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「体温計を持って来させようか」
 え、と呟いて顔を上げると大佐は呆れた顔のまま肩を竦めた。
「数字で発熱していることが解れば服まざるを得まい?」
「いや別に熱があるのが信じられないから服みたくないとかじゃなくて。……つか、それってアンタのことじゃねぇの?」
 思ったままを意識せずに口にしたら呆気に取られた間抜け顔で見返された。ああまったく自覚のない男だ。
「体温計見て数字で出ちゃうと急に具合悪くなるヤツっているだろ。アンタそのタイプかなって」
「失敬な」
「だって無理してそうだし、無理出来なくなるのがイヤだからとか言って熱計んなかったり病院行かなかったりしそうだろ」
「失敬な」
 それしか言えないのかこいつ、と思っていると、大佐は再び引き出しを開けて今度は毛布を引っ張り出しオレに近付きほら、と差し出した。オレはその一貫性のない行動に毛布を眺めて頭を働かせた。
 寝ていない、という話は、した。さっき。
 ということは、だ。
「え? なに、寝ろってこと?」
「じゃなくて、身体に巻いてろ。寝ていても構わないが、寒いんだろう」
 寒いなんて話はしていない。
「別に寒くないけど」
「体温調整が出来ている顔じゃないな。四肢の欠損の痛みは私には解らんが、古傷が痛むときには身体が温まれば幾分かマシになる。君は違うのか」
「……………」
 起き抜けの混乱からずっとぐらぐらと揺さぶられ続けていて(揺さぶっている自覚がこいつにないことは百も承知だ)、オレは随分と参っていた。お陰で胸が詰まって言葉が出ない。大佐の腕を掴んで引き寄せてしまわないよう、毛布を睨み付けるのが精一杯だ。
 オレは大佐を見上げた。大佐は不思議そうな顔をして瞬きをする。
「なんだ。いらないのか」
「いや、」
 
 まったく間抜けな男だよ。
 
 オレは少し可笑しくなって眼を伏せ、礼を言って毛布を受け取った。大佐は満足そうに少し頷いて、くるりと背を向け執務机へ向かった。
「少し待っていろ、資料を纏めてやるから」
「アンタさっき纏めてあるって言ってなかったか」
「纏めてあるが、解りやすいように並び替えをして注釈を入れてやる。今日はこれからどこかへ出掛けるということもないんだろう?」
「………うん、まあ、今日は資料もらったら後はホテルに帰るだけ。アル待たせてるし」
「弟は一緒に来なかったのか」
「あいつまた猫拾ったんだよ………今頃獣医に行ってる」
 大佐は笑った。アルの話をすると、大佐は楽しそうに笑う。こいつはオレとアルが仲良くしていることが嬉しくて仕方がないらしい。
 まったく、子供扱いもいいところだ。
 オレは積まれている仕事をそっちのけで時折書き込みを入れながら資料を纏めてくれている大人を眺めた。きっぱりとした肩の線はいつもと同じように姿勢正しく保たれて、その肩書きに恥じない佇まいだ。無駄に偉そうではあるが過ぎるほどではなく、そつがない。
 前髪が微かに流れて額へ垂れた。その影が睫と相まって、大して彫りの深いわけでもない大佐の顔の影を濃くする。
 綺麗、だとか言うつもりはない。それなりに整った面立ちをしてはいるとは思うがそれは女のようだということではなくて、優男ではあるもののどこから見ても男の顔だ。
 けれどオレはこの顔を眺めていると、そしてこの黒い眼に見つめられていると、酷く安堵して、安定するのだ。ぐらぐらと浅いところで揺すぶられながら、浮ついていた芯がしっかりと元の位置へと戻って行くのを感じる。
 オレの決心は揺らいでいないのだと、オレはまだまだやれるのだと、世界は開かれているのだと、そう。
 
 諦める必要はまだないのだ、と。
 
「………大佐」
「なんだ」
 いい加減な相槌が鼓膜を打つ。なんて心地良い声だろうとオレは思う。
「こっち見てよ」
 顔が見たくてそう言うと、大佐はすぐに視線を上げた。真っ直ぐで真っ黒な眼がオレを見つめる。夜の色だ。何も隠してくれない、けれど曝け出した全てを暗闇に塗り潰す、夜の眼だ。
 
 オレは世の中の様々なものから、こいつに守られている。
 それはオレがまだ子供だという証拠で、それを自覚するのはかなりキツいことではあるんだが。
 
「………どうした」
 不審そうな大佐にうん、と生返事を返してしばらくその愛しい顔を眺め、オレは顔を伏せた。ふと笑みが洩れる。
「なんでもない」
「………そうか?」
「うん」
 低い声が耳に心地良い。その低音を更に低く囁くように落として薬を服めと言った大佐の声をもっと聞いていたくて、オレはうん、とまた生返事を返した。
「生返事ばかりだな」
 少し笑う。またうん、と返して、オレは自然と頭が垂れるのを不思議に思った。
 
