「鋼の、ブーツの底が壊れるぞ」
「直せばいいだろ」
 いちいち踵で石畳を蹴りながらのろのろと歩いていたエドワードは、ふいに振り向いてそう言った大人を睨んで不機嫌に呻くように返した。大人は拳を口元に当てておかしそうに目を細める。
「新品にしたところで減った踵は戻らんぞ。質量が足りん」
 声を掛けられるたびに薄く微笑しながら、濡れた石畳にゆったりとガス灯の光を映す美しい夜の通りを行く大人は悔しいくらいに余裕たっぷりに見えて、エドワードはむすりとむくれて一際大きく踵を鳴らす。
 そうしながらも足を止めずにのろのろと歩くと、足を止めて待っていた大人に追いついてしまった。
 エドワードはわざとぴったりと近くまで歩を進め、それから身を逸らすようにして大人を見上げる。
 ロイはにやり、とひとの悪い笑みを浮かべてその不機嫌な子供の額を小突いた。
「だから、ろくでもない賭けを持ち出すのは止めろと言ったのに」
「ッせ」
「いくら君が頭が良くてもだな、盤上というものは読み切れないものなのだよ、初心者にはね」
「うるせーっつの」
「まだまだだなあ、鋼の」
「だから笑うなーッ!!」
 癇癪を起こして足を払うとひょいとかわされ、それにまた腹を立ててエドワードはがしがしとひとつにくくっただけの洗い晒しの金髪を混ぜた。
「何もこんな雨の夜にわざわざ出掛けなくても……!」
「今夜のうちに済ませねば君は有耶無耶にしてしまうつもりだろうに。それにもう止んでる」
 ほら、と指差された空は渦巻く雲が西へと流れ、淡い月が輝いている。その白と黄の月と濃紺と闇の空と薄灰色の雲は濡れた街と相まってなかなかに絵になっていて、イーストシティはこれほど美しい一面を持ち合わせていたのか、と感心するところだ、いつもならば。
 
 これから向かう先が、娼館などでなかったのなら。
 
 この街の夜の顔の美しさを熟知する大人はすたすたと歩き始めていて、けれど今度は赤いコートに包まれた二の腕をその大きな手に掴まれエドワードはほとんど連行されるように引きずられて眉間のしわを深くした。
「ッとにアンタってわっかんねー」
「何が」
「オレまだ15なのにさあ。それに普通オレが行きたいっつっても止めるとこだろ、恋人を娼館に誘うヤツなんかいな……」
 鈍い音を立てて拳が脳天に降り、エドワードは頭を抱えて呻く。
「痛ェって!」
「ほう、何故殴られたか解らないと。では解るまで殴ってやろうか、ん?」
「……………すみませんでしたー」
 青筋を立てた笑顔を上目遣いに見て頭を押さえたままわざと哀れさを滲ませた声で謝ると、大人はふん、と呆れたように鼻を鳴らした。
「なんというか、往生際が悪いな」
「ッたりめーだろバカ大佐!」
「普通の15歳なら喜ぶところだと思うんだがなあ」
「オレは真面目なんですー」
 けっ、と毒突いてそっぽを向いたエドワードの手を、苦笑を浮かべた大人が握った。エドワードはぎくりとしてその顔を見上げる。大人はにやにやと笑った。
「なんにしても負けは負けだ。きっちり代価は払ってもらうぞ、鋼の」
「子供虐めて何が楽しいんだーッ!!」
「人聞きの悪い。普通子供はあんな賭けはしない」
「………んなこと言われても」
 
 たまにはアンタから誘ってよ、と、戯れに口にしたら酷く嫌な顔をされて引っ込みが付かなくなっただけだったのに。
 
「あーもーほんっとアンタって性格悪ィ」
「何を言う。負ける賭けを持ち出したのは君だぞ」
 はっはっは、と楽しそうに笑って手を引き歩く大人に嫌々ながらに連行されながら、エドワードは空を見上げてあーあ、と溜息を吐いた。
 
 
 
 
 
