ぱたぱた、と垂れた滴が板間を打った。濡れて凍える手でのろのろと装束を外した忍びが、ふう、と小さく息を吐いて用意されていた底の浅い角箱へとどしゃり、と帷子を放る。まだ夕刻ではあるが雨の室内は暗く、早々と灯した明かりに白い背に灰色の影が蠢いた。
滑らかで、傷のない背だ。
ただその脇腹から、太く三本の筋が覗く。右の肩から胸を抉り腹を割いて左脇腹へ抜けた三爪と、それと交差してもっと浅く、鳩尾を抉ったもう三爪の跡だ。躯を拭う腕に残る二本の傷も、ちらちらと目に止まる。
ただ、他には肉が盛り上がり傷を塞ぐ程の傷はない。無論細かな傷跡は多数あるのだろうが、こうして眺めて目に止まる様なものは無い。ほとんどが消えたか、消え掛けた薄い傷跡なのだろう。
「………ちょっと」
戦忍の割に、と頬杖を突いていれば、嫌そうな声を出した佐助が此方を見た。半眼が気味悪げに細められている。
「じろじろ見ないでよね。男の着替えなんか見てて、楽しい?」
それともそういうご趣味、と笑みを込めて続けられた声に、政宗は肩を竦めた。
「傷のない躯だ、と、思ってただけだ」
「はは、俺様ってば優秀ですから。そんなでっかい傷なんか、負った事はねえのよ」
「俺の爪跡は、消えなかったみてえだが」
「ったりめえだろ。殺す気だった癖に、何を」
「Ha! 手前で飛び込んでおいて、言い掛かりは止して欲しいね」
「つうか、彼の女の次は俺様だったんでしょうが」
どの道殺す気だった癖に、と唇を曲げる佐助に、政宗は軽く鼻を鳴らしてぱらりと膝に広げた書簡を捲った。
「あんたを殺す気はねえぜ」
「そりゃ、寛容なこって」
「あんたが生きてりゃ、真田と一騎打ちもしやすい」
「はあ? 何其れ」
「伝えろと言えば、あんたは結局伝えるしかねえだろう。まあ、あんたじゃなくても良いんだが」
他の奴よりゃ確実に真田と口を利くだろう、とちらと視線を向ければ、佐助は一瞬苦虫を噛み潰した様な顔をして、それからへらりと笑った。ただ目ばかりが笑っていない。真顔でも目さえ笑っておけば真意を呑まれる事などないというのに、此の忍びは稀に、下手を打つ。
「ま、そうねえ。俺様ってば真田の旦那にとおっても信頼されてますから」
「そうか」
平坦に同意してやれば、思う通りの反応ではなかったのか佐助は僅かに口を噤んで、再び背を向け躯を拭き始めた。
「それにしても、竜の旦那はなんで此処にいんの。見張りでも置きたいなら、そんなの部下にやらせろっての」
「Ah、筆頭自らのもてなしがお客人の気に障ったってなら、悪かった。うちの連中は今、皆出払っててな」
「なんで」
「真田のぶっ壊した土手の補修と、領内の見回りだな。小十郎は指揮を執りに出ているが、俺が出て行く程の事じゃねえと留守を任された。だが、俺の右目が指揮を執ると言うことは、伊達のNo2自ら腰を上げたということだ。結果、俺だけが暇を持て余してるってこったな」
下働きの者や城の警護の為の兵士や忍びは無論残ってはいたが、幾ら客とは言え、実直を絵に描いた様な幸村は兎も角、此の忍びの見張りは此れを組み伏せられるだけの力のある者でなくては無理だ。ならば自らが相手をしてやるのが一番楽で確実な方法だろうと、政宗は思う。
「まあ、あんたの相手ばかりをしてる訳でもねえ。ちょいと読まなきゃならねえ書簡を溜めててな。良いから気にせず、着替えを続けな」
「落ち着かないっての」
そりゃ悪かった、と口先ばかりで謝罪して文字を追う目も上げずにいれば、小さく諦めの溜息が聞こえた。ぱさ、と手拭いを放った音に続いて、衣擦れがする。
「真田が出たら、あんたも風呂を使いな」
「はあ?」
頓狂な声を上げた佐助を見れば、ぽかんと口を開けた間抜け面が此方を見ている。単は早々に帯が締められていたが、羽織った長衣がずる、と厚みのない肩を滑り落ちた。
「何言ってんの?」
「汗臭くて泥臭い奴を、此の城に野放しにしたかねえんだよ。うちの客ならそれらしくしやがれ」
「悪童集団の筆頭が巫山戯てんじゃねえよ! あんたんとこの連中に言えよ、それ!」
「Huhn? うちの連中が臭えとでも言いてえのか」
「じゃなくって、男臭いっつってんの! 綺麗好きには見えねえよ!」
「うちは最低二日に一度の行水を怠れば、規律違反で小十郎の説教だ」
うわお、と呟いた佐助のもう片側の肩からも、長衣がずるとずり落ちた。
「ありゃあ神職の出なんでな……毎日の禊ぎはかかさねえ」
「……ああ、禊ぎね。なんかそう言われると納得……て言うか、凄く余計な情報仕入れた気分なんですけど」
はああ、と溜息を吐いて、佐助は長衣を着付け直した。
