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 真っ白だった。
 
 
 
「………あれ? おーい、アルー」
 どこに行ったんだあいつ、と首を傾げると、背中を編んだ金髪がするりと流れた。あれ、長い、と呟いて後頭部を撫でた手は金属の塊で、それに気付いた途端突然身体の右側が重くなりオレはがくりとバランスを崩してよろめいた。そのオレの肩を支えた大きな手。
「兄さんダメじゃない、こんなとこに来ちゃ」
「アル」
 オレはほっと笑って振り返り、今やたった一人の肉親のオレの愛するアルを見上げた。なんだか物凄くでかい気がしたが、それでもオレを兄さんと呼ぶその声はアルのものだったので、疑いようはないのだった。
「お前でっかくなったなあ」
「まあね」
「もう服とか着れないな」
「まあね」
「もう飯にするから帰ろうぜ」
「うん」
「兎捌かないと」
「魚釣らないと」
「あんときは地獄だったなあ」
「うん」
「また行きたいな」
「うん」
「蛇って結構旨いよな」
「鶏肉みたいだったね」
「血は生臭ェけどな」
「やだな兄さん。ボク臭いなんか解らないから」
 
 ああ、そうだっけ。
 
「……ここ、どこなんだ?」
「うん。境界」
「境界?」
「うん。生きたひとは来ちゃダメなんだよ」
「んじゃなんでお前はここにいんだよ」
「やだなあ、兄さん。ボクはずーっとここにいるじゃない」
 アルフォンスは、オレの最愛の弟は、そう言って表情のない面の奥でくすくすと笑った。オレはああそうだっけ、と肯いて、境界の向こうへ目を遣った。
 ひらひらと差し出される白く細い、手。
「ダメだよ兄さん。そっち側はダメなんだ。ボクだってまだ行けないのに」
「でもあれ、母さんの手だぞ、アル」
 アルはオレの右手を掴んでいる。感触のないはずの右手がぎちぎちと痛むほど強く握り肩が軋むほど引っ張るアルの手を、やはり渾身の力で握り返しながら、それでもオレは左手を差し出した。
「かあさ……」
「ダメだよ、兄さん」
「アル」
「そっちに行くの? ボクを置いて行くの?」
「アル」
「帰って来る?」
「帰る?」
 
 何処へ?
 
 この世界に、オレたちの居場所なんか、もう。
「───母さん!」
「兄さん」
「アル。母さんの手だ」
「兄さん」
 ぽろぽろと、アルの目から涙がこぼれたのが、見なくても解った。ぎゅっと握る手は小さくて柔らかくて、温かく湿っていて。
「帰ろうよう、兄ちゃん……」
「…………、アル」
 振り向く前に、ゆっくりと。
 アルの手は、オレから離れた。
 オレは振り向く。真白な中にくたりと落ちた、アルの服と靴。
「ア………、」
 伸ばしたままの左手を、優しく握った白い手を、振り解こうとオレは振り向く。
 
 身を翻すように消えて行く手は、関節が目立つ無骨な男の手、だった。

 
 
 
 
 
 
 眼前から去ろうとした手をオレは思わず掴んだ。驚いた顔の大佐が見下ろしている。
(……戻って来れた)
 オレは酷く安堵する。この大人はオレをこの世に呼び戻す。
 
 あの、とき。
 
 あの地獄の後。
 アルの魂を錬成し、それがオレの精一杯なのだと解ったあのとき。
 アルは二度と元の姿には戻れずオレは手足を失くし母さんは蘇らず世界は真っ暗で閉じていて、ああもう何もかも終わったのだと、オレはこれ以上にはなれないのだと、その真実を突き付けられてオレは半ば以上死んでいた。
 