「いらっしゃい、マスタング大佐。お見限りだったわね」
「君に会いたくて仕方がなかったんだが、お目付役がうるさくてね」
 艶やかに胸の開いたドレスに身を包んだ、しかし意外に派手ではなくどこか清楚さを纏わせた美女は、ごく自然にエドワードが思わずどきりとするほどぴったりとロイへと寄り添った。その美女を軽く抱き寄せ額へ掛かる金髪に唇を落とした恋人はちらりと少年へと笑みを向ける。その視線を追って美女がエドワードを見つめた。
「さっき電話で言っていた子ね?」
「ああ。よろしく頼むよ、イヴリン」
 ぱちぱちと瞬いている間にいつの間にか集まってきた女たちにコートを脱がされ腕を取られ、エドワードは逆らうタイミングが計れずに思わずロイを見た。
 ロイは可笑しそうにその戸惑った子供の表情を眺めていて、それを睨んだエドワードにイヴリンと呼ばれた女性が足音なく優雅に近付く。さらさらと衣擦れの音がして、甘く眩むような香水が香った。
「もっと気楽にして頂戴、坊や」
「ぼ……」
「お名前は?」
「え、エドワード・エルリック、…です」
「そう、よろしくねエドワード。わたしはイヴリン」
「サマンサ」
「アナよ」
「リビー」
 よろしくね、と腕に絡み付かれエドワードはおろおろと女たちの顔を見遣る。その姿にとうとう堪えきれなくなったのか腹を抱えて俯きくつくつと笑い出したロイを、イヴリンが人が悪いわ大佐、と苦笑混じりに諌めた。
「さ、どの娘がお好みかしら? 好みの娘がいなければ他の子を呼んで来るけれど」
「え、えーと………」
 黒髪と金髪と茶髪、歳も皆ばらばらで、一番年長なのは言わずもがなのイヴリンだったが、エドワードは次に年長らしい黒髪のアナに一瞬目を止めた。しかしすぐに視線を外し、えーと、と呟いてまだ十代ではないかと思えるほどに若いリビーを指す。
「やっぱり歳が近い子がいいのかしら。じゃあ、リビー」
「はい、姉様」
 こくりと頷いて、リビーは茶髪を揺らしてエドワードの左腕に両腕を絡めた。薄い衣服の上から触れる柔らかな身体の感触に、エドワードはぎくしゃくと強張る。先程から赤面したままだ。
「大佐はわたしで構わないかしら」
「ああ、もちろん」
 途端弾かれたようにロイを見上げさあっと顔色の引いたエドワードの頬に、一拍置いて再び朱が上った。それをぽかんと眺めた女たちにちらりと視線を馳せて、ロイはエドワードににやりと笑んで見せる。
「ま、滅多にない機会だ。楽しみたまえよ、鋼の」
「────ッせェクソ大佐!! 死ね! アホ!!」
 行くぞ、と腕に絡んだリビーを引きずるように奥へと大股で歩き出したエドワードを苦笑で見送って、ロイは髪を掻き上げる。
「………どうしたの? あの子」
「ちょっと虫の居所が悪くてね」
 腕を引きながら尋ねるイヴリンに曖昧に返し、ロイは招かれた部屋に入ると勧められるままにソファに座った。
「お茶は飲むかしら? それとも」
「今夜はお茶だけでいい」
「あら、つれないわね」
 足を組み頬杖を突いてロイは薄く笑い、月の覗く窓を見た。
「今夜の主役は彼だからね、私は付き添いさ。付き添いが楽しむわけにも行かんだろう」
「って、何もせずに帰るつもり? このイヴリンを前にして?」
「花代は持つよ、もちろん。たまにはただ話をするだけというのもいいだろう?」
 恋人のようで、と笑うロイに寄り添い、イヴリンはふと微笑んだ。
「いつだってわたしはあなたの恋人よ」
「それは光栄だ」
 薄い微笑を崩さず目を伏せ答えたロイに、イヴリンは気のないお返事、と笑う。
「今日は気が乗らないようね、大佐」
「うん?」
「花代はいらないから、少しの間このイヴリンの話し相手になって頂戴」
 紅茶を淹れながらの言葉にロイは瞬き、その白い背を見つめる。イヴリンはちらりと振り返り、猫のように瞳を細めた。
「ようやくわたしを見たわね、マスタング大佐。そんなにあの子のことが気になっていたの? 大丈夫、リビーはあれでいて頭のいい子だから、粗相はしないわ」
「………これは失礼をしてしまったな、イヴリン。悪かった」
「いいのよ、気にしないで。それより訊いてもいいかしら。あの子は何者?」
「国家錬金術師だ」
 イヴリンは瞬き、ああ、と得心したとばかりに頷いた。
「だから、『鋼の』。鋼の錬金術師ってあの子のことなのね。そういえばエルリックって名前だったかしら。弟がいるんじゃなかった? 弟はどうしたの」
「まだ子供だよ。花街などに連れて来るわけには行かないさ」
「あの子だってまだ子供に見えたけれど」
 くすくすと笑い、イヴリンは湯気の立つカップをテーブルへと置いた。
「………何を考えているの?」
 しなだれかかることなく隣に座ったイヴリンは酷く姿勢が良く、色気の過ぎる衣装にさえ目を瞑ればまるで貴婦人の振る舞いだ。ロイはどことなく困ったような笑みを唇に掃いたまま組んだ指を膝に乗せた。
「息子に恋人が出来た父親というのは、こういう気持ちなのかなと思ってね」
「あら、随分と大きな息子だわ」
 茶化すように目を丸くして、娼婦はロイの頬を指で撫でる。
「後悔するなら連れてこなければいいのに。あの年齢の子なら、無理に経験させる必要もないでしょう。もう少し待てば勝手に彼女を見つけて勝手に経験して帰ってくるわよ」
「後悔しているわけではないんだが」
「じゃあ、寂しいのね」
「いや、むしろ嬉しい…というか楽しい、ような」
「馬鹿ね、大佐」
「……………。……まあ、馬鹿なんだろうな」
 肩を竦めてふう、と嘆息したロイに笑って、イヴリンは紅茶を手に取った。
「上手くやっているかしら、リビー。あの子怒ってたみたいだけど」
「初対面の女性に八つ当たりなどするような子じゃないよ、血の気は多いがね」
「随分気に入っているのね?」
 ロイは僅かに眉を寄せて宙を見つめ、それから溜息を誤魔化すようにカップに手を伸ばした。
「まあ、それなりかな」
「それなりねえ」
「将来性はあるよ」
「将来性」
「実力もなかなかのものだ」
「ふうん」
「……………。……君にそういう風に笑われるとなんだかいたたまれないんだが」
 ふふ、と笑ってイヴリンは瞳を細めどことなくふて腐れているロイを眺めた。
「親馬鹿」
「悪かったね」
「今日は可愛いわね、大佐」
「そうかね」
「さっさとお嫁さんを貰って子供を作ったらどう?」
「君に会えなくなるのはごめんだな」
 習い性のような口説き文句に声なく笑い、イヴリンは軽く首を傾げた。
「上手くやっているといいわね、あの子」
 ロイは小さく肩を竦め、黙って紅茶を飲んだ。
 
