本文サンプル>>> 閼伽を一滴
 
「佐助。彼れに閨を教えてはやれぬか」
「は?」
 ぱちくり、と再び瞬いて、佐助は頬を掻いた。
「ええと、くのいち宛がえって事? そりゃ、房中術を習得してる奴もいなかねえけど、でも忍びよりかは花街でも連れてってやった方が、まともに教えてくれると思うんだけど」
「そうではない」
「はあ。じゃあ何、閨の作法を教えてくれそうなお局様でも探して来いとでも? そう言う事するとさ、彼のお人の事だから、情が移っちゃって困る事になりそうなんだけど」
「そうではない、佐助」
 ぽか、と口を開けて真顔の信玄を見詰め、それからじわじわと湧いた嫌な予感に佐助は顔を顰めて首を竦めた。
「……ええ、と」
「誰より信用の置ける者であるなら、お前の部下を見繕っても構わぬが……」
「そりゃ勿論、見繕えってならそうしますけど」
「お主よりも、信用の置ける者であるのなら、だ」
 うう、と呻き、佐助は幾分か逃げ腰に腰を引いた。
「そんなの、俺様が知る訳ないっしょ、俺より、とかさあ。そっちから指名してくんないと……」
 信玄は瞬きもせず、じっと佐助を見詰めている。佐助はうろうろと視線を彷徨わせた。残念な事に、助けてくれそうな気配は何処にもない。人払いは完璧だ。
「まさかとは思うんですけど、それ、俺様に言ってる……?」
 信玄は重く頷いた。佐助は悲鳴の様に喚く。
「勘弁して下さいよ! そんなの仕事を越えてるよ!」
「ならば、仕事でなくとも良い」
「良かねえよ! やるならきっちり特別手当ては頂くよ! 何が悲しくて俺様の清い尻をただで捧げなきゃなんないの!」
 ほう、と信玄はにやりと笑う。
「お主、未通か」
「大将、言い方やらしいよ。そりゃそうだろ、小さくて見目麗しい餓鬼なら兎も角、俺様はいい年した戦忍なんだぜ。女相手にするならまだしも、よっぽどの物好きでもなきゃ、男が落ちるかっての」
 ぶうぶうと文句を言って、佐助は姿勢を正した。
「兎に角、お断りします」
「どうしてもか」
「当ったり前だろ!」
 信玄は指で輪を作って見せた。
「弾むぞ」
「い……いや、金の問題じゃなくってですね、さっきも言ったでしょうが……」
「情が移ろうが構わぬ。大体にして、お主を抱こうが抱くまいが、疾うに彼れはお主を寵愛しておろう」
「何で一々含みのある言葉使うの? 閨を共にする様な相手に向ける気持ちとは、また全然別でしょうが」
「何故判る」
「判りますよ、そりゃ……真田の旦那に、そんな色眼鏡で見られた事なんかねえよ」
「まあ、そうであろうな」
 判ってんなら言うなよ、と唇を尖らせた佐助に頓着もせず、信玄は忘れられていた杯を取った。残った酒で唇を湿らせる。
「……お主、後々には真田隊を離れるつもりか」
「へ?」
 佐助はきょとんと首を傾げた。
「そんな予定はないですけど」
「ならば、生涯幸村へ仕えると決めておるな?」
「べ、別にそんなにはっきり誓ってるなんてこたないですけど、まあ、今のところ主替えをしようとは思ってませんよ」
「ならば、問題はあるまい。室を持ち、その上でお主を愛でれば良いだけだ」
「だから、何度も言わせないでよ。本当頼むよ大将……」
 額を抱えて何度目かも判らない溜息を吐き、佐助は顔を顰めたまま暫し思案した。信玄は時折酷く無茶な要求もするが、何の考えもなしに佐助に命を下す様な事はない。些細なれども、その裏には必ず思慮がある。
「……なあ、大将。なんで、お姫様が初めての相手じゃ駄目なの?」
 無言に顔を上げれば、信玄は酷く難しい顔をしたまま腕を組んでいた。佐助は怪訝に眉を顰めたまま続ける。
