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二階の窓から身を乗り出し、熱い、熱いと叫んで地上へ飛び下りた子供の声が耳から離れない。 歪に手足を丸めた死体の放つ異臭に、家が、土地が、街が燃やし尽されて行く黒い煙となんとも言えないざらついた風。まだ煤が鼻孔の奥にこびり付いているようで吐き気がする。 もう散々吐いて胃液も吐き尽して吐くためだけに水を飲んでまた吐いて、胃も喉も痛むほど荒れ酷く疲れているというのに神経がささくれて眠れない。 消防士なんかになるヤツは鼻が鈍いのだ、と口の中で乱暴に呟いて、ロイ・マスタングは何十回目かの寝返りを諦めて起き上がった。暗い天幕の中は誰もがひっそりと息を潜めているが、何人が眠れているのだろうか。自分を含めて新兵の多いこの部隊では、昼のほぼ一方的な戦闘にショックを受けた兵士は少なくはない。 化物でも見るような目でロイを見た部下の目を思い出し、それがまた神経に障った。 簡易寝台から滑り降りてブーツを履き、足音を忍ばせて天幕を出る。ひやりと冷たい砂漠の風が焦げた臭いを運んで来た気がして喉がきゅうと締まるのを無理に唾を飲み込んで堪えた。こんな誰が見ているかも解らないような場所で不様に身体を折って嘔吐するなどロイの美意識が許さない。 幾度か深呼吸をして、もう一度風の香を嗅ぐと行軍で埃を交えたそれは割に清涼で、爛れたように熱い鼻孔を冷やした。 ロイはそっと天幕を離れ、ごろごろと岩の転がる荒涼な大地を踏んだ。 月が大きい。 明るい満月の空は白み掛かった藍色で、もう少し月が暗ければさぞかし星が美しかっただろう。月よりは満天の星が見たかった、とロイは思う。夜空を我が物顔で徘徊する巨大な月や太陽などより、細やかに瞬くあえかな光が好ましい。中央ではお目に掛れない光景だ。 ああでも、満天の星空の下などに立ったなら、その無限に広がる小さな輝きに押し潰されて、もうそこから立ち去ることなど出来なくなるのかもしれない。 そんなことを考え、その女々しさにロイは自嘲した。 馬鹿馬鹿しい。 しかしそう言って肩を叩いてくれるはずの親友は、情報部へと引き込まれ遥か離れた駐留地で忙しく使われているだろう。この部隊に知り合いのいないロイには、今酒を呑む相手もない。 まあ呑めば吐くだけなのだが。 ブーツの底で砂が砕ける。この岩石の砂漠の中の街は、今は月の光にひっそりと黒い影を晒している。昨日までと形が違うように見えるのは気のせいではない。自分や、自分のような錬金術師が散々破壊し尽した後だ。 目を凝らせば藍色の夜空に黒い煙が昇って行くのが見て取れる。街は未だ燻っている。 ふと、ロイは足を止めた。 一抱えもありそうな岩の上に誰かが座り込んでいる。岩が小さく見えるほどの巨体だ。その後ろ姿には見覚えがある。たしか、昼に共に戦った兵士の一人だ。 とは言え、ロイは他の錬金術師と共に後方から仕掛けただけだから、前線のさらに真ん前で敵と直接殴り合っていたこの男と背中合わせで戦ったわけではないのだが。 何故銃も使わず殴り合っているのかと不思議に思っていたのだが、この男も錬金術師なのだと誰かから聞いた。 しかし遠目にはただ殴り合っているようにしか見えなかったから本当かどうかは怪しい。防弾ジャケットも身に付けず、半裸で相手を殴り殺すその姿のどこが錬金術師だというのか。まあロイもジャケットの類いは身には付けていないのだが(暑くて重くて疲れるだけだ)、それにしても危険過ぎる上に非効率的だ。銃でも持ったほうがまだ楽に、多く敵を倒せる。 多分人を殺すことが好きな男なのだろう、とロイは思う。相手の眼を見なくて済むよう遠くから焔を放つ自分ですらその行為に酷く疲れてしまったというのに、自らの拳で相手の骨を砕き返り血を浴びる戦い方をわざわざ選ぶなど、好きでなくては出来るわけがない。 別の部隊のキンブリーとか言う錬金術師が殺した数で言えばロイを上回るらしいと噂されていたが、その男も殺しが好きなのだと聞いた。否、爆発させるのが好きなのか。しかしそれによって人々が右往左往し崩れた建物に押し潰されて行く様を見て奇声を上げていたというのだから、やはり殺すことが好きなのだ。 だが、他の者から見ればロイも彼らと同類だ。 確かに焔を放ち総てを焼き尽すこの構築式を計算したのは自分だ。 少ない動作で自らに危険のあまり及ばない距離から効率的に街を破壊できるこの術を、軍に貢献すべく編み上げイシュバール殲滅作戦での使用を申し出たのも自分だし、その有効性を認められこの作戦を機に中佐へと昇進出来たのも計画通りだ。 国家錬金術師は少佐相当官であるから、軍人であれば少佐の地位に労なくしてつける。その点、中佐となったロイは他の国家錬金術師の資格を持つ若い軍人から一歩先んじたことになる。 それを狙って、この術を、人を殺すために編み上げた。 ああ、でも、自分はなんて愚かだったのだろう、と、そう良心がさざめくのは止められない。 