「………ねえ、兄さん」 「んー?」 大判の古書を開いていた兄の袖をつんつん、とわざわざ身を屈めてまで引いた弟を見上げ、エドワードは首を傾げた。 「どした?」 「えっと……あのね」 弟はどことなく申し訳なさそうに肩を縮めて、がしゃ、と首を傾げひそひそと囁く。古書店の黴くさい空気を微かに震わせひそひそと話をする兄弟の他には客はなく、奥のカウンターで店主が居眠りをするばかりだが、そのかくんかくんと舟を漕ぐ老人の目が実は鋭く兄弟を見張っていることにエドワードは気付いていた。エドワードが今手に持つ古書が、相当の値打ちものである証拠だ(しかしエドワードが見る限り、少なくとも三度は書き換えられた写本の写本の写本に違いなかったが)。 「なんかあったのか?」 いつまでも用件を切り出さない弟に焦れて、ぼそぼそと急かすとアルフォンスはうん、と頷きもじもじと手を組んだ。 「あのね……お金、貸して欲しいんだ」 「は?」 「ちょっと欲しいものがあって……」 エドワードはぱちぱちと目を瞬かせる。 確かに金を持つのはエドワードだが、だからと言ってエドワードが稼いだ金だというわけではない。銀時計に付随してくる特典のひとつだから、アルフォンスがどう思っているのかは知らないが少なくともエドワードにしてみればこの財布は兄弟共通のもので、欲しいものがあるなら断りなどいらないし、今までだってこんな風に弟が許可を求めてきたことなどないのに。 というか、『貸して』って。 「………こいつはお前の金でもあるだろ? 旅費で研究費なんだから」 「でも、……あの、全然研究とかには関係ないものなんだ。日用品とかにも」 「だからなんだよ。そもそも貸してってお前、オレたちに金稼ぐ暇はないんだぞ。返す当てもないのに変なこと言うなよ。いいよ、何買いたいんだ? 買えよ。気に入った本でもあったのか?」 財布を出そうとした兄を慌てて押しとどめ、アルフォンスはかぶりを振った。 「こ、ここのお店じゃないんだ。あの、さっき見た露天の」 「ああ……なんか異国のバザーかなんかやってた、あれ?」 「うん、あれ。ちょっと、いいなって思うものがあって」 さっきは諦めたんだけど、やっぱり欲しくなって。 「諦めなくてもいいのに。荷物になりそうなもんなのか?」 「ううん、全然」 「んじゃ、すげー高いとか」 「相場は解んないけど、他のと比べてそんなに吃驚するほど高いってわけじゃなかった」 「じゃー何が問題なんだよ」 アルフォンスはえっとね、と再びもじもじと指を組む。エドワードは眉を顰めた。 「………お前なんかおかしくないか?」 「え?」 「いや。……何なんだよ」 うん、あのね、と言って囁いた弟の『理由』に眉間の皺を深くした兄は、酷く不機嫌な顔で弟の買い物へと付き合い、上機嫌な弟と共に報告書を届けるためにイーストシティへ向かう列車へ乗り込んだのだった。 ああクソ、何なんだ一体。 なにやら司令室が騒がしい。 今日は急ぎの仕事もなく世間様も非常に平和で捕り物に出る必要もない。さらに大変にいい陽気で窓を全開にしていても(というか仮にも軍司令部が嵌め殺し以外のすべての窓全開というのはどうかと思わないでもない。手榴弾でも投げ込まれたらどうするつもりだ)汗が流れる暑さではテロリストも大人しくしているしかないらしく、資料室の奥の本棚の合間の古いソファにて昼寝を済ませて来たロイ・マスタング大佐は、手持ち無沙汰な部下たちのだらだらとした態度を咎めるでもなく(さすがに半裸でだれていた者には眉を顰めて見せたが)司令室の開け放たれた扉を潜った。 「おや、鋼の。