「けど、草如きを湯殿に入れようなんて、それこそ穢れじゃないの? 裏で水浴びて来いってんなら、判るけど」
「其れこそ愚問だな。手前を井戸になんざ近付けられねえよ」
「毒なんか仕込まないって」
「まあな、真田の立場も武田の立場もある。だが、其れと此れとは話が別だ。それにあんた、未だ雨も止まねえ此の冷える日に、わざわざ水が浴びてえとは物好きだな。masochistか?」
「………今物凄い侮辱を受けた気がする」
ぼやき、着替えを終えた佐助は濡れた床を拭って汚れ物一式を納めた角箱を廊下に出し、板戸を立てた。音を立てない裸足の足が、親指の辺りだけで床を踏み戻り、上座より少し離れた場所へと胡座を掻く。
「………そういや」
黙っていられない質なのか、数拍の沈黙を置いただけで佐助は口火を切った。ちらと目を上げればそれを待っていた様に、人差し指がつうと己の色の薄い瞳をなぞる様に示す。右目だ。
「あんたのこっち、初めて見たな。眼帯付けてなくっていいの」
「Huhn? 此処は俺の城だぜ。何で自分の城で、そんなもん付けてなきゃあねえんだよ」
ぱちぱちと意外と睫の多い目が瞬いて、佐助は意外そうに首を傾げた。
「隠してんじゃ、ねえんだ? んじゃなんで、外出る時は付けてんのよ。夏場とか蒸れて大変だろうなーとか思ってたんですけど」
「あんたんとこの大将の兜程じゃあねえだろうが。ま、一種のCombat uniformってとこだ」
「え、何?」
「具足みてえなもんだ」
「……外の光が眩しいとか?」
「Han、そもそも光を感じる目玉がねえよ。実用性しか考えられねえのも忍びらしいが、つまらねえご意見だ。戦ってのは、派手じゃねえとな。俺の此れは」
先程の佐助を真似する様に人差し指を閉じた右目の上へつと立て、政宗はにや、と唇を吊り上げて嗤う。
「最高にCoolだろ?」
「格好良いだろって言いたいの」
「独眼竜の名を知らしめるに、単純ながら効果的なItemだ」
ふうん、と鼻を鳴らし胡座を揺らして、佐助は薄く笑って肩を竦めた。
「やっぱり実用性重視じゃ、ねえの」
「あんたに判り易くしてやったんだ」
「そりゃ、お優しいこって」
け、と歯を剥いた忍びにくつくつと喉を鳴らし、政宗は読み終えた書簡を畳んだ。
「お仕事終わりましたか、独眼竜の旦那」
「まあ、一段落ってとこだ」
「んじゃ、もうほっといてくれて構わねえよ。飯でも食ってくれば? 真田の旦那も風呂終わった頃だろうし……」
「その時には誰か報せに来る」
「いや、だから、俺様の方があんたと二人っきりなんて間が持たねえって言ってんの」
とん、と畳んだ書簡をまとめて床に突き態と音を立てると、忍びはぴたりと口を噤んだ。瞬間的に僅かに険を孕んだ空気に気付いたのだとすれば、流石に聡い。
「二度、言わせるのか」
「……何が?」
「此の奥州の地で、あんたを野放しには出来ねえと、言っている」
脇息へ肘を突き、薄く隻眼を眇めれば白々しい笑みが返された。
「同盟国相手に、何もする訳ないでしょうが。俺様が下手打った所為で同盟破棄なんて、堪ったもんじゃない。うちのお二方にぶん殴られるよ」
「そうだな。真田も居るんだ、いくら食えねえとは言え虎のおっさんも、今表立って策略を巡らす事はねえだろうよ」
「……判ってんじゃないの」
「だが、あんたの事だ。折角奥州まで来たからには、手土産代わりに軽く情報でもと、その程度の事は考える」
「別に出歩いたりしませんて」
「出歩かずとも、忍びの事だ。何処からどんな情報を得るかなんてなあ、判りゃしねえよ」
「信用無いねえ」
悲しいねえ、と肩を竦めて態とらしく溜息を吐いた佐助に、何を言うんだ、と政宗は戯けた振りで目を丸くして見せた。
「あんたが芯から忍びだと、そう思うからこその警戒だ。寧ろ、礼を尽くされたと感謝でもしたらどうだ?」
「何それ。俺様今日は店仕舞いですよ。馬鹿の喧嘩に付き合って泥だらけのびしょ濡れで、くたくたなんだからさ」
Ha、と高く嘲笑の声を上げれば、佐助は軽く眉を上げた。
「言ってろ、Workaholicが」
「また意味判んねえし」
はあ、と溜息を吐いて、だらしなく背を丸めて視線を床に投げ、佐助は襟足に滴を落とす濡れ髪を鬱陶しげに掻き上げた。暖を取れる火は用意されていない。未だ体温が戻らないのか、覗いた項の唯でさえ白い膚が、血の気を失って蝋の様だ。
唇を軽く親指で撫でながら暫し其れを眺め、政宗はふいに立ち上がった。
>>2
20071107
文
虫
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