 この男が、オレに世界を示すまで。
 
 社会と呼ばれる人間の世界は狭くあらゆる真実からほど遠い。それは言うまでもなくそうだ。島で学んだ全一と照らし合わせるとき、人間の社会は酷くちっぽけで取るに足りないものへ成り下がる。
 しかしその狭い世界の中に、まだまだ未知が眠っているのだと。
 
 それを解き明かし、力とする術がここにあるのだと。
 
 大佐は扉を開いて見せた。
 子供の世界にはないものを、親父の書斎にはないものを、師匠が敢えて教えてはくれなかったものを、故郷にはないものを、人生の旅路で得てゆくはずのものを、諦めることが出来るのか、と。
 
 無論それは美しいものではなかった。醜悪で狡くて汚い大人の世界で、オレもアルも、それに酷く嫌悪した。
 それは子供の潔癖さだったのかもしれないし世間知らずの田舎者の綺麗ごとだったのかもしれないが、大佐はそれを敢えて呑めとは言ったものの、嫌悪するオレたちそのものを嘲笑ったり否定したりすることはしなかった。
 
 オレはその夜、アルと長い時間話をした。ウィンリィが心配して何度も様子を見に来るくらい長い時間、アルの魂を錬成してから初めて、未来の話をした。
 
 オレに焔を点け泥の底から引き擦り上げて背を押したのは大佐だ。お前の道は既に泥でまみれているがそれでも蹲らず走れと叱咤したのはこの男だ。
 走れなければせめて歩け。歩けなければせめて立て。
 
 人間は飛ぶことはできないが、それでも空を見上げて太陽を追うことは出来るのだと。
 
 大佐がどういう理由でオレに前へ進めと叱咤したのかは解らない。解らないが、それでいいと思う。解りたくないわけではないが、説明されても解らない気がするからだ。
 けれど大佐に示された世界はオレの閉じていた眼をこじ開け塞いでいた耳に音の洪水を注いだ。
 
 オレたちは世界と繋がっていた。
 
 例えばウィンリィやばっちゃんや、リゼンブールの友達や、師匠やシグさんや、多くの優しいひとたちと。
 その繋がりは細くてけれど強固で、オレがどれだけ目を背けようと断ち切れるものではないのだと、オレは痛いほどに思い知った。
 アルだけいればいい、なんて。
 そんな傲慢を、オレはアルに押し付けようとしていたのだと。
 アルの世界すら閉ざし、アルは生きているなんて言いながらその実誰よりもあいつの生を否定していたのはオレだった。
 アルを受け入れたウィンリィもばっちゃんも、そんなことは疾うに解っていたというのに、オレだけが何も解っちゃいなかった。
 
 その曇った眼をこじ開けてくれた大佐が、今、また。
 オレを───見ている。
 
 オレは酷く愛しくなって、その指を引き寄せてキスをした。骨張った手は女のひとのもののように手触りのいいものではないが、それどもオレはこの感触に、このにおいに安堵する。
「……………。……おはよう、鋼の」
 低音の、少し舌っ足らずな声がオレを呼ぶ。オレはうん、と生返事をして眼を閉じた。手足の欠損部分の疼痛は酷く、頭痛を呼び、不快な悪寒が背を上り続けているが、この声に包まれていれば眠れる気がした。
 眠れる、気が。
 
 ………って、
 
(何で大佐がいるんだ!?)
 オレは慌てて瞼を上げ変わらずそこにいる大佐を見て反射的に飛び起きた。
「な、な、な………!?」
「何をどもってるんだ」
 いやそう言う問題じゃない!
「何してんだよアンタ!?」
「ここは私の執務室だぞ。そこで寝こけていた君がそれを言うかね」
「いや、だって! 起こせよ! つかなんでそんなとこ座ってんの!?」
「どこに座ろうが私の自由だろう」
 行儀悪く肘掛けに座っている姿を指して言えば、大変もっともな返事が返された。いやでも、と反論する内容などないというのに続けそうになったオレに向かって大佐が手を伸ばす。オレは思わず逃げ掛ける。再三言うがこの男は自覚が足りない。
 オレが、隙あらばこいつを押し倒してしまいたいと思っていることを、どうして解ってくれないのだろう。
 かさかさと乾いた、温い掌が額を包んだ。
「熱があるぞ。肩が痛むのか」
「─────、」
 