に、アルフォンス君」 来ていたのか、と小生意気な国家錬金術師と巨体に似合わぬ控えめな弟に声を掛けると、兄弟は揃って振り向いた。 「まーたサボってたの、アンタ」 「うるさいな。ちょっと調べものをしていたんだ」 「………寝癖付けて言われても説得力がねぇ」 うるさいな、ともう一度返しながら髪を撫で付ける大佐に、アルフォンスがぺこりと頭を下げた。 「こんにちは、マスタング大佐。お邪魔してます」 「こんにちは、アルフォンス君。君は相変わらず礼儀正しいね、兄と違って」 「うっさいわ」 言って、ん、と差し出された書類を大佐は受け取りもせずにじろじろと見る。 「なんだねこれは」 「報告書って書いてんだろ。ついに老眼かアンタ」 「なんの報告書だ」 「決算報告だ決算報告! 忙しいだろーと思って大体計算は出しといてやったからあとそっちでまとめて受領書くれよ」 ふーん、と呟きようやく受け取った大佐はぱらぱらと書類を捲り、ふん、と鼻を鳴らして唇を歪めるいつもの皮肉げな笑みを見せた。 「何が計算しておいてやった、だ。アルフォンス君の筆跡じゃないか」 「って、アンタアルの字なんか知ってんのかよ」 「君、左手で字を書くのが慣れないんだろう。筆記体が書けないじゃないか。筆記体で書かれていて、インクがほとんど擦れていないのだからアルフォンス君が書いたんだろうさ」 違うかね、と笑う上官に舌打ちし、エドワードはどっかと椅子に腰掛けた。 「悪かったな、いーっつも書類汚してて!」 「まあいいさ、大したことじゃない。これは今日中に欲しいのか?」 「いや、図書館とここの資料室読み尽くしてから発つから、4、5日はいるつもり。発つ前までに出来てればいいよ。な、アル」 「うん」 こくんと頷く巨体の控え目な弟とふんぞり返っている小さな兄を交互に見、大佐は了解した、と返してハボック少尉へと報告書を差し出す。 「良かったなあ、少尉。暇つぶしが出来たぞー」 「って、あんたの仕事でしょうに」 「サインと判は私の仕事だがまとめて清書をするのは部下の仕事だよ」 うえー、と嫌な顔をしつつ受け取る少尉とにこにことうさんくさい笑顔で執務机へと向かった大佐を眺め、エドワードが毒突く。 「仕事しろよ、サボり魔」 「たまの暇くらい満喫させろ」 「部下に満喫させてやれよ……」 まったくだ、と頷く部下たち。 上司に恵まれてないんだな、と憐憫の眼差しでそれを見遣ったエドワードは、ふいに弟が立ち上がったのを見てその視線を追った。 「ホークアイ中尉!」 開け放たれた扉を潜り、司令室へと姿を見せた司令官副官は、あら、と呟きにこりと優しげな微笑を浮かべた。 「こんにちは、エドワード君、アルフォンス君」 「こんちは」 「こんにちは、お久し振りです」 どことなく弾む声の弟を苦々しい顔で眺めやり、エドワードはちらりと横目でこの場で一番偉い(少なくとも肩書き上は)大人を見遣る。 こちらも負けず劣らず苦い顔をした大佐は、まるで申し合わせたようにちらりとエドワードへと視線をくれて僅かに面食らい、それからうっすらと苦笑を見せた。 君の弟は中尉に懐いているなあ。 ……まあね。 妬けるだろう。 アンタこそ大人げなく妬いてんじゃねーよ。 「…………ふふふふふ」 「あははははは!」 「……なにやってんスかあんたら」 不毛な嫉妬に不毛な張り合いを見せる二人を余所に、アルフォンスは自分の机ではなく来客用ソファへとやってきて座ってくれた中尉の向かいに腰を下ろし、機嫌良く最近の出来事などを話して聞かせている。 