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「おい、大佐」 公用車へ乗り込もうとした背中に声が掛けられた。そのよく知った声にロイは振り向く。 「鋼の。来るのなら連絡くらいしたまえよ」 「悪ィ」 大して悪く思ってもいなさそうな軽い調子で返し、エドワードは歩み寄りながら首を傾げた。 「上がりじゃねーの?」 「接待」 「仕事か」 「プライベートでいい年したジジィと飯など喰いたくない」 「………大佐、そーゆーこと外で言わんでください……」 首が飛びます、と運転席から言ったハボックにすまんすまん、と笑い、ロイはエドワードへ向き直った。 「アンタんちに行こうかと思ってたんだけど」 「なんだ大将。大佐のところに面白い資料でもあんのか?」 「うん、まーそんなトコ。やっぱ金持ってると違うよな。大して使いもしねーくせに希少本の山」 「銀時計を持つ相手に金のことを言われる筋合いはないぞ、鋼の」 溜息を吐きつつロイはポケットから取り出した鍵を放った。反射的に受け止めたエドワードはなにも飾りの付かない手の中のそれをまじまじと眺める。 「ぶ……よおじーん」 「言っておくが何かなくなればすぐ解るからな。手は掛けてはいないが把握はしている」 「いいの?」 「あまり弄るなよ」 はーい、と素直に答えてにひゃ、と笑った子供にロイは右の口角だけを吊り上げた皮肉げな笑みを浮かべた。 「9時には帰る。食事は外で取ってから行きたまえ」 「りょーかい」 おどけた仕草でぴ、と敬礼した子供にもう一度、今度は僅かに皮肉さを納めて微笑んで、ロイは後部座席へ乗り込んだ。バックミラーに映るハボックがなんとも奇妙な顔をしている。 「どうした、少尉」 手を振るエドワードをミラー越しに見ながら問うと、ハンドルを操りながらハボックは困ったように肩を竦めた。 「あんた大将に甘くなってないッスか?」 「そうか? 後見人なのだから最大限に便宜を図ってやるのは仕事のうちだろう」 「にしたって普通自宅の鍵なんか預けんでしょう。てか、あんな簡単に預けちゃイカンでしょう。仮にも高官なんだから」 「仮にもとはなんだ、仮にもとは」 「あ、スンマセン。でもほんと、気ィ付けてくださいよ。いや、エドワードのことはともかく、大佐になんかあったら俺たちも路頭に迷いますんでね」 一見保身を計るかのような部下の言葉に、ロイは苦笑した。 「心しておこう」 ハボックはちらりとバックミラー越しにロイを見、再び軽く肩を竦めた。 鍵。鍵。鍵。 口笛を吹きたい気分とどうももやもやとした気分が混じり合ったまま、エドワードはぽんと放った鍵をぱしりと受け止め、軽い足取りでロイのアパートを目指した。食事は先ほど露天で買ったサンドイッチで済ませた。 つーか、この鍵って。 普通に解釈すれば貸してくれただけだ、返さなくてはならない。しかし何の飾りもないこれはそれほど使い込まれた様子はなくて、多分合い鍵だ。わざわざ合い鍵を渡してくれたことに意図を感じようとするのは強引だろうか。 (……強引だな) エドワードは薄く笑う。 もしロイが帰宅したときにエドワードがいなければロイは家へ入れない。だからいつもの鍵は自分で持ち、合い鍵を貸与したと考えるのが普通だ。 だが、エドワードは錬金術師だ。 スプーン一本あればこんな鍵などいくらでも複製出来る。実物が手元に無かったとしても、今こうして鍵の凹凸を撫でている左手は形を憶えた。錬成出来る。 それに気付かぬロイではないだろう。 だから、これはつまり合い鍵をくれたのだと考えてもいいのではないだろうか、と思うと口笛を吹きたくなる。 しかし信用されて(とどのつまりはなめられて)いるのかもしれない、と思うとどうももやもやした気分は晴れない。 まあどっちにしても、鍵なんかなくても入ろうと思えば入れるんだけど。 壁でもドアでも穴を開ければ同じことだ。叱られるだろうからやりはしないが。 そもそも不法侵入する必要はないのだ。ロイはいつでも、仕事の都合が許す限りエドワードを迎え入れてくれる。断られたことは一度もない。 見えて来たアパートに向かって足を早め、半地下のせいで高くなっている玄関までの階段を駆け上ってエドワードは鍵を差し込んだ。