26 柄を握り締め

※16/死際に見た の続き

 
 
 
 
 
 
 
 

 吐く、と言うより満ちた水が溢れ落ちるように唇から洩れた血が、ごぷりと音を立てて止まった。ゆっくりと顔を離す。血に濡れた己の唇を舐める。苦い。
(───毒か)
 忍びの血は毒なのだと、小さな切り傷を舐めてやろうとして酷く叱られたのはまだ幼い頃だった。
(血の毒など何れ程のものよ)
 これは確かに今の今まで、己が忍びの躯に流れ命を回していたものだ。
 ぞくぞくと胃の腑が熱く滾る。幸村は空に向けられた光の無い目を見詰めて、その瞼に掌を当てた。いつもさほど顔色のいい男ではなかったから、青醒めた顔も今はまだ、眠っているかのようにも思えた。
 此れの寝顔など、そうそう見たことはなかったが。
 瞼に乗せた手の甲に額を押し付け、鼻を擦り寄せる。死んだ血が頬に、胸に付くのも構わずに頭を抱けば、びちゃりと音がして血溜まりが跳ねた。
 此れを連れて帰るのは難しい。抱き上げ担げば腹の傷から腑が零れるだろう。腹の中身が無くなればもともと軽い男ではあるし担いだままでも駆けていけるのだろうが、いずれ腐るにしろ出来ることなら血の一滴までも総て、連れて帰りたかった。
 幸村は擦り付けていた顔を離し、両の掌で忍びの頬を包んだ。痛いと文句を言う口は薄く開いたまま、良く動く舌は最早物も言わぬ。
 獣のように舌を出し、文様の描き込まれた頬をぞろりと舐める。苦い血と泥の味がする。鼻に噛み付き甘噛みをしても、苦言を洩らすこともない。
 薄く開いた口に、食い付くように口付けて唇を噛む。血を舐める。喉を鳴らして飲み込めば血の通った跡が胃の奥まで灼けるようだ。首筋の毛が逆立つような錯覚を覚える。
 幸村は目を瞠り、ゆっくりと顔を上げた。
「───烏」
 幸村はつんと野草のようなにおいのする血を纏わせたまま、傍らから離れず小首を傾げてじっと見ている円らな黒い瞳を見遣った。大烏はじっと幸村を見詰めている。己の言葉が通じるのかは判らなかったが、けれど通じていなくとも、烏の望みと己の頼みは同じだろうと静かに確信をした。
「某は戻らねばならぬ。未だ戦は終わっておらぬ」
 大烏は動かず、ただ幸村を見詰めている。幸村はそっと骸を見下ろして、その頬にゆるゆると指を這わせた。
「敵が陣営に戻り陽が落ちたら、迎えに来る。───それまで、此れを頼む」
 
 何にも奪わせるな。
 何にも食わせるな。
 
 ひとつも損なうことなく守り通せ。
 
 カア、と大烏は一声高々と啼き、ばさと羽を広げて二、三歩近寄ると威嚇するように羽毛を逆立てた。
 幸村は頷き、傍らの二槍を掴み立ち上がった。
「必ず戻ろうぞ、佐助」
 
 暫しの別れだ。
 
 踵を返し、幸村は後は顧みる事なく駆け出した。両の槍にぐんと力が漲る。戦は終わりに近付いている。今日もまた決着は付かない。
 ───だが、己は今、敵陣営の真裏に居るのだ。
 ここを守る筈の敵の忍びは己が忍びが平らげた。本当なら暗殺まで独りで片付けてしまおうと、きっとそう考えていたのだろう。武田の兵の疲弊が激しい。明日、持ち堪えられるかは怪しかった。
 馬鹿者めが、と幸村は唇の端を歪めた。ぎり、と柄を握り締めた手が鳴る。血に灼けた胃の腑が酷く熱い。目の前が赤く燃え立つ。髪の先まで逆巻くような、熱気。
「お前の拓いた道、無駄にはせぬ!!」
 応、と一声吼えて、幸村は単独敵大将の陣幕へ向かい、飛び込んだ。
 
 
 
 夕暮れは深く、周囲は青紫に染まるというのに眼下の戦場は赤々と燃えている。
 その炎をちらちらと黒い目に映しながら、烏はじっと主の骸の傍らにいた。
 おお、おお、おお、と、勝利の声が響く。烏に骸を頼むと言い置いて駆けて行った炎の気の強い男は敵将を討ち取った勇者として凱旋するだろう。赤備えの武田の兵が嬉々として、しんしんと夜に侵蝕されて行くばかりの戦場をあちらこちらと駆け回り、敗残兵を追っている。逃げていた獣たちも、戦の終わりを感じたか徐々に戻り始めた。
 烏は一声低く啼いた。群がろうとする野生の烏たちが竦み、遠巻きに様子を窺っている。
 もう一度、啼く。ぐるりと周囲を見回し、群れの頭を捜す。それを倒せば群れの指揮はこちらのものだ。
 きらりと、黒々とした影の中、目が光る。忍び寄る闇の中では己が有利だ。
 烏はばさ、と羽を大きく広げ、威嚇した。群れは去る様子を見せない。
 
 
 骸を託した男は、未だ戻る気配はない。

 
 
 
 
 
 
 
20061209