本文サンプル>>> 雨とあなたとボクのお話 sideA
 
 ざあざあと降る雨脚は弱まりそうにもなく、濃い灰色の雲は薄くなる気配もない。ただ時折ごろごろと鳴っていた雷は遠のいて、一時は高層ビルの避雷針目指して走る稲妻まで見えたがそれも収まった。
 だけど今夜中は降るかなあ、と考えて、アルフォンスは溜息を吐いてうんともすんとも言わない手の中の携帯を恨みがましく見た。幾度も送っているメールへの返信もなく、掛けても繋がらないとなれば、後は人事を尽くして天命を待つと言った具合で、もう出来ることはない。
 
 思いっきり遅刻中のアレの連絡を、天命と呼ぶのも業腹だが。
 
(まったく、またバッテリー切れてんじゃないの?)
 どうにも無頓着な待ち人は、携帯電話というものが充電をしなくては機能しないということを本当に解っているのかと胸倉掴んで問い詰めたいほど、恐ろしく放置する。それなりにメールも電話も使うからいくら連続待ち受け600時間だろうがバッテリーは消耗するし、バッテリーがなければ当然通話もメールも受けることすらできない。
 だからと言ってバッテリーが復帰した暁にメールチェックや留守電のチェックをするかといえばまったくそんなことはなくて、充電中の赤いランプ点滅中には充電器から外すな、という小言を繰り返しなんとか緑ランプ点灯を果たした後にポケットに突っ込むよう習慣づけられはしたが、センター止まりのメールが自主的に回収されることはなく、だからエドワードへの緊急連絡は、全てアルフォンスの元へと第一報が届く。
 幼馴染みや友人からの久し振りの電話にうきうきしながら「どうしたの?」と出た瞬間に耳に響く「エドはいる!?」に、何度うんざりしたことか。
 そもそもエドワードのクラスメイトや個人的な知人にまで、アルフォンスの携帯の番号が知られているということ自体が解せない。
 ボクは兄さんのお守りじゃないんだからね、と知らず知らずに座った目で可愛らしい鎧のマスコットをストラップにした携帯電話を見詰めて、アルフォンスは少しばかりむくれた。靴が湿って足の指が冷たい。
 
