本文サンプル>>> 花梨の木色 |
藍の深い夜だった。 猫の目の様な、爪痕の様なと洒落た者なら言いそうな弓張り月の幽し光は、夜道を行くには心許ないが忍びの目には充分に明るく、敢えて影を選んで走らずとも見付かる恐れも少ない良い夜だ。 佐助はそよと吹く風の合間を切る様に木々を飛び抜け、田舎道を黒々とした寺の影を目指してよろよろと駆ける女の背を目敏く捉えた。駆け込み寺と呼ばれる寺に逃げ込まれたとして、忍びの仕事だ、何の障害にもならないが、しかし寺の中で始末しては、直ぐに主に咎が向く。仏門を敵に回せば民意は離れ、それで直ぐにどうなるという事も無いが、しかし面倒は無いに限る。 はあ、はあ、と激しく切れる息を忍びの耳が拾い、その腕の中、恐怖の余りか、それとも幼い乍らに弁えているのかしっかと目を瞠ったままじっと口を噤んでいる幼子の、光る白目までが見えた。 高い梢の枝を蹴り、くると身を返して舞い降りる様に侍女と若君の前へ降り立つと、音の無い影に踏鞴を踏んだ侍女は、ひ、と喉を鳴らした。掻き抱かれた幼子が、じっと佐助を見詰める。 残念、追い付いちゃった、と胸の裡で呟いて、覆面の奥で僅かに笑えば、険のない視線を感じたか、若君はすと凛々しく僅かに目を細めた。 「高貴な御方だ」 呟き、手の内の得物を一振りする。じゃ、と一拍遅れて弛んだ鎖が鳴り、手元へ引き戻す刃が血の筋を描いた。 慣れた重みが掌に戻り、軽く振って血糊を飛ばす。がくんと膝を折った侍女が、今更大手裏剣の軌跡を追う様に一、二歩前方へと蹌踉めき、そのまま地へと伏した。広がる温かな血をみるみる衣に吸って行く幼子の首は、最早其処に無い。 傍らに転がる小さな首級には目もくれず、佐助はふと空を見上げた。軽く爪先で地面を蹴り、後方へ飛ぶと同時に、空いた其処へと薄刃が降る。 「間に合わなかったか!」 ばらばらと目にばかり煩く、耳には微かな衣擦れだけを届けて追って来た数人の影の内、一際強く血の臭いをさせる首領と思しき男が吐き捨てる様に言った。佐助は唇を歪ませて嗤う。 「その首に寄らなきゃあ、間に合ったんじゃないの?」 首領の手に握られる首級を顎で示し、忍びが手柄に逸る等、と口元だけで笑えば、見えぬその笑みを感じたか追っ手はふん、と鼻を鳴らした。 「どの道、主は堕ちた。何処ぞの傀儡となるしかない幼君に、用は無い」 「あーらら、酷えこって。お武家様ってえのは可哀想なもんだね」 ほざけ、と笑みも無く言葉だけで嘲け、男は首級を掲げて見せた。 「貴様の主も此の通り、堕ちた。貴様に仕える家はもう無い」 「ま、そうね」 「……その髪、貴様、猿飛の」 佐助は肩を竦め、戯けた様に軽く首を傾げて見せた。 「最近そう呼ばれてるみたいね。もうちょっと格好いい呼び方ってないもんかねえ」 「は、赤毛の猿が何を言う。似合いだ」 「酷えの。別に赤毛だからって猿って言われてんじゃねえよ」 「獣の様な身のこなしと、聞いているぞ。いずれ甲賀一の忍びとなろうと評判だ」 そりゃあ有難いねえ、と嗤い、佐助は軽く顎を引く。話の流れは大方読めた。 「なあ、猿飛の。此の通り、互いに主を無くした身、新たに仕える先が必要となろう。我等にはその当てがある。お前のその腕、生半な家にくれてやるには惜しい」 どうだ、共に来ぬか、との予想に違わずの甘言に、佐助は短く声を上げて笑った。 「いやあ、俺様を雇いたいなら里を通して貰わないとね。