スイム

 
 
 

 誰の知り合い、だったのかはもうよく覚えてはいない。ただ記憶にあるのは、初めて訪れた産院と、病院独特のにおいと、薄暗い廊下と、その中でやわらかな光りをほんのりとウッドフロアに投げ掛けるガラス張りの新生児室と。
 アルフォンスの回りには基本的に大人ばかりで、唯一の子供仲間である兄もひとつ上だったから、自分よりも小さな子供(つまり赤ちゃん)を見たことはほとんどなかった。
 だからとても珍しくて可愛くて、まだ目も開かない額の大きなその顔が今まで見たことのある誰とも違っていて、新しい生き物に出会ったかのような奇妙な気持ちになって(だから兄は妙に退いていたのだけれど)、アルフォンスにはそれがとても愛しい生き物に思えた。
 大人たちと兄はまだその赤ちゃんのお母さんの病室で、話をしているはずだった。赤ちゃんを産んだばかりのお母さんはベッドから離れられなくて、うっすらと笑むその儚い微笑になんだかもう天国に行ってしまったお母さんを思い出して少し切なくなったから、アルフォンスはひとり新生児室の前で、ガラスへと張り付いている。いくら背伸びをしても赤ちゃんは見えなかったけれど、このガラス一枚向こうにあの見たことのない生き物がいると思うと、胸がきゅうと柔らかく絞られるような、どきどきと鳴る心臓に血が拡散していくような、不思議な気持ちになれた。
 
「弟か妹が出来たの?」
 
 ふいに話し掛けられて、アルフォンスは慌てて頭上を振り仰いだ。お腹の大きな女のひとが、ガラスの向こうへと向けていた眼をアルフォンスへと落とす。にっこりと笑った顔のその頬は薔薇色で、黒い眼がきらきらと輝いていた。
「お母さんが赤ちゃんを産んだの?」
 どきどきと胸が鳴った。アルフォンスは握った拳を口元に引き寄せて、どきどきとしたまま小さく笑い、それから恐る恐る頷いた。お母さんが産んだわけでも、弟や妹が出来たわけでもなかったが、けれどその小さな嘘に、アルフォンスは頬が熱くなるのを感じた。
「う、うん……」
 今度は小さく返事をしてもう一度頷き、上目遣いに伺うと女のひとはにっこりと笑った。
「そっかあ、おめでとう。お兄ちゃんだね」
「……おばちゃんはまだ赤ちゃん産まれてないの?」
「ううん、もう産まれたよ」
 え、とアルフォンスは瞬いた。
「だって……、ボクのお…おかあさん、まだ、起きて来れないよ」
「ああ、手術したのかな? おばさんは手術してないからね、すぐ動けるの」
 アルフォンスはぱちぱちと瞬いた。
「……シュジュ…チュ、してないのに、どうやって赤ちゃん出すの?」
「赤ちゃんが出てくるところがあるんだよ」
 アルフォンスはじっと、まだ大きな女のひとのお腹を見た。
 
 ………お腹から、手術なしで、赤ちゃんが?
 出てくるとこって、どこから?
 
 出入り口のようなところがあるとしたらおへそくらいしか思い浮かばない。けれどおへそからはいくら小さいとはいえ赤ちゃんが出てこれるとは思えなくて、アルフォンスは失語したままおろおろと固まった。
「ボク? どうしたのかな?」
 あれ、怖がらせちゃったかな、と困ったように笑った女のひとの顔を見上げることも出来ずに、アルフォンスはただ足下の木目を見た。ぐるぐると、いつだったかに夜中にトイレに起きたときちらりと見てしまったホラー映画の血塗れの女のひとが脳裏に浮かんで、じわりと涙がにじんだ。
 
「アルフォンス君?」
 
 びくんと跳ねて、それから慌てて踵を返しアルフォンスは廊下の向こうからやって来たリザへと駆け寄り、ぴたりとその足に抱き付いた。
「アルフォンス君? どうしたの」
 ロイとは違う細い、少し冷たい手が困惑げに頭を撫でる。あはは、と困ったような笑い声がした。
「ごめんなさいね、弟さん怖がらせちゃって」
「あ、いいえ……」
「可愛い弟さんね?」
「いえ、私の弟ではなくてお隣の子なんですけど」
 頭上でかわされる言葉も耳を素通りし、脳裏をぐるぐると巡る怖い考えにアルフォンスはただただ固まって、ぎゅうとリザの足にしがみつき続けた。
 その間ずっと頭を撫でていてくれた手がやがてそっと背に回り、抱き上げてくれるまで。
 
 
 
 
 
