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「兄さん、大丈夫?」
「………うーん? アル?」
 声はすっかり呂律が回らなくなってはいるけれど、酔いが回り切った酩酊状態の兄はもう大声で喚くことはしない。ただとても眠いのだろうなあとアルフォンスは想像する。
 お酒で酔っ払った経験ってないからなあ、ボク。
 まともに飲酒を経験する前に肉体を失ってしまったから。
 兄はのろのろと這いずるように動いて、片膝を突いていたアルフォンスの腰に両手をしがみつかせた。
「アルー………」
「なに」
 仕方なしに兄のベルトを掴んで持ち上げ、がしゃんと座り込んで足の上にのそりと下ろす。伸びた大猫みたいだなあ、と思いながら見ていると、エドワードはのぞのぞと動いて再びアルフォンスの腰に腕を回した。隣ではもうどこを見ているんだかも解らないのっぽの准尉が、まさに壊れた蓄音機よろしく何事かを語っている。
 それをBGMにしながらもそもそと動く兄を見ていると、のろりと鋼の腕を上げた兄が、ごつん、と力なくアルフォンスを叩いた。
「………兄さん、傷が付いちゃうよ」
 黙って眺めていたものの、ごつん、ごつんと何度も殴られるものだから、せっかくのウィンリィ印の機械鎧が壊れてしまっては可哀相だとアルフォンスはその腕を掴んだ。
「どうしたの、兄さん。ボクなにか叩かれるようなことした?」
「……アルー………」
「なあに、兄さん」
 沈黙。
 寝たのかな、とそっと顔を覗き込もうとしたアルフォンスは、ふうっと溜息のように洩らされた息と、続く言葉に動きを止めた。
「出て来いよ」
 エドワードは眼を閉じている。半ば以上夢の中だ。
「早く出て来いよ−………」
 アルフォンスはそっと掴んでいた腕を下ろし、ぽんぽん、とエドワードの肩を叩いた。
「眠るといいよ、兄さん」
 エドワードはまだぐずぐずと譫言を呟いている。
 もう少しお酒詰め込んだら寝るかなあ、と思いつつ、アルフォンスはとん、とん、とエドワードの肩をゆっくりと一定のリズムで叩いた。
 
 怖い夢を見て起きたときなんかに、母さんがこうしてくれたっけ。
 
 やわらかなブルネットを揺らし、優しいみどりいろの瞳を細める。
 大丈夫よアル、と抱き締めて、仕方がないわね、と微笑んで。
 
 ふと、何を意識したわけでもなくアルフォンスから唄がこぼれ出た。ずっと小さな頃に聞いた子守唄。
 
 ───ゆめをさそう ゆりかごよ……
 
 いい夢を見てくれればいいのに、兄さん。
 出て来いよ、というあなたの言葉に現実のボクがうんと頷くことは出来ないけれど、せめて夢の中のボクが、うん、解ったよ兄さん、と。
 
 今あなたのもとへ帰るから、と。
 
 兄が静かになり、規則正しい寝息を洩らし始めてもしばらくの間、アルフォンスは微かな声で子守唄を歌い続けた。そしてふと蓄音機が黙り込んでいたことに気付く。
 見ると壁に凭れたファルマン准尉は気持ち良さそうな寝息を洩らしていた。いつも眼が細いから、規則正しい息がなければ起きているんじゃないかと思うほどだけど、姿勢のいいこのひとにしてはぐったりと脱力したその姿はあまりに無防備で、ああやっぱり眠っているんだよね、と頷いてアルフォンスは視線を巡らす。
 テーブルの上を片付けていたホークアイ中尉と眼が合った。中尉は薄く微笑み、テーブルを拭いてグラスをまとめた。
 このひとも凄く呑んでいたような気がするんだけど、と思いながらさらに視線を巡らすと、ブレダ少尉がソファにごろりと横になって軽くいびきを掻いているのを見つける。
 いつの間にかソファに移動していたマスタング大佐は、手酌でウィスキーを注ぎ、舐めるようにグラスを唇に付けた。上着を脱いで足を組みソファの背に片腕を回した寛いだ姿だが、紙のようだった顔には平常の色が戻っている。
「歌が上手いんだな、君は」
 静かな静かな声は、先程まで下品に笑っていたひととは思えない。
 アルフォンスはいつものように礼を言うことも、可愛く照れることもせずに、小さな声でそうでしょうか、と返した。
「母さんはもっと上手かったんですよ」
「ほう」
「父さんは、オペラ歌手みたいにいい声だったって母さんは言ってました」
「ふうん。両親が上手いから君も上手いのか」
「でも兄さんは音痴なんです」
 肩を竦めるようにしてアルフォンスは密やかに笑う。
 