まっ、生半な家に俺様の給料払えるとは、思わねえけど」 当てがある、など馬鹿馬鹿しい。最初から他家から送り込まれた間者であったのだろう影に、一昨日おいでと鼻で嗤えば無言で刃が振るわれた。 瞬間、空へと舞って降り様に首級を持つ腕ごと胴を薙げば、闇夜に黒々とした血を噴いてどうと男の躯は倒れた。緩んだ指から取り零された首級を攫い、身代わりを残さない独特の空蝉に面食らった隙を突かれた形の残党を、返す刃で引き寄せ踵の仕込みで喉を、顔を掻く。 悲鳴を上げた者に向けて追撃を食らわせて、全て平らげふう、と軽く息を吐き、佐助は主の首を懐から取り出した布で巻き、恭しく抱え直した。 「さあて。仇も討ったし、退散しますか」 再び追い付いてくるだろう別働隊から主の首を守る為、佐助はと、と地を蹴り闇夜へと身を投じた。 一、 途中で民家の軒から失敬した洗濯物の着物は、生乾きなのか汗なのか着心地悪く湿っていた。しかし血塗れの忍び装束よりは遙かにましだ。喉の渇きも眩暈もあるが、未だもう少し、逃げる事は出来そうだ。 主の首は途中で合流した仲間に渡した。今頃安全な場所へと運ばれているだろう。だが念の為、もう暫く敵を引き付けておきたい所だ。体力が持てば、の話ではあるが。 本当なら、主とはいえ最早無い命だ、首などどうなろうとも構わない。しかしそうと言い切るには、佐助は主に恩が有り過ぎた。 物になるかも判らない子忍びの頃から忍隊に雇い入れ、育ててくれた主だった。世の流れに乗り大名と名乗るも難しい、そんな小さな領地の領主ではあったが、忍びの使い方の上手い主だった。 だからこそその耳聡さ目敏さを恐れた周囲に降伏を迫られ攻められて、こうして命も一族も全て、無くしてしまったのだろうが。 里だろうが寺だろうが、敵の手に渡り陵辱の限りを受けるのでなければ、何処へ運ばれたのでも構わない。ただ、敵の手に渡り、まともに弔われる事も無く晒される様な事にでもなれば、卑しい忍びの腹など切った所で詫びにもならぬ。 どうせ死ぬにも出来るだけの恩を返してから、と苦しげに細く鳴る己の息を宥め、佐助は壁に手を付いた。毒を受け、血を流し乍ら一晩中駆け回り、流石にがくがくと震える足に耐え兼ねて地に膝を落とす。周囲は随分と前に夜明けを過ぎて、四つ刻と言うところだろうか。まともな者なら疾うに朝餉も済み、家の仕事も一段落を終える頃だ。 此処は何処かな、何処かの街道か、町外れか、と人里のにおいを嗅ぎ乍ら、佐助は壁に背を預けてずる、と座り込んだ。民家の裏手だろうか、綺麗に草を刈られた土地に、割り損ねた薪が苔生している。ひょろろろ、と鳶の少しばかり間の抜けた声が空に響いた。 ざり、とふいに聞こえた足音に、佐助はぴくりと顔を上げた。途端、何故今まで気付かなかったのだと不思議になるほど濃密な気配が、表からざくざくと地を踏みやってくる。 迷いの無い足音に一瞬重心を移し掛け、それから此れ程の気配の持ち主が忍びの筈は無いなと肩の力を抜く。 ぐったりと壁に寄り掛かったままで居れば、ひょこりと建物の向こうから顔を覗かせた足音の主は、未だあどけない黒い目をぱちくりと瞬かせた。年は十四、五といったところだろうか。一房伸ばし掛け、といった襟足の髪を束ね、背に流している。 少年は行儀悪く咥えて居た団子の串を抜き、未だ一つ刺さったままの其れを手の付いていないもう一本が乗る皿へと置いて、大股でざくざくと佐助の元へとやって来た。 