 ああ、クソ、このバカ大人。
 どうしてそう唐突に優しくしてみせるんだ。
 
 オレはもごもごとどもった。
「た……大したことねぇよ。これからの時期はよくあるし、今日はちょっと寝てなかったからそれで特に調子悪いだけで。……いいから離せよ」
 オレは大佐の手を振り払った。大佐はあっさりと手を引いて立ち上がり、執務机へと向かう。オレは妙にがっかりしている自分に気付いて慌ててかぶりを振り、まだ寝惚けてんのかオレしっかりしろ、と胸の裡で叱咤してごしごしと首を擦った。
「………なんか寝た気がしねぇ」
「大して寝てもいないだろうし、ソファなんかで居眠りしていたんだから疲れるだろう、それは」
「うーん……」
「帰ってホテルのベッドで眠ったらどうだ。体調が悪くては研究どころではないだろう」
「や、あんまりこっちにいらんないからさ、時間無駄に出来ねーっつーか」
「大した情報は入っていないぞ。一応資料になりそうなものは纏めてあるが」
「ん、ちょっとでも手掛かりになりそうなもんがあればラッキーだよ。悪いな、いつも」
「耳に入ったものを取り置いているだけだ、大した手間じゃない」
 自ら情報収集して歩いているオレたちでもなかなか巡り会えないというのに、そうそう賢者の石に関係しそうな情報が耳に入るわけはない。大人のささやかな気遣いと照れ隠しに少し笑って、オレは着たままで寝たせいで皺の寄ったコートを伸ばした。しわくちゃにして帰ればアルに小言を言われてしまう。
「鋼の、ほら」
 引き出しをごそごそと漁っていた大佐が、そう言って何かを投げて寄越した。右手で受け取ると、かちんと硬質の音がする。見ると錠剤が半分ほど入った小瓶だった。
「なにこれ」
「鎮痛解熱剤」
 いやそれは解ってるけど、と思いつつ、オレは大佐の意図に気付いてふいに泣きたいような笑いたいような衝動に駆られた。
 
 ああ、畜生。キスしてぇ。
 
「………いらねぇよ。持ってるし」
 ほとんど強がりのように返すと呆れた溜息が落とされた。
「持っているなら服みたまえよ」
「や、耐性出来るといざってとき困るし、それにトランクん中だからホテルに置いてるし」
「ではそれを服みたまえ。熱があると言っただろうが。今服まなくていつ服むんだ」
 大佐の言うことはもっともだ。オレだってたまに必要なときに服用するだけでそれほど耐性がついてしまうとは思ってはいないし、旅の途中、移動が困難なほど体調が狂ってしまったときには薬の世話になる。
 だが、機械鎧の手足がオレのものであるようにこの痛みもまたオレのもので、それはアルの痛みでもあって、だからオレは出来る限り、目的を妨げない程度にはこの痛みを甘受しなくてはならないのではないかとそんな風に考えていて。
 無論それはくだらないセンチメンタリズムであって、オレが薬を服もうが服むまいがアルは鎧のままだし賢者の石は見つからないし、オレたちの罪が軽減されるわけではないのだけれど。
「いやだからー………怪我したときとか?」
「鎮痛剤が必要なほどの怪我をしたときには病院へ行け。医師が処方する薬なら市販薬で耐性が出来ていても効くから気にするな」
 オレの下手な言い訳に大佐は至極真っ当に返答する。
 こんなところばかり真面目で困るな、と考えながらどう言い訳しようかと薬瓶を睨んでいると、再び溜息を吐かれてしまった。

 
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■2004/11/24

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