本文サンプル>>> レシプロカル・バランス
 
 つ、と瞳を眇めると、男はふと表情を改めた。後ろへと流した髪がざわめくように錯覚する。主が今の頭を少し伸ばしたならこうなるかと、そういう頭だ。結わえてもいない襟足の髪は長く、肩口から零れて揺れる。
 まるで信玄の兜蓑のようだ、と頭の片隅で佐助は思った。それから見知らぬ相手がこの城で我が物顔をしていることに反射的な警戒はしても、心底危機感の湧かぬ己を不思議に思う。
「………お主、若いな。まだ二十歳を幾つか越えた程度か」
「訊いてどうすんの」
「しかし、佐助であろう。違いないな?」
 確信的な口調で述べて、男はぐるりと辺りを見回し、顎を撫でた。踵を返す。
「来い」
「誰だ、って訊いてるんだよ! 旦那はどうした!?」
「おれがその『旦那』だ。騒ぐな。人が来よう」
 そうしたら面倒なことになりそうだ、とちらと肩越しに佐助を見た目が、意味深に光る。
 佐助は惑ったまま、ゆっくりと男の後へと続いた。そうしながら何故従ってしまうのかと不可解な己に眉を顰める。
 見知らぬ男だ。侵入者であるはずだ。だというのに、その立ち振る舞いはあまりに自然で、まるで此処が男の城であるとでも言わんばかりだ。
 どっか、と部屋の真ん中に慣れた様子で座り込んだ男を警戒しながら、佐助は後ろ手に唐紙を閉めた。
「此方へ来て、座れ」
「随分と図々しいな。あんたの部屋じゃねえだろう」
「おれの部屋だ」
 眉を顰めたままの佐助にふん、と鼻を鳴らし、男は太い腕を組んだ。部屋を見回す。
「………なるほど。そういえば若い時分は、此の様な部屋に設えていたか。お前がおれのところへ来たわけではなく、おれがお前のところへ来たようだな」
「何言ってんだ?」
「佐助」
 気易く呼び、男は焦れる様子もなくとん、と己の腿を叩いて見せた。
「お前、此の辺りに傷跡があろう。己で縫ったとかいう、不格好なものだ」
 佐助は僅かに眉を寄せ、黙って男を見つめた。返答のないことに頓着もせずに、男はふっと笑う。
「間抜けな理由で受けた傷だからと、誰にも言うなと口止めしただろう。おれは今この時まで口にしたことはなかったから、お前が自ら告げたのでなければ、他の誰も知らぬはずだ。此の世で、おれとお前の二人きりの秘密であろう」
「………なんで」
「そういうことだ。理由も言うか? 森の合間を跳んで渡ったときに、うっかり足を滑らせて、」
「い、言わなくていいよ!!」
「他にもいくらでもあるぞ。お前のその姿……おれはまだ二十歳にもならぬな? であれば、たしかこのあたりに」
 男はおもむろに身を伸ばし、小引き出しの一番上を抜いた。出した引き出しはそのままに中へと手を突っ込み、ごそごそと上板を触っている。佐助は目を瞠ったままそれを見守った。
「おお、あったな」
 取り出した平べったい包みをぽん、と叩き、男はにんまりと悪戯めいた笑みを見せた。
「この中にはな、お館様から頂いた文が入っておる。正式なものではないが、この城を幸村へ任せると皆に通達する前の、内々の命だ。お前がそっと運んできたのだ。おれは有り難がって、何年経ってもこうして枕元に隠しておる」
 どうだ、違うか、と胡座の膝に肘を掛け、僅かに身を乗り出して佐助を窺う目は若き主のそれではない。狼狽える佐助を面白がるような、強いて言うなら信玄に近い、悪意のないからかいの目だ。
「だ……旦那、なのか……?」
「そうだ、と言っておるだろう。お前の知る真田幸村よりも、少々年を食うてはおるが」
 男は丁寧に包みを戻し、引き出しを嵌めて懐手に腕を組んだ。
 見慣れない着物を纏うが、如何にも部屋着といった様子だ。忍び込むにしても、このような姿で忍び込む者はいまい。しかしだからこそ、なにがしかの術ではないかとも考えられる。
 そもそも本当だとしたなら、何故このような状況になったのか、それが判らない。佐助が知る限り、忍術や妖術にもこのようなものはない。風魔術式と呼ばれる風魔一族の操る悪魔的な術にも、時を操るものがあるとは聞いたことがなかった。
 ならばなんだ、矢張り此れは侵入者か、と目まぐるしく考えていると、男が意外な程に静かに口を開いた。
「まだ疑っておるな」
 仕方のない奴だ、とどこか愛しげにも思える目にはっきりとした苦笑を浮かべ、幸村と名乗った男は手招いた。佐助はそろそろと近付き、ゆっくりと片膝を落とす。
 男は佐助を刺激せぬようにか、緩慢に掌を差し出した。
「………何?」
「存分に見よ、佐助。お前ならば幾万幾億と槍を振るってきた此の手が、忍びの術などで作れるものではないと判るだろう。こんな手を持っているのは、日の本中を探せどおれ一人。二槍を扱う、紅蓮の鬼のみよ」
 佐助は眉を顰めたまま差し出された手と妙に自信満々の男の顔を見比べ、そっと掌を取った。触れる指に触る皮は硬く厚く、幸村の比ではない。大きな掌も節榑立った太い指も、完全に仕上がった武人のものだ。
 しかし、と佐助は唇を引いたまま真摯にその手を見つめた。男の言う通り、この肉刺の付き方、節の育ち方は、二槍を握る佐助の良く知る手に似ていた。あの手が育てばこうなるかと、そう思わせる手だ。
 何より、その、温度が。
「………納得いかぬ、という顔だな」
 額のすぐ上で囁かれた低い声に、さわ、とうなじのが粟立った。