「お主、怪我をしておるではないか。どうした、何か揉め事でもあったのか」 「……いやあ、」 整った顔立ちは平民には見えない。袴を付けた服装からしても武家の者の様だ。 何処ぞの若侍か、此処は何領だ、と考えながらも顔ではへらりと笑って、佐助は裂けた肩を押さえた。 「ちっと喧嘩をね。お騒がせする程のもんでもありませんぜ、旦那」 伝法な口調で言えば、若侍は眉を顰めた。 「しかし、喧嘩と言うには過ぎた怪我。刀傷ではないのか」 「いや何、本当に大したことじゃあねえんで。旦那は何処ぞのご立派なお武家の方でしょう。無頼の喧嘩なんぞに拘われば、お裾が汚れますぜ。お慈悲を恵んで下さるってえなら、どうぞ見なかった事にしてやって下せえ」 「しかし、お主……、」 言い乍ら、くん、と鼻をひくつかせた若侍は、丸い目を瞬かせて意外そうな顔で佐助を見詰める。視線が、頭の天辺から爪先までを撫で、再び頭へと戻った。髪の色を気にしているかの様な仕種だ。 「お主、忍びの者か」 目立つ髪色に今更気付いたのか、と苦笑し掛けた佐助は、その一言にぎょっとして僅かに身を逸らした。若侍は団子の皿を手放さぬまま、身を屈めて顔を近付ける。 「血の臭いが」 「へ?」 「忍びの血ではないか?」 「……何をおっしゃる。手前はしがねえ無頼でさ。そんな偉ぇ手業でもありゃあ、こんな成りで旦那にご迷惑掛けるなんて事も、」 「何処の手の者だ」 聞く耳持たぬのか、そもそもそういう質なのか、若侍は返答如何では斬る、とばかりに団子がみっつ付いた串で佐助を示した。その串で何をするつもりだ、と思いはしたが、此の若侍にも此の領地にも害意など抱いていない。そもそも主亡くした今、佐助が討つべき相手は己の命を脅かす直接的な敵だけだ。 何とかとりなそうと口を開き掛け、ぴり、と刺す様に気配を感じて佐助はっと林の方へと視線を投げた。思わず小さく舌打ちが出る。思う以上に疲労している。 「何だ?」 佐助の様子に気付いたのか、顔を上げた若侍を手を上げて制し、佐助は立ち上がろうとぐっと足に力を込めた。途端、脳天まで突き抜けた痛みに堪える間もなく膝が萎え、再び地へと膝を突く。 「お主……」 「逃げて下せえ、旦那。そして手前の事なんざ、忘れちまって下せえよ。どうせ二度とお目に掛かる事ぁねえんで」 近付く気配を睨みながら言うが、若侍は動く気配を見せない。 「旦那」 早く逃げろと促そうと見上げれば、若侍は無造作な動きで立て掛けてあった心張り棒を手に取った。 「旦那? 何を」 「お主が何処の者かは判らぬが、此の上田で争いは起こさせぬ」 上田と言えば武田の重鎮、真田昌幸が治めていた領地か、思ったよりも東に流れたな、と頭の中に反射的に地図を広げるうちにも、若侍は心張り棒を構えた。 確か真田は昨年昌幸を亡くし、嫡男が跡を継いだ筈だ。若い家臣が此の上田、と我が物の様な口をきくのも、さほど不思議はない。恐らく、若い当主と共に取り立てられた、新参の家臣だろう。 差し出された皿を思わず受け取ると、若侍は空いた片手も柄に添えた。 「単槍よりは二槍が得意なのだが、仕方があるまい」 「え」 「不埒な無法者相手には、充分であろう」 馬鹿な、と佐助は目を剥いた。不埒な無法者、とその言葉に間違いは無いが、唯の札付きとは訳が違う。一晩中、疾駆の異名を併せ持つ佐助を追い回し追い詰めた、それだけの手練れだ。