 ああ、これじゃまるで救いを求めているようじゃないか。
 オレが、オレだけが救われるわけには行かないのに。
 
 オレだけが、安定と安寧を手に入れるわけには行かないのに。
 
「うん」
 発した声は力が満ちていて、オレは安堵する。決して震えてくれるな、と誰かに願ってオレはほとんど祈りのように続けた。
「………オレは大丈夫」
 そうだ、大丈夫だ。
 アルがいる。大事なひとたちがいる。好きなヤツがいる。
 そしてその誰にも疎まれてはいない。
 オレはオレの愛するひとたちから、きちんと愛されている。
 ふと、視界が陰った。見上げるといつの間にか大佐が正面に立っていて、どこかあどけなくも思える童顔を晒してオレを見下ろしていた。
「鋼」
「………うん?」
「私は君が好きだよ」
 くら、と眩暈がした。
 だから、どうしてこの男は、こうもオレを揺さぶるんだ。
 その言葉の意味が解らないわけではない。意図するところはオレのこいつへの好意とは全く別のところにある。それはよく理解している。
 だが、それでもどうしようもなく(本当にどうしようもなく喚き出しそうなほどに)嬉しくなってしまうオレを、全然解っちゃいないのだ。
 苦虫を噛んだような顔になったことは自分でも解った。大佐が喉を鳴らして可笑しそうに笑う。
「笑うなよ」
「いつもの調子が戻ったじゃないか」
 オレはむくれて見せた。多分それがこいつの望むオレの反応だからだ。
「ってアンタの告白ってそんなのばっかりだな」
「告白というほど畏まってはいないさ。好意を持っていると言っただけだ」
「それを告白っつーんじゃないかと思うんだけど!」
「アルフォンスも好きだよ」
「あーそうですか!」
 ああもう腹が立つ。嬉しくて仕方がない。
 アルを愛してくれる人間がいることは、オレが愛されることよりも遙かに嬉しい。それを解っていてわざわざオレにそれを言うこいつが、好きで好きでたまらない。
「良かったろう?」
「良かったよ! 嬉しいよ! 何なんだ畜生ッ!」
 ほとんど戯れの動きで脚を振り上げると大佐はさっと避け執務机へと戻った。オレはまたむくれて見せる。大佐は資料を差し出した。
「ほら、持って行け」
 オレは受け取り、更に手を差し出す。
「資料室の鍵もくれよ」
「それは明日だ。弟と来い」
「明日も来るけど今日もちょっと見て行……」
「却下だ。帰って休め」
 溜息が出た。時間を無駄には使えない。
「あのなあ、オレには時間が」
「時間ならあるさ、腐るほどとは言わんがね」
 オレの焦りを知るのか、そんなことを言った大佐は酷く酷く優しい眼をしてほんの少しだけ、微笑んだ。
(だから、ダメだってのに)
 どうして。
 
 どうして優しくするんだ、アンタは。
 
 オレは大佐を手招いた。しつこく呼ぶといつもならばお前が来いと言うはずの大佐は何か不明点でもあったか、と訊きながら再びオレの元へとやって来て、隣へ座った。今日はとことん甘やかす所存らしい。
「どれ、どこだ」
 うん、と返しながらオレは大佐を見上げる。西日が眩しく差してその顔にオレンジの影を深く落とす。
 
 綺麗だ、と、思った。人間の陰影はこれほどに。
 
 いきもののかたちは。
 
 僅かにオレから視線を外した大佐の眼を再びこちらへ向けたくて、思わず襟を掴んで引き寄せると直ぐ様視線はオレに降る。夕日が瞳に入りくっきりと白い星を浮かび上がらせて、頬と色の悪い唇がまるで血を差したかのように赤々と、
 
 だから、
 
 意識せずに唇を押し付けて、瞬間オレは強く後悔した。二度とすまいと思っていたことだ。オレがいつ大佐のことを諦められるのかなんて解りはしなかったしそんな日は決して来ないような気はしたが、けれどもう二度と、この男にオレのこのおかしな感情を押し付けることはすまいと決めていたのに。
 
 けれどその後悔そのものがこいつを戸惑わせる原因になりそうな気がして、オレは無理矢理いつものようににいと笑って大佐を見た。大佐は呆れたようにお前、と呟いて、溜息を吐いた。
「あのな、鋼」
「いいじゃんこんくらい。オレ元気出たし」
「元気って」
「忠告通り今日は帰って休むよ。ありがとな、大佐」
 オレは大佐の軍服の真ん中を軽く手の甲で叩いて立ち上がった。肩からずり落ちた毛布を畳む。
「んじゃな、大佐。また明日来るよ、アル連れて」
「ああ、解った」
 背を向けもう大佐の顔は見ずにオレは執務室を出て、中尉たちに軽く挨拶をして司令部を足早に後にした。
 
 どくんどくんと血の流れるリズムで痛む失くした手足と軋む無機との接続部分に意識を集中させながら、オレはホテルへと駆けた。
 アルが帰っていておかえりと言ってくれればいい、と心弱く思う自分に、少しばかり苛立つ。
 
 オレは今、どんな顔をしているのだろう。
 
 そんなことが気になったが、駆ける足を止めて通りに並ぶショウウィンドウに映る己の顔を見る勇気は、まだなかった。
 険しく怒っていればまだ、いい。
 無様に泣き顔であっても、それでもいい。
 
 けれど、もし、幸福そうにうっとりと笑っていたりなどしたら、もう二度とオレはオレを赦せる気がしなかった。
 
 オレはほとんど全速力でホテルへ駆け、ただいまも言えないほど息を上げて、待っていたアルに呆れられた。
 オレは少し安堵して笑ってアルに飛び掛かり、あの甘い子供の声で叱られた。
 
 そうだ、オレたちは共に在るものなのだ。
 だから。
 オレだけが救われるなんてことは、あってはならないことだ。
 
 
 
 オレは恋をしたことを、酷く酷く、後悔した。

 
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■2004/11/24
カメレオンのエドは大変真面目で大変弟想い(notブラコン)で硬派で少年でストイックです。しかし目指すぜ男前! とか思ってたんですがなんだかただの根暗な子になりつつ。……おかしいな。

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