」 部屋の隅の机の影からこちらを窺っていた短躯の男がびくびくと返事をする。全員の視線を受けながらもその目はハボックに釘付けだ。 「なんですか」 「この犬なんだが、お前に預けよう」 「は!?」 (はい!?) 驚いた拍子にばう、と声が出た。反射的に見上げていた上官がハボックを見下ろし、片眉を上げ怪訝な顔をする。 「なんだ、言葉が解るようじゃないか」 「ハスキーは人懐っこい犬種なんですよ」 「あら、ハスキーなの? 金色の子なんか初めて見たわ」 「うーん…雑種って感じじゃないから、突然変異体なんじゃないでしょうか。色素が弱い子なのかも」 「いや犬の品評はどうでもいいんだ、中尉、曹長」 「大佐、ちょっとよろしいでしょうか」 突っ立ったまま先ほどから無言でじっとハボックを見つめていたファルマン准尉がそう断って腰を屈めた。近付いてくる顔に僅かに引くと、間近にある鼻がぴくぴく、と蠢く。准尉はふむ、と呟いた。 「ハボック少尉の煙草の臭いがしますね。相当長い時間一緒にいたのではないでしょうか」 大佐が曹長を顧みる。 「煙草の臭いが染みつくほどの煙の中にいて犬は平気なものなのか?」 「普通は嫌がりますけど………」 「そんな劣悪な環境に動物をおいていたのか、動物愛護の精神に反するな、まったく」 (いやあんたに言われたくない) 「何にしても、煙草の臭いが消えていないということは、少なくとも今朝方くらいまではハボック少尉はこの犬と一緒にいたということかな」 「少尉と同じ銘柄の煙草を吸う喫煙者かも知れませんが」 「少尉の認識票を付けているんだ、少尉だと考えていいだろう」 がしがしと頭を撫でる手は興味がなさそうなその声色に反して優しい。なんだかんだでこのひと犬好きだよな、と考えながらハボックははふ、と息を吐いた。 (どうすりゃ伝わるんだ? 今は呑気にしてても夜になっても芳しい成果が現れなけりゃ本腰入れて俺を捜索し始めるんだろうし、でもそりゃ無駄な労力だ) 「ほら、仕事だ仕事。中尉、憲兵隊に連絡」 「はい」 「ブレダ少尉、こいつを頼んだ。司令部内をあまりうろつかせるなよ」 「なんで俺なんです!? 嫌がらせですかあんた!!」 半泣きの部下に上司はとんでもない、と目を丸くして見せた(わざとらしい)。 「こいつはハボック少尉の手掛かりで、恐らくは奴の飼い犬だ。親友のお前に預けるのは当然だとは思わんか」 「犬を飼うような親友を持った覚えはない!! です!!」 (おい) どっと疲労しながらハボックは腰を上げ、のそのそとブレダへと近付いた。悪友はぎゃっと叫んで壁際まで後退し、追い詰められたとでもいうようにべったりと壁に張り付き震えている。そのブレダの足元で立ち止まり怯えたひげ面を見上げ、ハボックはぽそぽそ、としっぽを振って見せた。それから一歩距離を取り、触れずにいることをアピールする。悪友はぐう、と何かに背中を踏みつけられたような無様な呻きを洩らし、ハボックの動向をちらちらと気にしながら周囲に視線を走らせ、誰も助けてくれないことを悟り、深々と嘆きの息を吐いた。 ほら仕事仕事、といつもはサボってばかりの上官が部下たちを急かした。 |
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■2005/3/1
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