本文サンプル>>> 境界祭祀 |
木綿鹿毛の息も荒い。 目を血走らせ、剥いた歯の合間から泡を吹く首を叩いてやれば、愛馬はぶるると鼻を鳴らして少しばかり足を速めた。労りを嬉しく思ったか、健気にも今にも折れそうな蹌踉めいた足で、一歩、もう一歩と駆ける様に幸村は唇を噛み、しかしもう少しだ、と心中呟いて、手綱をきつく握る。腕の中のか細い命の気配が、幸村に木綿鹿毛の足を止める事をさせない。 ぱし、と肩を枝が叩く。森へ飛び込んだ時には既に茜に彩られていた空はもうすっかりと濃紺の帳を下ろし、ちらと見上げれば木々の合間から雲の多い空が覗く。 すっかりと凝り固まった背に息を吐き、幸村は手綱を引いて、愛馬の足を止めた。途端がくと足を折ったその鞍から、怪我人を横抱きにしたまま飛び降りる。 「ご苦労であった」 ひうう、ひううと泣く様な音を立てて息をする木綿鹿毛の鼻面を撫で、幸村は辺りを見回した。上を見遣れば空が覗く事を考えても道らしきものを走らせたには違いなく、けれど此の先に続く道はない。 何処ぞで誤ったか、と眉を顰め兎に角火が要るか、その前に少し横にさせてやろう、と下ろせる場所を探し掛けたとき、つと頭が動き、橙の髪が顎を擽った。 「………水」 「気付いたか、佐助。少し待て。今飲ませてやる」 「水溜まり、とか、無い……の」 「そんな物は飲めぬ」 「飲み水なんか、勿体ない」 兎に角水だ、と言う忍びの常よりも更に軽い様にも思われる躯を、幸村は出来るだけ平らな地面へと下ろした。 「お前、血を流し過ぎではないか」 「まあ……ねえ」 「どこか肉でも、こそげ落ちた訳ではあるまいな」 「みず」 軽口を許さない口調に判った判った、と返して周囲を軽く探し、あまり遠くまで行かぬうちに戻る。 「無いな」 「そっか……」 じゃあ仕方ないねと言って、佐助はぎこちない動きで起き上がろうとした。咎めず背を支えて助ければ、掠れた声で礼を言い、懐に手を這わす。 かん、から、と鉄のぶつかる音を立てて掌大の鉄皿に舟型の鉄の塊を転がし、佐助は力の無い手で続いて竹筒を落とした。 「皿に、水、張って」 あと、飲んじゃって良いよ、とくたりと躯の力を抜いた佐助は、見れば目を閉じている。幸村は黙ったまま、言われた通りに皿に水を張り、一口煽って空になった水筒を置いて、それから細い顎を掴み唇を合わせた。僅かに眉を寄せた佐助は、それでも零せば惜しいと思ったか、口移しの温い水を若干苦労しながら飲み込んだ。水の飲み下しも苦しい程か、と幸村は難しく眉根を寄せる。流石に衰弱が激しい。 「……勿体、ない」 あんたが飲みなさいよ、と囁く声に馬鹿者、と低く返して、幸村は皿を見た。森の暗がりに、水面が時折ちらちらと光るものの、良く見えない。 「灯りが無ければ」 「ばか」 「馬鹿とは何だ」 「追っ手が」 幸村の胸に寄り掛かり腕に抱かれたまま、目印作ってどうすんの、と切れ切れの細い息で苦言を吐き、佐助は薄らと目を開けた様だった。 「何処」 「え?」 「耆著……ふねの」 嗚呼、と頷いて皿ごと掬い上げ、幼児を抱く様に忍びをしっかりと足の間に抱え直して前へと両腕を回し、目の前に掲げて見せれば佐助は目を凝らしているのか、暫しじっと何も言わずにいた。しかし暫くすると、苦渋を滲ませた声で低く唸る。 「旦那……此処、山の麓か、な……」 「ああ。森の向こうに山は見えたが……」 「頭が、欠けてる山……、だった?」 「良くは見ておらぬ。……だが、そうだな。山の上に、何時までも暮れの日輪が見えていたから、欠けていたのでは無いかとは思うが」 それがどうかしたか、と言えば、お舟がくるくる回ってる、と意味の判らない返答をして、佐助は再び目を閉じた。 「山も……見えないね」 「うむ。此処からではな」 「星も」 「少しは……見えているが」 「うん」 じゃあ、もう、お天道様が上るまで方角が判らない、と言って、佐助は寒がる仕種で肩を竦めた。 「俺……が、万全なら、北の方くらい、勘で判るのに」 山に沈む日をやや左手に見ながら、その麓の森へと飛び込んだ。戦場は森の南東、その更に東に本陣だ。確かに北が判れば、森を抜ける事も出来ただろう。 言わずとも道を見失った事は知れているのだな、と防具を無くした剥き出しの額に手を当て、項垂れる様にしていた頭を肩口に押し付けてやれば、諦めた様に佐助はぐったりと躯を預けた。湿った様な軽いそれから、血の臭いが漂う。止血と応急の処置は施してあるが、縫わねばならぬ傷も数知れず、鏃も鉛の弾もこじり取りった分、失血はした。 しかし出来る手当ては全て済ませた。佐助がもう少しばかり意識が動けば、そうでなくとも他の忍びがいれば傷を縫う事くらいは出来たかもしれないが、幸村には難しい。 早く医者に診せねば、間もなく此れの命は尽きる。 「………烏を呼んでも、駄目か」 「あんたじゃ、彼れを飛ばせらんない、でしょ」 俺が飛ばせば、帰巣はするけど、と妙に優しく囁き、佐助はちょいと皿を突いた。 「此れは、飲んじゃ駄目だよ。……皿を、使い回すから、薬毒の、調合とか」 「お前、己が飲むつもりだったな」 「ちょっとの毒なんか、俺なら、平気」 「万全ならな」 先程の佐助の言葉を繰り返し、幸村は棄てるぞと軽く伺いを立ててから皿の水を撒いた。座り込む周辺が濡れるを嫌って藪へ散らせば、ぱらぱらと葉が揺れる音がする。差し出された手に皿と舟の形の鉄を乗せ、懐に仕舞うのを手伝って、幸村は未だ息の整わない愛馬を見遣った。武田の馬だ、戦の後の極限の疲労にも血走った目は狂ってはおらず、息さえ整えば、また走れる。 だが、水は要る。 彼れは水溜まりでも良いが、水を飲まねば走れまい。 「………寒いか、佐助」 「いや、」 そうか、と頷き幸村はゆっくりと忍びを横たえた。装束を脱ぎ、身を丸める躯に掛ける。 「おれは、水場を探して来る。直ぐ戻る故、心配するな」 「朝……に、なるまで、待ちなよ、旦那」 幸村は頭を振った。 「お前が保つまい」 「………俺より、お馬さんかな……」 「馬は水があれば、また走る」 けれどその後には潰れるだろう、とは続けず口を噤んだ佐助に一つ頷いて、幸村は槍を掴み、立ち上がった。 「旦那、」 視線を落とせば、佐助は力無い腕で呼び子をゆると差し出した。 「何かあったら、吹いて」 音出ないけど、俺には聞こえる、と囁いて、判ったと受け取れば、佐助は満足げに一度目を細めて笑い、そのまま瞼を閉ざした。 |