未だ幼い程に若い侍一人に、どうにか出来るものではない。 「駄目だ旦那、逃げろ! 無理だ!!」 「無理とは、言ってくれる」 ふと唇の端を吊り上げる様にして自信の笑みを見せた若侍は、空を斬る音だけをさせて降って沸いた幾つかの影に、綺羅綺羅と目を輝かせた。 「此処を真田が治める土地と知っての振る舞いか!! 何処の手の者かは知らぬが、此の地での無用な争いは禁ずる!」 「ちょ、そんなの聞く連中じゃねえって……!」 「大人しく退けば良し、さもなくば此の幸村が槍の怖ろしさ、其の身を以て知る事になろうぞ!!」 此方の言葉などまるで聞く気の無い若侍の口上に、佐助はぽかんと目を丸くした。 「幸村って、まさか武田の一本槍───」 「お主、何を聞いていた! 某は二槍遣いだ!!」 「いや、そう言う事じゃなくって……っと、旦那!」 危ない、と言う間も無く降った幾つかの手裏剣を、幸村は難なく心張り棒で払い退けた。次には返す腕が伸びたかと錯覚するほど深く間合いへ踏み込んで、其の間に合わせの武器の先が、的確に忍びのこめかみを叩く。 一晩中駆け回ったは彼方も同じ、疲れ果てて鈍くなっているとは言え、曲がりなりにも忍びの間合いに易々と踏み込んだその腕は、口上に嘘は無いと思わせるに充分だ。 蹌踉けた忍びは倒れ込むのを堪え、さっと幸村の間合いの外へと退いた。残りの二人も遠巻きに距離を取り、腰の後ろの暗器に手を添えたまま、じりじりと摺り足で動きつつ、様子を窺っている。 その様子に、ほう、と幸村は感心した様に呟いた。 「なかなかやるな」 「いやそりゃ、あんたでしょうよ……」 「某は真田忍びの主。戦忍でもない生半な忍びになど、負けぬ!」 「いやそれ、忍びに失礼っていうか」 戦忍ばかりが忍びじゃないでしょ、と呟いて、佐助は手の上の皿から団子がまだ一つ刺さったままの串を取った。 「団子、頂きやすぜ」 「む?」 幸村の意識が向く前に木上の敵へと素早く投げ付けると、がさ、ばきと派手な音を立てて今まさに手裏剣を放ろうとしていた忍びが落ちた。柔らかな喉元に、団子の錘の付いた串が綺麗に刺さっているのを見て取って、幸村は感嘆の声を上げる。 「見事!!」 「そりゃ、どうも」 馬鹿に明るい声を聞く内に不思議と気分が高揚し、肩の力が抜けた。懐へと手を遣る。暗器を取り出す間は幸村の槍に見立てた心張り棒が易々と稼ぎ、其の躯の影から苦無を投げれば、過たず黒装束の胸へと吸い込まれた。 「逃げた方が良くない? 此の若君、武田の虎若子よ。近頃の評判は知ってるでしょ。あんた等の敵う相手じゃ、無いって」 真田忍びも集まって来ちゃってるし、と気配を読んで続ければ、じっと熱の無い目で佐助を睨んだ残党は、素早く倒れた仲間を担ぎ跳んだ。 「待て!!」 「や、逃がしてやってよ」 そのまま林へと向かう黒装束達に鋭く声を掛けた幸村を、佐助はひら、と手を振って止める。ふいに力が抜けて尻を付き、そのままどた、と壁へ寄り掛かると幸村が慌てて膝を突いた。 「大丈夫か」 「……俺も彼奴等も、真田とも武田とも無関係だからね。領地に他家の争い持ち込んだのは謝るけどさ、見逃してくんないかなあ」 「某の一存ではどうにもならぬ。兄に伺いを立てる事にはなろうが、構わぬか」 「構わぬかって、そんなの俺に訊いてどうすんの」 変な旦那だねえ、と笑えば、思うよりも力無い笑みになったのか、幸村は微妙に気遣いげな顔をした。 