軍人とは言え、国家錬金術師の資格を持つロイは、戦場へと出たのは今回が初めてだ。士官学校を卒業してからそう経ってはいないとは言え、同時期に入隊した他の兵士が幾度か他方での戦闘に参加していたことを考えると多少遅い。だから本来ならもう新兵とは呼ばれないが、古兵からは皮肉と憐憫を込めて新兵と、ぼうやと呼ばれる。 瓦礫の影で吐くだけ吐いて憔悴して戻ったロイに、初めてのおつかいはどうだいぼうや、と、そう言ってにやりと笑った十五も年上の部下の横っ面を思うがままに殴ってやれたら気分がよかっただろうか。無論、彼らが悪意を持って自分たち新参の兵をぼうやと呼ぶわけではないと頭では解っているから、実際に殴りつけるわけにはいかないのだが。 まったく、軍人というのはどうしてこう柄が悪いのだろう。 自分も軍人であることを棚に上げ、ロイはふ、と息をついた。 随分と長い間眺めているというのに、視線の先の巨体の男は月を見上げたまま振り向きもしない。今のロイに眼力がないのか、単にこの男が鈍いのか。 「………眠れないのですか」 気付いてもらいたかったわけでもなかったが、男をただ延々と眺めて戻るというのもなんだか癪に障ったので声を掛けてみる。巨漢はふと首を巡らせ、ロイを見た。 厳ついくせにどことなくバタ臭い顔の中の冴えた青い眼が、昼間あれだけ大暴れしていた人物とは思えないほど静かに澄んでいる。剃り上げた頭とひと房だけ残された前髪が奇妙で、ロイはなんとも物珍しい生き物を見た気分で男を眺めた。 年齢が良く解らない男だ。健康的なピンク色をした肌はまるで赤ん坊のようにつややかだが、眉もないその顔はロイよりも十も年上のようにも思える。 男はゆっくりと立ち上がり、右手を額へ当て無言でいるロイへと敬礼をして見せた。立ち上がったときに僅かに身体が傾いたのにロイは気付く。足を負傷しているのだろう。今は軍服を纏う右手にも血の滲んだ包帯が巻かれている。 あれだけ最前線で殴り合っていれば、生き延びたことのほうが不思議か、とロイはひとり頷いた。 「マスタング中佐殿はお休みになられないのですか」 敬礼を続ける男に片手で座るよう示し、自分も近くの瓦礫に腰を下ろしたロイはおや、と眉を上げた。 「私を知っているんですか」 男は破顔した。下品でも子供のようでもないが、随分と人なつこい表情になる。笑うと若いようにも見えるな、とロイは思った。 「無論です。焔の錬金術師殿は我が部隊一の勇者ですからな」 その笑顔と口調は愚直と呼べるほど実直で、含みはないようだと解っていつつもロイは思わず眉を顰めた。男は怪訝そうに顎を引く。 「なにかお気に障りましたか」 「いや。………私はあなたを知らないな、と思いまして」 「は。アレックス・ルイ・アームストロングであります。豪腕の二つ名を頂いております」 どうも、錬金術師だと言う話は本当だったらしい。 そう考えて、ロイはふと宙を睨んだ。 「アームストロング………?」 「地位は少佐であります、中佐殿」 「アームストロングというと、アームストロング将軍のご子息でおられる?」 「父をご存知ですか」 「それはまあ、有名な方ですから」 そしてその子息も有名だ。 名門アームストロング家の嫡男は最高学府まで学業を収め、その後入学した士官学校でも文武両道を極めて鳴り物入りで入隊したと聞いている。生まれたときから将来が約束されている人間は楽でいいものだ、と試験勉強に追われるたびに見たこともない男をネタに親友と笑い合ったものだ。まさか同じ部隊にいるとは思わなかった。 しかし、何より。 たしかアームストロング家の嫡男は、ロイよりもいくつか年上なだけの、まだ二十代の若僧だと。 そう聞いて、いたのだが。 「………あの」 「は。何でしょうか」 「あ…………い、いや、アームストロング少佐ともなれば、ここよりも大変な戦闘をいくつも経験して来たのだろうなと」 何を言っているんだ俺は。ここより酷い戦場などそうあってたまるか。 引き攣った笑みを浮かべながら自分で自分の頭を殴りたい気分になっていたロイは、いいえ、と首を左右に振った少佐の続く言葉にぽかんとその巨体を見上げた。 「戦場へ出たのは今回が初めてであります」 「………は?」 「入隊と同時に国家錬金術師資格を取ってしまいましたから、戦場へ投入される機会がなかったのであります」 「う、初陣…ですか」 初陣であんな最前線で敵を殴り殺せるものなのか。もう少し死に対して怯えるものなのではないのか。 それとも芯からの軍人とはそういうものなのだろうか。 思わずまじまじと見つめてしまったロイの視線を、少佐は何も言わずに受けている。 |
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■2004/5/14
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