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 ほとほとと、襖を叩く音がした。暗闇の中ぱっちりと目を開けていた弁丸は顎まですっぽりと布団を掛けた儘じっと身動きせずに居た。
 そっと襖が細く開いたようだった。弁丸は知っている。この隙間からでも、猫の子のように佐助は滑り込んで来れるのだ。細い塀の隙間に転がり込んだ鞠も、佐助ならばするすると滑り込んで取って来れるのだ。
 けれど佐助は入っては来なかった。
「弁丸様」
 ひそりと声が掛けられる。弁丸はもぞ、と首を巡らせて襖の方を向いた。何も見えないが、佐助にはきっと、弁丸がぱっちりと目を開いている様まで見えて居る。
 案の定、何だ未だ寝てないんだな、朝寝坊なんかしたらお側付きの皆様に叱られてしまうよ、と柔らかく笑みを含んだ声が言って、すと襖が閉められた。足音も気配も無かったのに、とす、と枕元に座った音だけがする。きっとわざと音を立てたのだ。そうでなくては弁丸には佐助がこの部屋に居るのかどうかも判らない。
「お呼びなら、明日の朝でも構わなかったでしょうに。そんなにお急ぎでしたか?」
「……佐助。灯りを付けてくれ」
「はいはい、ちょっとの間だけな」
 ばれたら俺まで叱られちゃうよと軽い口調で言って、程なくぽっと灯台に火が灯り、橙の髪が浮かび上がった。量の多い跳ねたそれを今夜は結わえる事もせずにいるようで、目元にわさりと掛かった髪が顔を半分隠している。
「弁丸様」
 弁丸の方を向いているときには何時でも笑みを含んで歪んでいる口元が、今は惚けたように薄く開いて居る。其の横顔を眺めて居ると、名を呼び佐助は首を巡らせた。もう其の唇は笑みを含んで居た。
「昼間、ごめんな。吃驚させたろ」
 弁丸はゆっくりと瞬いた。それからむくりと起き上がり、端座したまま此方を見ている佐助に躯ごと向く。
「ちちうえの命か?」
「え?」
「仕事であったのだろう? それがしがさすけと呼びそうになったから、慌てたのだろう。忍びは正体を明かしてはならぬのだろう」
「……修行不足ですね、申し訳ありません。弁丸様を怖がらせるなんて、あってはならない、」
「それがしは佐助が忍びであることを知っているのだ! だからそんなことはいいのだ。それは、……少し、びっくりはしたが、でも、佐助が怖くないなんてことは、それがしは判っているから、平気だ」
 泣きべそを掻いたことを思い出して赤面しながら辿々しく告げると、佐助は変な味の飴でも舐めたように唇を曲げ、それからぺこりと頭を下げた。
「けれど、それでもあってはならないことです。申し訳ありませんでした。精進致します」
「いい」
「お赦しいただけるので?」
「そうではない。精進などしなくていい」
 つと、唇から笑みが抜けた。同時にすぽりと表情ごと無くなって、弁丸は此れが口元だけで笑んでいたことを知った。
 笑ってなどいなかった。何も思ってなどいなかった。それを、ただ唇に薄らと笑みを含ませたふりをして、誤魔化していただけだった。
「もう、ご用はないと?」
「ちちうえの仕事なんか、もうしなくていい!」
 声を張り、むうとむくれて弁丸は忍びを睨む様に見詰めた。なんだか判らない興奮に、みるみる顔が躯が熱くなって行くのが判る。何故か腹が立っていた。
 
 ───此れは己の忍びなのに!
 
