まだ合戦は続いている。
今日はもう決着は付かないかな、そろそろ両方共に引くだろう、明日は明日で早くからまた合戦か三日越しだ旦那は起きれるかな大丈夫かあの人は寝覚めがいいし、とつらつらと考えながら、佐助は横たわったまま木々の合間から覗く夕焼け空を眺めていた。合戦の騒音と火薬の臭いと火気に臆したか、動物はいない。
「………死に、たく、ない、……かも」
呟いた声は弱々しかったが、思ったよりもきちんと言葉になっていた。眼を細める。
「痛え………」
溜息のように呟く。激痛には激痛だが、これだけの痛みならもっと麻痺してもいんじゃないかと思うほど、辛うじて認識できる痛みを感じる。手や足と言った末端ではない。どこがどう、と細かには言えないが、取り敢えず胴の辺りが痛んで躯中に力が無い。胸から下が全部濡れた感触がして居心地が悪い。多分、腹に穴が空いている。呼吸ごとに溢れる血が乾く間もなく地面を濡らして指先にぴちゃぴちゃと触れる。すっかり血溜まりだ。鼻など疾うに利かない。
「死にたくねえ」
がさ、と地を踏む音が聞こえた気がした。佐助は構わず喉を震わす。ほんの微かな声は呻きにでも聞こえたろうか。慈悲のある敵なら止めを刺すだろうし、慈悲のある味方ならやはり止めを刺すだろう。止めを刺されずともまあ、直に死ぬ。
「死にたくねえ」
嗚呼これで終わりなのだなと考えながら、意味の無い言葉のように佐助は繰り返した。他に言うべきことも思い付かなかった。存外くっきりとした視界には、暮れゆく空が映る。高いところが薄く紫に変わり始めている。
空の高い高い所は藍色なのだと佐助は知っていた。太陽に照らされて白く青く赤く色を変える空は、本当は静謐とした闇に薄く広がる濃藍だ。
高い、高いところから眺める地上は緩く弧を描いていて、可愛らしくて、微笑まし過ぎて涙が出そうだ。
凧に乗っているときには考えたことはなかったのにそんなことを思い、嗚呼けれどそう言えば自分は、よく笑いながら空を往ったものだと思い返す。上で会う者など敵の忍びか鳥でしかなくて、けれど不思議と寂しくはなかった。人がそう長く飛べるものではないと判っていたせいだろうか。
ばさり、と羽音が聞こえた。同時にざくざくと地を踏み締める音が強くなる。ざらりとした嘴の感触が頬を撫ぜた。羽毛が触れて、佐助はちらりと視線を流し小さく苦笑をする。
「烏」
呟くと、大烏はかあと一声高々と啼いた。それに駆け出したように足音が被り、がさがさと、藪を掻き分ける忙しない気配がした。
「佐助!!」
厭になるほど聞き覚えのある声が、瀕死の身には辛いほどの大声で名を呼んだ。佐助は一瞬息を詰めて、それからゆるゆると吐き出す。
なんで、ここで、この人だ。
判っている。烏が呼んだのだ。放してやった烏は幸村の所へ行ったのだろう。佐助の大烏が主を連れずに戦場を飛び回っていたら、幸村は疑問に思うだろう。そこで捨て置けないのが幸村だ。まんまと烏の案内に、付いて来てしまったのだ。
別に誰かを呼びに行けと言ったわけじゃないんだけどなと考えながら、佐助は傍らに膝を突いた主の顔の横から空を眺めた。ぽつん、と白く、小さな星が姿を現していた。
「………死にたくねえ」
「佐助……!」
抱き起こそうとして幸村がはっと手を止め、強張った顔で惨状を見詰めてそれから佐助の顔の両脇に腕を突き、肘を折って首筋に顔を埋めるように蹲った。賢明だ。抱き起こせば多分、腹の中身が零れる。それだけの大穴が空いている。
躯に負担は掛からないが他人の熱が冷えた首筋に触れて逃げ出したいような気になって、佐助は呻く代わりに繰り返して呟いた。
「死にたくねえ」
「佐助」
「死にたくねえ」
「………うむ」
「死にたくねえ」
「…………」
死なせはせぬなどと嘘を吐けない主に僅かに口元に笑みを掃く。腕は持ち上がるだろうかと思ったが、指先がぴくりとすることもなくて諦めた。
へへ、と笑うと腹に溜まっていた血が喉奥にまで迫り上げて、ごぼ、と水の音がする。
「嘘」
「……佐助?」
「嘘ですよ、……死にたかないけど、怖くねえよ」
あんたが来てくれたし、と囁けば、主はぎゅうと頭を抱いた。肩越しによく空が見える。
嗚呼顔を上げてくれないかなあと佐助は思う。視界が段々と狭まってきた。昼と夜とを同時に映す綺麗な空を最期に見上げて死ぬのも乙だが、折角来てくれたのだから、顔を見たい。
心残りが無いのが不思議だ、と考えて、それも道理だな、とも思う。
結局自分には先は見えていなくて、ただ主の元で主の役に立っていたかっただけなのだ。そういう生き方だったのだ。たまに他人を言い訳にして手を汚すことに罪悪感を感じたような気になって、でも結局、そう言う方法でしかこの人の役に立てなくて、だから止める気は更々無かった。
他の者が主だったなら、疾うに行方を眩ませていた気がする。だが決して主に恵まれていたわけではない。ただ佐助が、この、血の臭いを纏わせたまま馴染みの忍びの為に戦場を捨てて烏を追い掛ける程馬鹿な主に、心を寄せただけだった。
それが忠義であったのかは、もうよく判らない。恋慕のようでもあったし、庇護者のつもりであったのかも知れない。戦場に出るようになって間もなくには、もうこちらが後を追うばかりの、助けられるばかりの関係になってはいたのだけれど。
「旦那」
「……なんだ」
「顔見せてよ」
囁いた声は半分以上がごぼごぼと溢れる血に溺れて不明瞭だったが、幸村は顔を上げた。強く眉根を寄せて、けれど泣いてはいなかった。
「俺様、寒いの好きじゃないんだ」
「………うん?」
「身包み剥がれるのなんか御免だからさ、川、渡らずに、待ってるから」
何十年でも待ってるから、俺の分の渡し賃も持って来てよ言うと語尾が笑みに震えた。未だ笑えるものなのかと佐助は不思議に思う。血が引いて色が変わり始めたのか痺れて上手く回らない舌と血に溺れた喉ではほとんどまともな言葉にはならなかっただろうに、幸村はしっかりと頷いた。
「某はお館様の手足故、長く待たせるぞ」
「はいはい、承知」
また笑う。幸村は糞真面目な顔を僅かに弛めて、ふと瞼を伏せた。おやと思う間もなくこめかみに、頬に、目に、額に、がさがさと荒れた唇と湿った呼気が触れた。
目、が。
もう見えないなと考えながら、ごぼりと血を吐く唇に触れたそれに、嗚呼忍びの血なんか毒なのに、舐めちゃ駄目だよ、と、佐助は長く長く溜息を吐いた。
最期の息だった。
20061204
闇
文
虫
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