曰くどこそこの町で知り合ったおばあさんの古いオーブンを直してあげたとか、なになにの街の図書館がとても古くて立派で写真でも撮って来て見せたいくらいだったとか、先月寄った北方はまだ涼しくてみんな長袖だったのにこちらはもう夏なんですねみなさん暑そうですとか、拾った小さな子猫の飼い主探しに奔走して兄に叱られたとか、そしてつい昨日寄った街で、異国のバザーが開かれていたとか。 「凄く綺麗だったんですよ、不思議な形の髪飾りとか、袖が大きくて長くて、裾もこーんなに長い花模様の薄い生地のドレスとか、変わった形の木と布のサンダルとか」 「そうなの」 「あんまり綺麗だったから、ひとつ髪飾りを買ってしまったんです」 あら、と微笑んだ中尉がエドワードへと視線を向ける。 「エドワード君にでも使わせるの?」 「まさか! 女性向けですよ」 「じゃあ、ウィンリィちゃんにでも?」 あは、とアルフォンスは柔らかで可愛らしい子供の笑い声を上げた。 「ウィンリィにはもう送ったんですけど、櫛にしたんです、ばっちゃんとお揃いで。髪飾りにする小さな櫛なんですけど、でも使ってくれるかなあ……」 「使ってくれるわよ、きっと」 だといいんですけど、とかしゃんと首を傾げ、アルフォンスはそれでですね、と続けた。 「凄く綺麗だった髪飾りなんですけど。かんざしって言うんだそうです」 「ウィンリィちゃんにあげたものではないの?」 「ええ、別のなんですけど」 アルフォンスはごそごそとベルトポーチを探り、薄い白い紙袋を取り出した。 「あの、これ、中尉が使ってくれませんか?」 「え?」 「あの、買ってしまったはいいんですけど、ボクらじゃ持っていても仕方がないし、似合う人に使ってもらえたほうがいいと思うので」 エドワードが激しく半眼になった。 なーにが『買ってしまったはいいんですけど』だよ。 これ絶対中尉に似合うよね、とか言ってた癖に。 そのために買った癖に。 今にも「けっ」と毒突きそうなエドワードを、くわえ煙草で嫌々ながら書類を検討していたハボック少尉が、不可解そうに眺めた。 「……おい、なんで大将あんなに機嫌悪いんだ」 ひそひそと囁かれた先のブレダ少尉は、開いた新聞から目を上げずにあっさりと「妬いてんだろ」と返した。 「って、大将って中尉のこと」 「いや、弟だろうよ」 「は?」 「お前兄弟多いだろ。姉ちゃんとかいないのか?」 「正真正銘長男なもんで」 「んじゃ妹だ。妹に恋人が出来たら悔しくねーか?」 はっはあ、と呟き、ハボック少尉はにやりと唇を吊り上げ4、5日の猶予のある書類をあっさりと引き出しに放り込んだ。 「ま、たしかに妹の恋人ってのは複雑だよなあ。妙に照れるっつーか、悔しいっつーか」 「だろ」 「でも俺は弟の彼女ならあんな目で睨まねえけど」 ばさ、と新聞を捲り、見掛けに寄らず賢明で冷静な戦友は再びあっさりと答えた。 「アルは今男でも女でもねーからな」 「………そういう問題なのか」 「そういう問題にしておいてやれ」 エドワードの人権のために、と厳かに答えた戦友に、アイサー、とやる気なく呟いて、ハボック少尉はいつも不遜な司令官へと視線を移す。 (………あーあ) 捨てられた子犬かあのひとは。 肘を突き組んだ両手に鼻を埋め口元を隠し、じっと己が副官と鎧の少年を見ている目がなんだかもう非常に物欲しそうで情けない。 本日は遅番だった中尉は出勤して来たばかりなのだが、出勤早々アルフォンスの相手を始めた彼女に今日はまだ一度も相手どころか挨拶すらしてもらっていないことが寂しいのだろう。 大の大人がなんですか、と言いたくなるのをぐっと堪え、ハボック少尉は差し出された紙袋を微笑ましい押し問答の末に受け取った中尉と、気に入ってもらえるものかとそわそわとしている鎧の少年を見た。 