「兎に角、手当てをせねばなるまい」 「いやいや、ほっといて頂戴よ。ま、ほっとけないってんなら、さっさと縄でも掛けて連れてかせれば良いじゃない。あんたの忍びが、集まって来たみたいだし」 「お主、随分と遠くから気配を読んだな。某にも判らぬうちからだ。余程腕の立つ忍びと見たが」 「人の話聞かないのはあんたの癖なの? それとも草如きの言葉は耳を素通りってか」 「仕える家は、何処だ」 本当に聞こえていないのでは無いかと心配になるほど綺麗に無視をして、幸村は瞬きの少ない目でじっと佐助を見詰めた。揺るがぬ視線は強く、心なしか熱を感じる。 そう言えば武田の虎とその弟子は炎を使うのだったかと思い出し、佐助は居心地悪く肩を竦め、無言で返した。幸村は大して落胆した風もなく、頷く。 「言えぬか」 「……主は没したよ。それに、あんたの領地とは、まるで関わりの無い家だったからさ、勘弁してよ」 「其れを決めるは某では無いが、ならば言わずとも良い。そなたの名は何と言うのだ」 佐助はくつくつと喉を鳴らす。 「忍びに名を訊ねるなんて、妙なお方だな」 「忍びとて、呼ばれる名はあろう。それとも、それも言えぬのか」 否、と目を細め、佐助は唇を笑み緩ませたまま、小さく首を傾げた。 「人呼んで、猿飛佐助。……甲賀者ですよ、虎の子の旦那」 「ほう、甲賀か。真田にも、甲賀縁の者は多いぞ」 「だろうねえ。里のお得意様だもんな」 俺は縁が無かったけど、こんなとこで縁が生まれるなんてね、と言えば、幸村は何が腑に落ちたのか、ふと息を吐く様に不敵に笑った。 「おれはお前を殺さぬぞ」 え、と首を傾げれば、とぼけるなと幸村は再び笑った。先程の大人びた笑みが嘘の様に、朗らかとしか表し様のない明け透けな笑みだ。 「忍びが饒舌になるなど、他に何の理由があるのだ」 「やあ……参ったね。俺様ってば、元々口数が多くってさあ」 「其れと身の有る言葉とは、訳が違う」 参ったね、と佐助はもう一度呟いて眉尻を下げた。決して捨て鉢になった訳ではないが、最早戻る場所など無い現実と切実な疲労に、少しばかり思考が荒んだ気はしないでもない。それを綺麗に言い当てられた。 「幸村様」 「おお、おてい殿。すまぬ、騒がせた」 「いえ、幸村様がおいでですし、却って安心なくらい。お済みになりましたか?」 うむ、と頷いて幸村は立ち上がる。ひょこと顔を覗かせた襷を掛けた娘に、此処は茶屋の裏手だったか、そう言えば団子、と佐助は今更に思った。 「もう一つ謝らねばならぬ事があるのだ、おてい殿」 「はい?」 「心張り棒を駄目にしてしまった」 頭を掻きながら差し出された傷だらけの心張り棒に、まあ、と目を丸くして、ていと呼ばれた娘は笑った。 「お気になさらずとも。それより、其方の方の、お手当をしなくてはいけませんね。お迎えがいらっしゃるまで、中へどうぞ」 「ああ、済まぬ、おてい殿。此れは忍び故、店へ招く訳にはいかぬ。水と晒しを貰えぬだろうか。血止めだけでもしてやりたい」 「あー、お気遣いなく」 気の抜けた声を割って入れて、向いた二つの素直な目にへら、と笑い、佐助はひらひらと手を振った。 「大した事もねえんで」 「大した事が無い様には思いません。少々お待ち下さいね」 くると踵を返し、ぱたぱたと駆けて行く後ろ姿を見送って、佐助は傷の付いた心張り棒を妙に難しい顔で検分している幸村を見上げた。 