「ちちうえにはそれがしが言っておく! もう佐助に仕事をさせるなと言っておく!」
「え、ちょっと待ってよ、それじゃ俺、何して暮らせば」
「だって佐助はそれがしの忍びなのだ! ちちうえはそう言ってお前を弁丸にくれたのに!」
 ちちうえが盗ってしまうのはずるい、と喚けば目の前の忍びはぽかんと口を開けた。呆気に取られたその表情は、時々弁丸の悪戯に引っ掛かったときに浮かべるものだった。
「………何か言え」
 時が止まったかの様に身動ぎもせずにいる佐助に、弁丸はむくれ顔のまま八つ当たりの様に呟いた。否、正しく八つ当たりだ。判っては居る。何一つ、佐助の所為では無い。
「ええと」
 躯を傾ぐ様にして首を傾げ、其れから佐助は眉尻を下げて、心底困った様な、けれど何処かあどけない顔をした。年は幾つも上なのに、佐助は未だ未だ子供の顔をする。
 兄ですらもう元服を済ませすっかり大人の顔をして居て、周囲に他に年の近い者の無い弁丸には、自分と同じ側の人間は佐助だけだ。大人と己との間にはくっきりと、何か見えぬ線が引かれて居ると弁丸は思う。その境界に佐助は居て、大人とも対等に口を利くのに、弁丸と居れば時折子供の顔を覗かせる。
 佐助が側に居る様になって、弁丸は、同じ年の頃の者との遊びの楽しさを知った。あやしてもらうのでも叱られるのでも無く、本気の喧嘩も、理不尽な仲違いも、その後の仲直りだって、今まで知らずに居たものだった。
 なのに結局、佐助は大人の側の人間なのかと、弁丸の側に居ることも仕事だからなのかと、そう思ったら、何故かとても悲しくなったのだ。佐助が、弁丸の知らない顔をして居たことが、何だかとても厭だった。
 そんな弁丸の胸を裡を察したのか、佐助は背を丸めて顔を覗き込んで来た。城に居る時にはしゃんと背筋を正して居るが、気を抜いて居る時の佐助は割に猫背だ。薄い躯をぐにゃんと曲げて頬杖を突いて居ると、其の背の高さからは思いがけない程に小さく纏まってしまう。弁丸ですら入れない小さな小さな穴にも佐助はすっぽりと入ってしまえて、だから、この間二人で見つけた綺羅綺羅光る綺麗な小石は、佐助が裏の山の古木の虚に隠してくれた。
「ねえ、弁丸様」
「………何だ」
「俺はね、未だ未だ半人前なんだよ」
 弁丸は唇を曲げて、真っ直ぐに佐助のその明るい色の目を見た。瞼の影が強く落ち、半分が濃い茶になって居る瞳の中で、炎の揺らめきが踊る。
「弁丸様が元服して、戦に行く様になった時に、俺様が全然付いていけないんじゃ、意味が無いじゃないの」
「佐助は凄く強いだろう」
「忍びは強いだけじゃあ駄目なんだよ。俺に今必要なのは、経験なんだって。だから、いつかあんたのお役に立つのに、殿が色んな仕事を回してくれるのは、凄く有難い事だと思ってるんだけど」
 弁丸の為に、と佐助は言う。けれどその言葉の中には何処か宥める響きが有る。
「佐助」
 じっと見詰めても、佐助は怯まない。はい何でしょう、と首を傾げる。其処に一見、欺瞞は無い様に思う。思うが、一瞬偽りの笑みを剥がれた先程の顔が、弁丸の胸に深く棲み着いて居た。
「本当に弁丸の為なのか」
「そうですよ」
 じいと穴が空く程見詰めても、佐助の目は色の付いた蓋をした様に、その裡に在るものを窺わせる事をしない。
 弁丸は眉を寄せ俯いて、判った、もういい、と息を吐いた。
「すまなかった。我が儘を言って、困らせた」
「別に謝る事じゃないですけど。焼き餅妬いてもらえるなんて、ちょっと嬉しかったしね」
 へへ、と笑って撫でた手にぐらぐらと頭を揺らされて、弁丸は俯いたまま、うむ、と気のない相槌を打った。

 
 
 
 
 
 
 
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20070107