 
 
 
 
「大人になったらまた来てね」
 首に両腕を絡ませ囁きながら頬に付けられた柔らかな唇に、エドワードはこれ以上ないほど赤面してぎくしゃくと踵を返した。
「じゃ、じゃーな、リビー」
「東部に来たら遊びに来て。あたし水曜ならおやすみだから」
「き、気が向いたらな」
 ぎこちなく、それでも早足に手を振る娼婦から離れ、目の前を俯いたまま素通りしてさっさと店外へと出て行くエドワードに苦笑してロイはイヴリンを見た。
「では、イヴリン。また今度ゆっくり」
「期待せずに待ってるわ」
 恋人のように軽く抱き合い頬を付け、ロイは手を振りコートを翻して子供を追った。
「待ちたまえ、鋼の。こら、子供が独りで歓楽街を歩くものじゃない」
「……………子供をあんな店に連れてったくせに今更何言ってんだクソ大佐」
 呻くような返答になんだまだ機嫌が悪いのか、とロイは嘆息する。
「それで、どうだった」
 わざと不躾に尋ねれば、ぎろりと金の眼で睨み上げてくる。まったく簡単だな、と考えながら、ロイは胡散臭い笑顔を崩さず金髪にぽんと手を乗せた。その手が邪険に払われる。
「ご機嫌斜めだな」
「ッたりめーだろ!!」
「つまらなかったのか?」
「じゃねーだろ何で解んねーんだよこの…ッ」
 素早く伸びて来た機械鎧の右手が襟を掴み上げ掛け、それからはっとしたように動きを止めて腕を取った。そのままぐいぐいと路地へと引き込まれ、ロイは瞬く。
「なんだ?」
 ぴたりと足を止め、エドワードは今度こそロイの襟を引き寄せて胸元に顔を寄せた。
「……………すっげー香水臭いんだけど」
「店全体がこんなだったろう。君にも染みついているぞ」
「店で匂ってたのはお香だろ。んじゃなくて!」
 エドワードはぎりぎりと歯軋みするように低く唸る。
「あの女のひとの匂いが付いてんだけど」
「君が戻るまで一緒にいたんだから当たり前だろう」
「なんで解んねーんだよ!」
「何が」
「誤魔化してんの?」
「だから、何が。それから声が大きい」
 とん、と指で唇を軽く叩かれて、エドワードはぐっと言葉に詰まる。それだけで首筋に血を昇らせた少年をロイは不思議そうに見下ろした。
「なにを赤くなっているんだ君は」
「………っせぇよ」
 ふい、と視線を逸らし、エドワードは大きく息を吸ってロイから手を離した。
「………帰ろ、大佐。帰ってアンタ抱きたい」
 
