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「弁丸さま? いかがなされました?」
 みち、彼れはなんだ、みち、此れを買うてくれ、と腕を引いては店先にぐいぐいと乳母の手を引き、目を輝かせてひっきりなしに喋っていた幼子がぴたりと黙り込んだことに気付いたのだろう、下女はそっとその茶の目を覗いた。弁丸は大きく目を瞠ったまま、じっと道の先、此方へと擦れ違おうと歩んでくる男を見詰める。
 
 昨年父から此れはお前だけの忍びだ、お前だけの味方だ、生涯お前に仕えるものだ、お前の影だと思いどんなことでも打ち明け相談し助言を得て仲良うやれと頂戴した忍びは、弁丸の前で一度も忍び装束を召したことはなかった。いつも浅い緑の簡素な着物に袴を付けて癖の強い赤い逢髪を高く結い、時折その腰に太刀を佩くことさえして見せて居たから、城内には彼れが忍びだとは知らぬ者も多い。何処ぞの武家の子が、世話役として側に居るのだと、そう思っている者の方が多い筈だ。
 忍びは正体が知れてはならない、俺は弁丸様の忍びなんだから、弁丸様さえ知っていればいいんだよと笑うので、そんなものなのかとは思ってはいたがしかしその為に、弁丸は其れが忍びであることを度々失念していた。ただ年が上の友達の様な、そんな気がしていたのだ。
 けれど、と弁丸は漸くひとつ瞬きをする。けれど、彼れは忍びだったのだ。弁丸の前に居る姿でさえ偽りの、本当の姿などない、影の如き者なのだ。
 
 歩んで来る、頭に笠を乗せて軽く俯いた、その顔は隠れてしっかりとは見えない。ちらちらと覗く髪も染めているのか黒と灰が疎らで見窄らしくて、夕陽の様なあの鮮やかな橙ではない。躯にしても袖も裾も端折った町人の着物から覗く手足は吃驚するほど細くて、簡素ながらも清潔な着物をふんわりと羽織った姿からは考えれば違和感だ。
 だが、弁丸は彼れの肩が背がどれだけ薄いかを知っていた。軽々と負んぶをしてくれる、それが不思議なほどに、彼れは軽くて骨ばかりの躯をしている。
 繋いだ手は乳母や下女のふっくらとした温かなものとは違って平べったくて、骨筋ばっていて、温かくも冷たくもなくて、乾いて、まるで枯れ木のような。
 嗚呼だから、今背負った荷を支える風呂敷の結び目をしっかりと握った手は、きっと木のようなかさかさとした手触りなのだと弁丸は思う。勝手に、口が開き掛けた。
 さ、と、開いた口が音を出す前に、ちらりと僅かに笠の影から赤い光が覗く。目だ。茶色の目は弁丸のものと違って少し赤いのだ。嗚呼やはり此れは己の忍びだ。
 そう、ほっと頬を弛め掛けた途端、酷く冷ややかな目で一瞬射抜かれて、舌が竦んだ。
「弁丸さま?」
 武家の子とそのお付きの女と護衛の武士二人の集団に、軽く頭を下げ低頭したままさっさと脇を通り過ぎて行った其れは、物も言わずに遠離っていく。わざとらしさの欠片もない足音が、けれど二人で居るときにはほとんど立てないことから思えば却って不自然に、ざくざくと耳に響いた。
「いかがなされました? おなかでも……」
「何でもない」
「なんでもなくって泣きべそはおかきにならぬものですよ」
「もう帰る……」
 ずる、と鼻を啜り、それでもなけなしの矜持で市中でわんわんと泣くことだけはぐっと堪え、弁丸は戸惑う乳母と父の家臣達に宥められながら城へと足を向けた。
 結局、冷たい赤い目を繰り返し思い途中で涙が止まらなくなって、護衛に抱き上げられ鼻を鳴らしながら戻ったものだからちょっとした騒ぎになってしまったのだが、弁丸の佐助は駆け付けてはくれなかった。

 
 
 
 
 
 
 
>>2

20070107

掴んで梳きたい