 音感を決める耳や脳や声を震わす声帯や腹筋のないボクが、どうして歌を歌えるのだろう。
 
 それはとても不思議なことだ。兄さんにも多分解らない。考えるごとに、深い淵を覗いたような、覗き過ぎるともう戻っては来れないような、そんな不安で真っ暗な気持ちになる。
 そんなことを考えていたら、大佐の真直ぐな視線と目が合った。
「………なんですか?」
 首を傾げてみせると、同じように首を傾げた大佐は目を細める。
「女性が好きだろう?」
「え?」
「年上の女性が好きなんだろう?」
「……さっきのセクハラの続きですか?」
「キスをしたいと思うだろう」
「まだ酔ってらっしゃるんですね?」
「優しく抱き締めたいと思うだろう」
「思いませんよ、そんな」
「愛しいと思うだろう。愛したいと思うんだろう?」
 愛しいと。
 
 ────あいしたいと。
 
 じっと見つめる赤い光に、大佐は飄々とした顔で再びソファに深く座り、足を組み直した。
「謝らないよ。悪いことを言ったとは思っていないんでね」
 女性を異性として愛する気持ちを知らないままに肉体を失った者へ、不躾な、ほとんど苛めのような質問をしたことを。
「肉欲はなくても恋はできるよ、アルフォンス君」
「………大佐に言われるとなんだか」
「信用できないか?」
「意外ですけど、でも、うん」
 アルフォンスはあは、と笑った。
「結構ロマンチストなんですね」
「知らなかったのかい?」
「知りませんでした」
「では知っておいてくれたまえ。私は純粋に恋を楽しむタチなんだ」
 そう嘯く大人にあはは、と笑って、アルフォンスは頷いた。
 ああ、このひともハボック少尉も、どうしてこう大人の優しさは解りにくいんだろう。
 体温など感じなくても、寄り添う気配はこんなにもアルフォンスを癒す。
 グラスを片付けたホークアイ中尉が窓を開ける。ゆるく吹き込んだ風に、大佐がふ、と息を吐いてシャツの襟を緩めた。
「凄いアルコールの臭いだったんだな」
「呑み過ぎてらしたようですから」
「何、大したことはないよ」
「そうですか。では明日は遅刻をせずにきちんと出勤してくださるんですね」
「……………」
 有能な副官に黙らされてしまった大佐にくすくすと笑うアルフォンスに、中尉がふと微笑を向けた。
「宿までエドワード君を連れて帰るのは大変でしょう? 仮眠室を開けましょうか」
「あ、すみません」
「エドワード君を寝かせたら、少し付き合ってくれるかしら」
 がばっと大佐が俯いていた顔を上げたのが面白くて、アルフォンスは用件を聞く前にいいですよ、と頷いた。ホークアイ中尉はよかった、と微笑む。
「引き払ったタイプライターを譲り受けたんだけど、旧型なものだから大き過ぎてどうやって持ち帰ったらいいか悩んでいたの」
「……………」
「よろしくね」
「…………。………はい」
 兄を宿まで持ち帰ったほうが楽だったかもしれない、などと考えながらさぞかし楽しそうな笑顔で見ているだろうと大佐を見ると、予想に反して彼は酷く難しい顔をしていた。
「………中尉の家へ行くのか」
 そんなこと考えてたんですか大佐。
 アルフォンスは溜息を吐く。
「大丈夫ですよ、前にもお邪魔したことありますから」
「何!?」
「お部屋の模様替え手伝ったんです。あと、ブラックハヤテ号の散歩に付き合わせてもらったりとか」
「な………」
「それじゃ、行きましょうか」
「おい、ちょっと待ちたまえ!」
「………んですか大佐、静かにしてくださいよせっかくいい気分で寝てるっつーのに…」
「それどころじゃないだろう!」
 なにがそれどころじゃないんだか、と笑いながら、アルフォンスはエドワードを小脇に抱えてホークアイ中尉に続いて退室した。
 閉じた扉の向こうからは、まだ大佐の声が聞こえる。

 
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■2004/6/5
何の宴会だとか言ってはいけない。
マスタングさんの部下のひとたちはもっとアルを構ってあげればいいと思います(無茶言うな)。

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