本文サンプル>>> ルーズ・アドレナリン
 
「………アルフォンス君」
「なに」
「こんな酒臭い二日酔いの顔で行けねーしやっぱりオレ今日は出直……」
「日程詰まってるんだからダメ」
 本当ににべもない。
「アルが冷たい……」
「もー、」
 アルフォンスは盛大に溜息を模した声を立てて肩を上下させ、くり、と大きな身体でこちらへ向き直った。
「いい加減腹括りなよ兄さん。取って食われるわけでもあるまいし」
「こんなことで腹括りたくない」
「最悪でもふられるだけじゃない」
「最悪の事態をさらっと口にするな!」
「捕まるわけでもないんだしさあ」
「……いや、不敬罪とか」
「兄さんが不敬なのなんて今更じゃん」
「そうなんだけど」
「ちょっとは否定しろよ」
 うう、と呻き、オレは車の振動に若干酔い気味の頭を抱えた。薬はまされてはいたがまだまだ酒が残ってでもいるかのような身にはいまいち効きが悪い。
 アルフォンスははあ、とまた溜息のような声を吐いて、窓の外へと顔を向けた。しん、とふいに無言になった車内にオレは半年前の別れをぐるぐると思い出す。
 旅の間はそう思い出さずにいられたというのに、司令部にどうしても顔を出さなくてはならなくなってから繰り返し思い出している記憶だ。出来ることなら顔など出さずに郵送で済ませたかったが、ぐずぐずしている間に期限が迫ってしまった。何って査定だ。
(顔合わせたくねー……)
 何が原因かなどもう忘れてしまった。頭に血が上ってあいつの家を飛び出したそのときにはもう忘れていたようにも思う。
 そのくらい些細な、いつもの喧嘩だったというのになんであれだけの大喧嘩になってしまったのかは謎だ。オレは抱えた頭の下で呻いた。

 
 投げ付けたグラスはいつもなら憎たらしくなるほど易々と受け止められるはずだった。
 
 だというのにタイミングを見誤ったのか、否、いつもなら怒り狂うオレの動向は唸りを上げる犬の動きでも見張るようにじっと視界の端に捕らえているはずの用心深いあいつが、珍しく、本当に珍しくほんの僅かに視線を背けたその瞬間にすっぽりとはまってしまったのか、はっと上げた黒い眼が瞬間遅れてグラスを捉えた時にはもうぶつかる寸前だった。オレでもあの距離では避けられない。
 大佐はそれを掴むのではなく両腕で顔を庇った。受け止めるのは間に合わないと踏んだのだろう、その判断はさすがだ。分厚く重いグラスだった。額にでも当たって割れれば結構な怪我だ。
 しかし受けた肘で割れたグラスは粉々に飛び散って、悲鳴も呻きも洩らさず被った破片を黒髪から払おうと頭を下げたその顔が上げられる前に、オレは部屋を飛び出しホテルに逃げ帰り朝にはそのまま列車に飛び乗りそれから一度も連絡を入れていない。
 怪我をしたかもしれない、と思う。割れたことで衝撃は殺せたのかもしれなかったが、肘を切ってでもいればしばらく不自由だったろう。
「………あー」
「あ」
「……真似すんな」
「じゃなくて、大佐」
「は!?」
 がば、と顔を上げたオレに構わずすみません止めてください、と運転手に声を掛けたアルフォンスは、制止する間もなく窓を開けた。
「マスタング大佐!」
 オレは思わず逆側のドアから逃走しようとした。しかしオレの行動など筒抜けの良くできた弟の鉄の手がしっかりとコートを掴んでいてその目論見は崩れた。
「やあ、アルフォンス君。と、鋼の」
 のこのことやって来た男はいつものうさんくさい声で呼んだ。オレは座席にへばりついたまま呻く。二人はお構いなしにドアを挟んで話をしている。
「査定かね? 今年はついに間に合わんのかと思ったが」
「あはは、兄さんがぐずぐずしてたから遅くなっちゃいました」
「まあ、ギリギリ提出はいつものことだがね」
「大佐は司令部に行くところですか? 一緒に乗って行きませんか」
「有難う。だが私は今日はもう上がりなんだ。これからデートでね」
「は!?」
 思わずぐり、と顔を向けるとお、と僅かに驚いた顔をして見せた大佐は続けてにやにやと嗤った。心底むかつく顔をしている。いつもの軍コートは羽織ってはいるが、その下は既に私服だ。