「アルフォンス君」
 ぐしゅ、と鼻を啜ったアルフォンスに鼻をかませて、リザは少し冷ましたココアをそっと手渡した。隣へと座る。
「何が怖かったの?」
「…………赤ちゃんが」
「え?」
「お腹から出てくるって」
「……出てこなければずっと産まれてこれないでしょう?」
「シュジュチュしなくても出るって」
 まだ涙に濡れたままの顔を上げ、どこから出るの? とびくびくとしたままの表情で問われてリザは少しばかり困る。真実を話してやったところでこんな小さな子供には当然解るはずもなく、大体にしてそういった教育めいたことは、この子供達の養い主の許可なしに行っていいものとは思えない。
 だからと言ってコウノトリが運んで来て枕元に置いていってくれるのよなどとメルヘンじみた話をするには自分は情緒に欠けることも解っていたから、リザはええと、と呟いて小さく首を傾げた(きっとグレイシアだったなら、子供を傷付けずに上手く説明出来たに違いない)。
「………もうちょっと大人になれば解る、と思うけれど」
「リザねえちゃんも知らないの?」
「知っているけれど……」
 ああしまった知らないと言えばよかった、と少しばかり後悔して、リザはまだ不安そうな顔を見つめそれからあ、と呟いた。鞄を引き寄せる。
「アルフォンス君、そんなことよりも、これ」
 ごそごそとシルバーのシールで封をされた紙箱を取り出して、リザは手渡した。
「バレンタインのお礼……というのも、変だけれど」
「え?」
 ぱちぱち、と瞬いた金眼に、ああ知らないのか、とリザは微笑む。
「今日はホワイトデーと言って、バレンタインデーのお礼を渡す日なの」
「え? でもボク、リザねえちゃんにあげてない」
「一緒に作ってくれたでしょう、チョコレート。マスタング先輩からお礼をいただいたから、一緒に食べようかと思って」
「……でも、ロイがリザねえちゃんにあげたのでしょ?」
「たくさんあるから、大丈夫よ。エドワード君にもあとであげましょう」
 言いながら、小さな手の中に抱えられている少しばかり大きな箱を開けてやると、整然と並んだ小振りのクッキーとマシュマロの詰まった瓶に、見開かれた金色の眼がきらきらとした。涙に紅潮していた頬が、理由を変えてピンクに染まる。
 くす、と小さく笑って、リザは早速クッキーに指を伸ばす幼児の涙の跡の残るやわらかな頬を、そっと指先で拭った。
 
 
 
 
 
 はあ、と溜息を吐いてくうくうと寝息を立てる子供たちの寝室の扉を閉めたロイに、リザは真っ直ぐに立ったまま申し訳ありません、と謝罪した。
「何を謝るんだ」
 お茶でも、と居間へと誘うロイについて行きながら、リザは変わらず硬い口調で続ける。
「折角戴いたお菓子を」
「あー、いい、いい。というかむしろ悪かったね、また改めてなにか送ろう」
「いえ、私が勝手にあの子たちに分けてしまったのですから。お気遣いなさらないでください」
「お気遣いさせてくれ。君には甘えっぱなしなんだから」
 その甘えが子供たちに掛かることに気付き、リザは薄く笑う。
「いえ、あの子たちはいい子ですから」
「そう言ってもらえると助かるよ」
 やれやれ、と呟きまるで年寄りのようにごきりと首を鳴らして、ロイは茶器を手に取った。
「あ、私が」
「紅茶が淹れられるか?」
「努力します」
「………座っていろ、旨いのを淹れてやるから」
 それ以上言い募ることなくはいと頷きリザは台布巾を手に取り、居間へと戻って行った。子供たちがスケッチブックを広げたままのテーブルを片付けるのだろう。
 ケトルを火に掛け、茶葉の準備をしながらロイは指を握った小さな小さな手の感触を思い浮かべた。
 あの小さな手は、今はおとなしく寝室で眠っている金色の子供たちも、ほんの数年前までは持っていたものだ。
 ロイはその手を知らないが、今、それでもまだまだ小さな手が、この骨張った指を握るその感触は知っている。
 あの子供たちを預かることがなければ恐らくはまだまだ縁がなかったろう、小さくやわらかな生き物に対する妙に甘く胸を締め付ける感覚に不思議と笑みがこぼれてしまうのは、リザばかりではない。母性というのは女性にだけ備わるものでもないのだな、と考えて、ロイは薄く笑った。
「リザ」
 聞こえなくても構わない、というつもりで名を呼ぶと、すぐにリザは姿を現した。
「入試のほうはどうだ」
「今更それを訊きますか?」
「君なら大丈夫だろうと思って」
「ご懸念なく。春からはまたあなたの後輩です」
 うん、そうか、と呟いて、ロイはシンクに寄り掛かったまま唇を指で撫でた。
「……進路まで俺に合わせることはないからな」
「ご迷惑ですか」
「ご迷惑だなどととんでもないが、しかし俺は大学に残るぞ。君は君の能力を生かせる場があるだろう」
「そうですね。あなたのお役には立てないのかもしれませんが」
 リザはひとつ瞬いた。その一瞬に彼女の迷いを見て、ロイはじっと観察を続ける。
「……お側にいては迷惑ですか」
 もう一度繰り返された問いに、ロイは軽く片眉を上げた。
「迷惑だなどと言うことはないさ。……まあ、ゆっくり決めろ。俺もまだはっきりと進路を決められる時期ではないしな」
「あなたは決めた通りの道へと進みますよ。頑固ですから」
「君も相当頑固だがな。まあ、俺に付き合うだけが道ではないという話だ。職場は違っても友人ではいられるさ」
「私はあなたの友人になりたいわけではありません」
「なんだ、愛の告白か?」
「申し訳ありませんが、現在想い人がいますのでその手の冗談には嘘でも乗って差し上げるわけにはいきません」
「君も結構ころころ好きな男が変わるよな」
「あなたほどではありません」
 言って、ふと悪戯っぽい笑みを浮かべてリザは首を傾げた。
「お湯が沸いていますよ」
「おっと、しまった」
 慌ててコンロを止める後ろ姿を眺めリザはもう一度微笑んで、食器棚からカップを取り出した。
 
 今、まだもう少し。
 
「……側にいることを許してください」
「許すも許さないもないさ」
 離れがたいのは君ばかりではない、と続いた言葉に、リザは微かに笑って無言で答えた。

 
 
 
 
 

■2006/3/14

リザちゃんは高校3年生。来年度から大学生っぽい。ていうかロイアイくさいがどうなんでしょうか。(訊かれても)

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