何の抵抗もなく差し込まれた真っ直ぐな鍵を回すと、思ったよりも重い、けれど滑らかな感触を返し、がちり、と扉は解錠された。 「お邪魔しまーす」 家人が留守なことを承知しつつそう声を掛けて入り込み施錠し、エドワードはふと鼻をひくつかせて片眉を上げた。 獣の臭気。 猫だなこれは、と考えながらエドワードは居間へと向かう。臭いはするが姿はない。廊下の途中に猫砂がある。 (猫飼ってんのか) 居間はしんと静まり、生き物の気配はなかった。 「猫ネコねーこー。どーこーだー」 やる気なく声を掛けながらキッチンを覗きバスルームを覗き、まさか猫のようなどこでも飛び乗る生き物を書斎や研究室に入れるわけもあるまいと寝室を覗いて、エドワードは起き抜けたままと言ったベッドの上に黒い塊を見つける。 「おー、いたいた。お前飯喰ってねーだろ、キッチンの餌皿空だったもんな」 水はあったみたいだけど、と呟きながらそろそろと近付いて、逃げない猫に思わず頬を崩してエドワードはベッドを覗き込んだ。そもそも動物は嫌いなほうではないのだ。 「おーい、寝てんのか、猫」 ごろりと伸びたままの猫は起きる気配もない。 エドワードはそっと生身の手を伸ばし、中指の背でその暗闇に暗色の毛皮を撫で、ふと笑みを納めた。指が止まる。 ひんやりと冷たい、滑らかなその毛皮。 エドワードは両手で掬い上げるように小型の獣を抱き上げた。ひやりとした体温はより顕著に左手を冷やし、弛緩しているような姿のまま棒のように硬直したその身体にエドワードは察する。 深く、溜息が出た。 死んでいる。 居間のソファへ座り込み、膝の上に死後硬直の解けないままの剥製のような猫を乗せ、エドワードはつやつやとした毛を撫でた。毛皮の下の肉は木材で出来ているかのように堅いが、あとはもう解けて行くばかりだ。明日になればぐんにゃりと頼りなく弛緩しきってしまうだろう。 黒い猫は左の後脚を抜いた三本の脚の先が靴下を穿いたように白く、鼻面もマスクでもしているかのように白かった。尾は真っ直ぐで、若い雌猫ではあるようだがもう成体だ。絶妙なバランスで肉の付いた細い肢体が魅力的で、なるほどロイらしいチョイスだ、とエドワードは納得する。極上の美人だ、とあの男なら言うだろう。 身体に傷はない。見たところやつれている様子も無いから、餓死でもなさそうだ。病死だろうか。死体となってしまうと口臭も目脂も白目の具合も糞の様子も解らないから、エドワードには死因は特定できない。ベッドに吐いた様子もなかったから、この家にあるはずの毒物を誤って食べた、と言うことでもなさそうだ。 「……なー、なんで死んだんだ、お前」 エドワードは囁いた。 「お前のご主人様、悲しむぞー」 当然ながら返事はない。 エドワードはふ、と息を吐いた。 「………お前が生きてるうちに挨拶したかったな」 あの男の、手の内にあったはずの獣。 どうしようかな、とエドワードは何度目かの溜息を吐きながら思案する。 ロイが帰って来る前に埋めてしまった方がいいだろうか。 時計に目を馳せると帰る、と言っていた時間まではあと30分程度しかない。出掛けて埋めるのは問題はないが(何しろ穴を掘るなど錬金術で一瞬だ)、もしロイに先に戻られると詮索されるかもしれない。それよりもこの閉め切った家から猫が出て行くことなど有り得ないのだから、まずそこから尋ねられるだろう。 さらりと嘘を吐くことはまあ、出来る。 ただそれでロイを騙せるかというと、それはまた別の話だ。 はー、とまたエドワードが溜息を吐くと同時に、窓の外で車の音がした。ばん、と扉を閉める音がして、車が去ると同時に玄関が慌ただしく開き廊下をばたばたと走る忙しない足音が響く。 「鋼の、言い忘れていたんだが、猫が」 慌てて走って来たのか僅かに黒髪を乱して居間へ飛び込んで来たロイが、ふと口を噤んだ。エドワードは口を結んだまま猫の背を撫でていた手を止めた。 ロイは静かに息を吐いた。コートに包まれた肩が沈む。 「………間に合わなかったか」 |
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■2004/6/23
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