かさり、と乾いた小さな音を立てて中尉が紙袋を開く。 「………あら本当、綺麗ね」 女性の割には大きくて硬い掌の指にそっと握られた異国の髪飾りは恐らくは木製で、頭が広く細工が彫り込まれた長めの二股の板だ。棒と言ったほうが正確だろうか。使い方はよく解らないが、けれど兄と違って情緒溢れる弟が「思わず買ってしまった」というのが頷けるほど、美しい朱に塗られている。 鮮やかで深い朱に金と黒で印象的な図柄が描き込まれ、たしかに男性向けの品ではまるでない。 「気に入りました?」 不安そうに首を傾げるアルフォンスに、中尉はにこりと微笑んだ。 「ええ、とても」 「良かった! 中尉の髪の毛と瞳の色に似合うと思ったんです」 ぽんと手を打って喜ぶ少年にありがとう、ともう一度微笑んで、中尉はふと首を傾げて簪を見た。 「でも、これはどうやって使うの? 纏め髪にでも飾るのかしら」 でもそれだとすぐに外れて落ちてしまいそうだ、とただの飾りにしては重くて長い簪を手に悩む中尉に、ああそれは、とアルフォンスは売り子のお姉さんから仕入れた知識を披露する。 「纏めた髪に差して止めるんです」 「………どうやって?」 こうくるっと纏めてここに差してひっくり返してもう一度差して、身振り手振りで説明するも、中尉は良く解らない、と首を傾げるばかりだ。寄って来たファルマン准尉がその引き出しが多過ぎる脳味噌から掬い上げた知識でアルフォンスの説明を補足するが、余計に解らない、と一蹴されて沈黙した。 うーん困ったな、と首を傾げ、アルフォンスはあ、と手を打ち不機嫌な顔でそっぽを向き暑い暑いと唸っていた兄へとくるりと顔を向けた。 「兄さん、ちょっと来て」 「あぁ?」 「兄さんの頭で説明するから」 「なんでオレが!?」 「兄さん髪長いし。中尉と同じくらいあるじゃない」 何でオレがお前の恋路に手を貸さにゃならんのだ。 さすがにそう怒鳴るわけにも行かず、エドワードはただひたすら渋面を作りぶんぶんとかぶりを振った。 「それ女物じゃねーかよ! ぜってーヤダ!!」 「いいじゃない。これ付けて外を歩けって言ってるわけじゃないんだから」 「ったりめーだろ何の罰ゲームだそりゃ!? つか、お前それ中尉にあげんだろ!? いーのかオレが髪に差して!!」 あ、と呟いたアルフォンスに、正論で失言した兄があ、と呟き返す。 ああ、ムカツク。 そんな兄の内心を知らず、アルフォンスは頷いた。 「そうだよね」 「私は構わないけれど」 「ボクが嫌です」 さらりとたらしな発言をしたアルフォンスに目を剥く大人若干名。女性の少ない軍部では美人が人気があるのは当然だ。 「でも、どうしよう……使い方が解らないと意味がないですよね……」 しょぼん、と肩を落としたアルフォンスを眺めたホークアイ中尉が、無言でぱちりとバレッタを外した。レモンの果実のような薄い色合いのプラチナブロンドがさらりと落ちる。 中尉はそのままくるくると髪を纏めた。 「アルフォンス君。押さえているから、試しに差してみてくれる?」 再び目を向く大人若干名と、がた、と音を立てて立ち上がった男が二人。それを呆れた半眼で眺める目がいくつか。 アルフォンスは素直にはい、と頷いて立ち上がり、中尉の背後に回ると説明をしながらそっとその柔らかで真っ直ぐな髪に触れた。 |
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■2004/7/10
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