 ちょっと待て。
 
「おい……鋼の」
「なに」
「………今有り得ない台詞を聞いたように思うんだが」
「へー、そう」
「そうって君な……」
「うるせーな。リビーとはしてねーんだからいいだろ別に」
「は?」
 子供は眉間に深くしわを刻み、苦々しく三白眼でロイを見上げる。
「してねーの! なんかさあ、アンタほんっとオレの言うこと信じてないよね。オレはアンタとしかしたくな」
「声が大きい」
 がし、と口を塞がれてエドワードは不満げに唸る。
「………だからさ、賭けはまた別のにして。これは譲れない」
 ロイは眉を下げ酷く呆れた顔をした。
「……鋼の、君なあ…」
「っさいな。バカで悪かったよ。でも仕方ねーだろ、嫌なもんは嫌なんだ」
 
 気持ちがないのに身体を繋げる事なんて。
 
 ロイは頭痛を堪えるように額を抱える。
「………では何故彼女を指名したんだ。かなり迷いなくという様子に見えたがね」
「ああ、一番話しやすそうだったから。でもリビーってもう21なのな。オレ同じくらいかと思った」
「未成年に出来る仕事ではないよ」
「あれ、そうなの」
「当たり前だ」
 ふーん、と頷き、エドワードはロイの腕を取った。
「だからさ、帰ろ。抱き締めさせて」
 心底嫌そうな顔をしたロイに、エドワードは直し掛けていた機嫌を再び損ねて半眼になった。
「あ、そっか。女とした後にオレとすんのは嫌か。ふーんそうだよなーそりゃそーだ」
「君こそ私の言ったことを何一つ信用していないよな」
 拗ねた目のままわざとらしい笑みを浮かべて明後日の方向を向いていた子供に溜息混じりにそう言うと、ぴたりと口を閉じたエドワードがそろり、とロイを窺った。ロイはもう一度溜息を吐く。
「わざとか?」
「え?」
「わざと拗ねて見せているのか? それとも本当に信用されていないのか」
「わざとって、」
「君が来ているときにわざわざ他の彼女と会ったりはしないと、以前言わなかったか」
「…………だって、さっき」
「あのなあ、彼女たちは商売をしているんだぞ。付き添いだからただ待ってますというわけにはいかんだろう。これでも私は佐官なんだ、向こうだってそう言われてはいそうですかと放っておくわけにはいかないし、だったらひとり買い上げてしまったほうが迷惑にならんだろう。………イヴリンはな、あの店で一番高いんだ」
 ただ話をしてお茶を飲んだだけだ、と続けると、子供はぽかんと口を開けてロイを見上げた。ロイは渋面になる。
「………なんだ、その顔は」
「え、………や、別に」
 ぱく、と閉じた口を鋼の手で覆い、エドワードはふと視線を逸らした。その耳がみるみる間に赤く染まって行くのをロイは瞬きながら見下ろす。
「何を赤くなっているんだ………」
「いや、ちょっ……」
 言い掛けた言葉を収め、エドワードはぶんぶんとかぶりを振るとぐいとロイの腕を引いた。
「帰ろーぜ」
「いや君もう宿に帰れ」
「ヤだ」
「私は明日仕事なんだ」
「午後からじゃん」
「仕事には違いなかろうに」
 くる、と振り向いた子供はすっかり機嫌を直した顔でにっと笑った。
「大佐」
「………なんだ」
「オレアンタのことすげー好き」
 ロイは笑いたいような怒りたいような酷く奇妙な顔をした。
「なに変な顔してんの」
「……………。……いや」
 かぶりを振り、溜息を吐いた大人は捕らえられていた腕を抜き子供の手を握る。子供はぱちぱちと瞬いて、それから満面で笑った。
「アンタんちに帰っていいだろ?」
「嫌だと言ってもそうするつもりなんだろう」
「素直じゃねーなあ」
 まあいいけど、と笑って、機嫌良く手を引き足早に歩く子供に、大人は早い雲に見え隠れする月を見上げてあーあ、とひとつ溜息を吐いた。

 
 
 
 
>>Ever

 
 
 
 
『独占欲と占有率の関係と可能性について』はリクエストをくださった千剣さまのみお持ち帰り・転載可です。
他の方のお持ち帰り・転載などはご遠慮ください。
転載について


リクエスト内容
「女性を覚えさせようとして、大佐がエドを娼館に連れて行く話」

依頼者様
千剣さま

■2004/12/3
なんだか妙にいちゃいちゃになっちゃった気がするのは気のせいでしょうか。外で痴話喧嘩するのは世間体的に危険だと思います大佐。
そして書く書く言ってて大変お待たせしてしまいました……す、すみません…っ! こんなのでよろしければどうぞお納めくだされ。

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