「あちらさんだってさ、旦那の事は知らない訳じゃ、ねえんだろ? 彼れだけ初なお方と知ってて、その上で幸村殿が乗り気なら、て言ってたんだろう。なら、初めてだろうがぎこちなかろうが、それはそれで微笑ましいなんて笑って済ませてもらえるかも知れないぜ。大体、相手のお姫様だって出戻りなわけじゃねえんだ、経験なんかねえだろ。知識だけ叩き込んどけば、後は勝手にまぐわうって。若いんだしさあ……」
「………それは、出来ぬ」
 重々しく目を伏せた信玄に小さく嘆息して、佐助は表情を改めた。
「何か訳があるんですね」
「取り越し苦労やも知れぬがな……。初夜に妻を縊り殺しでもしたら、最早取り返しが付かぬ」
「何言ってんの、あんた」
 語尾が跳ねた。声と共に僅かに浮いた腰をそのままに身を乗り出し、佐助は信玄を凝視した。
「真田の旦那が気狂いだなんて、そんな事を思ってる訳じゃあねえよな、大将。彼れだけあんたを慕ってる旦那だぜ! あんたにそんな事を思われてるなんて知ったら、あっと言う間に腹切るぜ」
「……そうではない」
 信玄は静かに瞼を開き、力強い目で佐助を見た。
「彼れは少々箍が飛んではおるが、心根の正しい男よ。気狂い等とは、縁のない者であろう」
「だったら、」
「前言の撤回はせぬぞ、佐助。取り越し苦労やも知れぬと申したであろう。……だが、些か不安が残る。その様な状態で、彼れに女子を宛がう事等、出来ぬ」
「……その、不安ってのは?」
「申せぬ。確証はない」
「俺なら、縊り殺されても良いっての?」
「お主であれば、引っ叩いてでも諌めるであろう。訝しい所があらば、しつこく問い質して、諭せ」
「……房中での訓練は、女相手にしか積んだ事はないですよ」
「技を示せと申しておるのではない。幸村の信頼を勝ち得、長く共にいた、何者にも代え難いそれを、買うておるのじゃ」
 深く眉間に皺を寄せ、その皺をなぞる様に額を掻いて、佐助ははあ、と声を出して溜息を吐いた。信玄が腕を解く。
「佐助」
 解いた腕が胡座の膝に掛かるのを見、佐助は片手を上げて目を伏せ掛けた信玄を留めた。
「お館様ともあろうお方が、忍び風情に止して下さい」
「佐助」
 佐助は端座したまま床へと両手を突き、板間に額を擦り付ける様にして頭を下げた。
「承知致しました。つきましては十日ばかり、里へと下がるお許しを頂きたく」
「未通であった方が都合は良さそうだが……作法ならば、誰かに指導させよう」
「嫌だよそんな恥ずかしい真似! 良いでしょ、戦もねえんだし、十日ぽっち! 大体好きでする訳じゃあねえんだ、他の奴相手に尻を開拓なんて真似、しねえよ! 忍びの作法の方が俺には判り易いの! あと薬剤貰ってくるだけ!」
 がばと顔を上げて捲し立てた佐助を判った判ったと手を振って宥め、信玄はゆるりと笑った。
「ならば頼んだぞ、佐助。直ぐに発つのか」
「幾ら俺様でも、あんたとの閨の準備をしたいから里に帰って来ますなんて素面じゃ言えねえよ。旦那には、大将から言っといて下さいよ。直ぐ戻るって」
「うむ。……佐助」
「はい」
「すまぬな」
 佐助は僅かに目を瞠り、それからくしゃくしゃと笑って頬を掻いた。
「お館様にそんな風に言われちゃ、しょうがねえや」
 まあ任せて頂戴よ、と笑えば信玄はうむ、と頷き、漸く僅かに頬を緩ませて杯を差し出した。
「まあ、呑め」
「へへ、んじゃ、遠慮無く」
 両手で受け取り注がれた酒を押し戴いて、佐助は目を細めて上等な酒を、承諾と共に飲み干した。
 此処に何れ、納めねばならぬ秘密も加わるものかと考えながら。