本文サンプル>>> 今夜彼女が死んだなら
 
「こんちはー」
「こんにちはー」
 声を揃えて挨拶をし、開け放たれていた扉の上を鉄の手、下を鋼の手でごんごん、とやかましく叩いて覗き込むと、なんだかいつもと空気が違った。兄弟は顔を見合わせ、なんとなく薄灰色に思える司令室の天井を見上げる。蛍光灯は切れていない。
「よ。大将、アルフォンス」
 ぽんぽんと背中を叩かれて振り向き、兄弟は知らず知らずに声を潜めた。
「こんにちは、ハボック少尉」
「なんかあったの? 忙しかったか?」
 出直そうか、とちょい、と司令室の中を親指で指し示したエドワードに、咥え煙草の少尉はいや、と軽く片眉を上げた。
「いつも通りだな。ちょっと前にテロがあったんだが大方事後処理も片付いたし、今日は大佐も定時で帰る予定でいるだろ。まだちょっと警戒態勢解けないからな、俺んとこの隊は今日明日くらいまでは臨時の深夜見回りに入るが」
 だから大佐に用事なら今のうちに、と半ば強引に司令室に押し込まれ、兄弟は顔を見合わせた。東方司令部の中枢には、なんだかいつもの、和気藹々としながらもどこかにぴんと一本張っているはずの緊張感が、ない。
 だからと言ってだらけているのかと言えばそんなこともなくて、司令室の軍人たちは今まで兄弟が見た中で最も真面目に勤勉に、私語もなく黙々と仕事をこなしている。
「………ホークアイ中尉は? お出掛けかお休みですか?」
 黙々と仕事をしている軍人たちの中、司令室の一番奥の一番広い机で俯いて顔も上げずからかいの言葉もなく大変珍しいことに脇に書類を積み上げていることもなく、やはり黙々と仕事をしている様子の黒髪に目を留めて、なんだ珍しいじゃん雨でも降んじゃねえの、と毒突こうとしたエドワードは周囲を見回したアルフォンスの、どこか怖ず怖ずとした声に浮かべ掛けていた笑みを収めた。軍人たちが、一瞬手を止める。
「……あー、うん、ちょっと今休んでて」
 ハボックを見上げて薄く眼を細めて促すと、水色の眼の少尉は明後日の方向に向けた視線を困ったように泳がせてちらりと黒髪の上司を見遣った。エドワードはその視線を追う。
「先日のテロリストとの戦闘の際に撃たれて」
 ぱた、と万年筆を置いた音が、やけにはっきりと響いた。
 ロイは薄く積んであった処理済みらしい書類をまとめてとん、と揃え、それを片手に立ち上がった。
「今入院しているんだ。弾の摘出は済んだが少々出血が多かったのと微妙な部位だったのとで、もうしばらく現場復帰は無理だな。ハボック」
 つ、と上げられた眼が酷く鋭い。
 その眼の色に僅かに顎を引いたエドワードの横を、イエスサー、と答えて慌ててハボックが通り抜けた。ばさ、と差し出された書類を受け取る。
「後は止めている書類はないだろうな」
「多分」
「頼りないな。ホークアイ中尉の代理だろうが、お前。もっとしっかりしろ」
「そんなこと言われても、中尉みたいにはいかないっすよ」
 まあそれもそうか、とこき、と首を鳴らし、ロイは銀時計を見た。
「では私は今日はこれで上がる。家にいるから、なにかあったら連絡を」
「はい。お疲れ様でした」
「鋼の」
 銘を呼ばれ、エドワードは顎を引いたままひとつ瞬いた。間抜けな沈黙に、返答を待っていたロイがちらりと眉を顰める。
「……なにか用事があって寄ったんじゃないのか。用件を言え。なにもないなら帰るぞ」
「あ、」
 ちら、とアルフォンスを見上げると、弟は困ったように小さく首を傾げた。
「いや、何か情報がないかと思って寄ったんだけどさ……」
「そうか。では資料室の……ああ、だが今日はもう駄目だ、事務が帰ってしまうから。明日では駄目か?」
「今日のうちに顔だけ出しておこうと思っただけだし、いいけど」
「そうか。では明日、ハボックかブレダに許可をもらえ。私は明日明後日は休みだ。なにもなければ家にいるから、」
「あの!」
 平坦な声で指示をするロイを、アルフォンスが少々声を張り上げて止めた。エドワードは上司と揃って弟を見上げる。
「あの、中尉のお見舞いに行きたいんですけど、病院は? 軍立病院ですか? 面会時間って……」
「悪いな、アルフォンス君。まだ面会謝絶だ」
 こつこつと軍靴を鳴らして歩み寄り、鎧の面を見上げてその空洞の腕をぽんと叩きロイはようやくほんの僅か、うっすらと気遣うように微笑んだ。
「もうしばらくは見舞いに行っても会えないんじゃないかと思う。もし君たちがいる間に見舞えるようになったら知らせるから、そのときには顔を出してやってくれるか」
「……あの、そんなに悪いんですか?」
「いや、術後の経過は良好だよ」
 ぽんぽん、ともう一度らしくないほど酷く優しくその鉄の腕を叩いて、ロイは振り向いた。エドワードはその表情の見えない顎の付け根の辺りをじっと見上げる。
「では、後は頼んだぞ」
「了解しました。なんかあったら電話入れますんで」
「頼む。───ではな、鋼の」
 とん、と軽く肩が小突かれて、そのまますいと兄弟の合間を擦り抜け出て行ってしまったロイの足音を背中に聞き、それからはっとしてエドワードは振り向いた。