「可愛い娘だね」 「む、その様に軽薄な事をほいほい言うものではない」 「はは、お堅いねえ。旦那の良い人?」 「な、」 ぐり、と首を捻って佐助を見た顔が、ぽかんと口を開けたまま、見る見る内に真っ赤に染まった。おやおや、何て初なんだ、と目を瞬かせて見ていれば、幸村はぶんぶんと大きく首を振り、驚く様な大声で「違う!」と叫ぶ。 「し、し、失礼な事を申すな!! おてい殿は、近く輿入れなさるお方なのだぞ!」 「はあ、輿入れ。お嫁に行くんだ、そりゃあ残念だねえ」 「な、何がだ!? 目出度い事ではないか!」 「いやだって、あんな可愛い子。旦那だって満更でもなさそ、」 「馬鹿者ッ!!」 耳が破れるかと思う程の声で怒鳴られ、ありゃこりゃ本気か、と佐助は肩を竦めて顔に飛び散った唾を拭った。 「申し訳ねえ、軽口ですよ。本気にしないで下さいよ」 「あ、当たり前だ!!」 随分な大声にきんとする耳を押さえ乍ら、佐助はすみません、とぺこりと首を折るようにして頭を下げた。幸村は眉を下げ、序でに肩を落とす。 「お主、躾がなっておらぬのか」 「はあ?」 「その様な妙なお辞儀をする者があるか。それでは却って無礼だぞ」 「や、まあ、お仕事ならきちんとしますけど」 「本当か」 「はあ。俺は戦忍ですけど、潜伏もこなしますんで……一通り礼儀作法の方は。主持ちでしたし」 だがそれがどうした、と首を傾げれば、幸村はそうか、ううむ、と腕を組んで暫し呻り、それから良し、と頷いてふいに明るい顔で佐助を見た。 「お主、真田へ仕えぬか」 「はあ?」 「無論兄上の了承を得てからになろうが、某も忍隊を預かって未だ間もない。真田忍びは皆某を立ててはくれるが、至らぬ部分も多かろう。彼れらに報いる為にも、某の目となり耳となる者が、一人欲しいと思っていたところだ」 「え、いやいや、そんな、何言ってんの? 第一こんな出所も知れない赤頭、真田の殿様がお許しになる筈ねえって」 「そう思うか」 ふふん、と鼻でも鳴らしそうな顔で言った幸村に、佐助ははあ、と溜息を吐いた。 「まあ、良いですけどね、どうでも。俺が口出し出来る事じゃあ、ねえや」 「幸村では、主として不満か」 「不満も何も、良く知らねえし。それに生かしてくれるってんなら、其のご恩くらいは返しますよ」 「恩を着せたい訳ではない」 じゃあどうしろって言うの、と首を傾げれば、幸村は兎も角、と勝手に納得をして頷いた。 「其の怪我が治る迄は動けまい。養生し乍ら、ゆっくりと考えるが良い」 つまり得体の知れない忍びを連れて帰ると言うのか、豪毅なのか人が好いのかはたまた何も考えていないだけか、と額を押さえながら、まあ治療をしてくれると言うなら有難い事だし、追っ手からの目隠しにもなるだろう、と佐助その手の奥で考えた。 此れで、昨日没した主が真田、引いては武田と密かに縁を結んでいた等と噂でも立てば、暫くは残った者等への手出しも控え目にはなるだろう。その間に身を立て直し、新たな主を探すなり里へ戻るなりの算段も出来る。 「……ま、お申し出は有難いと思いますよ」 「そうか! では、決まりだ。お主は今より、此の幸村の客人。不穏な輩に手出しはさせぬ故、躯を治す事に専念しろ」 はいはい、と頷いて、佐助は真田忍びと共に戻って来たていに渡された濡れ手拭いで、割れたまま乾いていた額を抑えた。 |