「……雨宿りかね」
 
 はあ、と吐いた何度目かの溜息に被るように掛けられた低い声に、アルフォンスは顔を上げた。意外な顔に、ぱちぱちと瞬く。
「あ、ロイさん」
 友人ではないが、知人だ。だが、ただ知人と言うのも他人行儀めいているかと躊躇わせる、まあ、つまり、兄の恋人だ。
 兄の恋人は黒い傘にスーツを着て、湿気に少し柔らかくなった印象の青いシャツにネクタイまで締めている。姿勢の良いすらりとした立ち姿に、さほど背が高いと言うわけでもないのに相変わらず女のひとにモテそうだなあとアルフォンスは思った。
「お仕事ですか?」
 ロイは軽く苦笑いを浮かべた。
「ああ。少しね……君は、買い物か?」
 ちらりと軒先を借りていた背後の雑貨屋へと視線を馳せられて、アルフォンスは首を横に振った。憮然とむくれる。
「兄さんと待ち合わせで出てきたんですけど、待ち惚けなんです。電話も全然繋がらないし。きっとまたバッテリー切れてるんですよ。昨夜もちゃんと充電したのって訊いたのに……」
「ああ」
 いかにも、と言う風に納得した様子で、けれど呆れ半分に頷いた顔に共感を見出して、アルフォンスの舌が勝手に滑った。雨の中待ち惚けを食らい、溜まりに溜まったフラストレーションがぱんぱんに膨らんでいたようで、降って湧いたはけ口に申し訳ないと思うより先に唇が尖る。
「学校に用事があるって先に出たんですけど、ウィンリィに掛けたらとっくに学校は出たっていうし……もー、ほんとになにしてるんだろう」
 頷いてくれたロイは、しかし、とアルフォンスをまじまじと見た。
「あれが君との待ち合わせに遅れることがあるんだな……」
 顎を撫でながらアルフォンスを見るロイに、アルフォンスはぱちくりと瞬く。エドワードの遅刻癖は今に始まったことではない。
「兄さん、結構抜けてるから時間間違えてたりとか、本屋さんに捕まってて時間忘れてたりとかしますけど……ロイさんのときは遅れたことないんですか?」
 首を傾げて見せると、ロイはちら、と眉根を寄せて苦々しく唇を歪めた。
「……騙された」
「え?」
 ぼそりと呟かれた言葉に、アルフォンス再び瞬く。
「騙されたってなにがですか?」
「あー………、あんまり毎回約束の時間に来ないので、一度たしなめたんだが」
 言いにくそうに僅かに視線を逸らして、苦い顔のままロイは続ける。
「『他の奴との待ち合わせには遅れない』と啖呵を切られたものだから」
 それって、とアルフォンスはうんざりと肩を落とした。
「……あのバカ兄……」
 だからアンタは特別なんだ、とでも言ったんだろうなと考えて、そんな嘘で口説くもんじゃないよ兄さん、とアルフォンスは内心で嗜めた(と言うか、罵倒した)。
 別に兄さんの恋路を邪魔するわけじゃないけど、と胸の裡で呟いて、だけど嘘はよくないよ、とアルフォンスは真摯にロイを見上げる。妙な正義感がめらめらと燃えた。ちっともやって来る気配のない兄に仕返しをしたいわけでは、多分ない。
「あんまり、あのひとを信用しないでくださいね。けっこういい加減なんだから」
「……ああ。肝に銘じよう」
 不自然に目を逸らし頷いたロイに首を傾げながら、アルフォンスはもう一度まじまじとスーツ姿を眺めた。
「あとはご帰宅ですか?」
 直ぐには答えず、ロイはす、と嫌味のない視線でアルフォンスの姿を見下ろし僅かにこちらへと傘を傾けた。
「せっかくだから、私に付き合わないかね」
「え、」
 思わず手の中の携帯電話を見、着信のない画面を解っていながら確認をして、それからアルフォンスはうんざりとした。待ち惚けを食らわされている身だというのに、反射的に兄を気にする自分が恨めしい。
「いいんですか? なにか予定とか……」
 もう兄さんなんか知らない、と自棄のように思いながら、一応伺いを立てれば目元を緩ませたロイは更に笑みを深くした。
「いや。後はもう帰るだけだし、君もここでは暇だろう?」
「ええ、まあ……」
 曖昧に口籠もり、いいのかなあ、兄さんの恋人と、と考えて、でも来ない兄さんが悪いんだよね、と一人頷き、アルフォンスはロイを見上げてえへ、と笑った。
「じゃあ、ちょっとだけ」
「では、決まりだ。来たまえ」
 爪先をくるりと道の方へと向けて、けれど傘はこちらに掛けたまま歩き出そうとしたロイを慌てて追い掛けて、アルフォンスは充分すぎるほど傾けられた傘を握る手をちょいと押し上げ、幾らかでも大人の肩が濡れないようにした。放っておけば、慣れた仕種で気遣うロイのスーツは水浸しになってしまうだろう。
 優しいひとなんだよな、と考えて、ふと思い浮かんだ言葉にアルフォンスはくす、と笑った。
「相合い傘ですね。兄さんが見たら怒るかなあ」
 くすくすと笑いながら口にすれば、相合い傘、と口の中で呟いたロイが、ちらりと空に視線を馳せる。
「私が怒られるんだろうね」
「ん……え?」
 苦笑しながらの言葉に、アルフォンスはぱちくりと瞬いて、首を傾げた。おかしなことを言われた気がする。
「それおかしいですよ、怒られるんならボクでしょう?」
 兄さんの恋人はロイさんでしょ、と続く言葉を周囲の目を慮って(一応、兄よりは常識があるつもりではいる)呑み込んで、アルフォンスは人差し指を振った。見上げた先のロイは、こちらへと再び、けれど今度は絶妙に押し遣るに遣れない程度に傘を傾けて、いいや、と笑った。
「なんなら試してみるといい」
「ええ?」
 釈然とせずに眉を顰めて、アルフォンスは唇を曲げた。
 絶対ボクが怒られると思うんだけどなあ、とぼやいた声には答えずに、ロイはどこか楽しそうに、唇に微笑を含んだままアルフォンスを見ていた。