本文サンプル>>> いなづまの野に篝火も絶え、 |
少し早めの夕立が効いたのか、午後も遅いというのに熊蝉が大声で鳴いている。半刻程前、俄に掻き曇り真っ黒になった空は、今は嘘の様に晴れ渡り、一時の涼しさは何処へやら、むわ、と不快な湿気を上らせる。 「そろそろ、かなかなも鳴き出しますかな」 暑い暑い、と着物の襟を幾分かだらしなく広げてはたはたと手で仰ぐ村上に、そうだな、と頷いて遠谷は幸村を見た。くい、と酒を呑む仕種をする。 「どうかな、幸村殿。涼みがてら、何処かで一献、お付き合い下さらぬか」 「あ、いや、」 そう言えば此の辺りに忍び茶屋があったな、と考えながら歩いていた幸村は、鼻の脇を流れた汗を拭い顔を向け、一つ瞬いた。 茶屋の前の腰掛けに、橙頭に手拭いを巻き付けた男が、座っている。 今の今まで、視界に入っていた場所だった。しかし気付けばずっと見えていたと思うのに、先程までは、其れが己の忍びである等、まるで頭に上らなかった。 「某は、明日には一度上田に……」 答えながら、ちらちらと気にすれば、忍びはゆる、と視線ばかりを幸村に流し、ゆったりとした動きで人差し指を唇に当てた。 その、影に紛れて何時になく華奢に映る、細長い指の、白さ。 「幸村殿?」 幸村ははっと目玉を遠谷へと向けた。 「あ、その、上田に戻らねばならぬ故、折角ですが今日の所は」 「そうか……。まあ、残念だが、仕方があるまい。次に甲斐に来られるのは」 「さあ……未だ、良くは。しかし上杉との睨み合いも落ち着かぬ故、そう間を空けずに戻るつもりでござる」 「戦も有るか無しか判らぬでは、思うまま動く訳にも行くまい。血を持て余しておられるのでは無いか?」 冗談めかして、しかし突進癖を心配してか、半分は本気の目で言う遠谷へ苦笑して、幸村は頭を振った。 「否、そんな事は。某は───真田は、お館様のご采配に従うのみ」 そうか、と頷く二人の目にも、佐助は映っている筈だった。 草とは言え、真田忍びの長となればその目立つ容姿も相まって、武田の主立った武将で知らぬ者はない。流石に武田屋敷に将と共に上がり込む事はないものの、戦場での軍議となれば、信玄に引っ張り出される事もある。 遠谷も村上も未だ年若い一武将とは言え、真田とは懇意にする家だ。そもそも、今日は彼の特徴的な顔の模様も描き込まず、橙の頭にも手拭いを被せているとは言え、つい先日も二人は佐助に会っている。 だと言うのに、二人ともまるで忍びの姿に頓着しないのだった。黙って、と立てられた人差し指を見て察した、と言う訳でも無さそうだ。 幸村は二人と言葉を交わしながら、ちら、と通り過ぎようとする茶屋の前を見た。腰掛けには筒袖姿の忍びの他に、浪人らしい二人連れが座っている。佐助は足を組み、目を伏せる様に俯いて、じっと動かずにいた。 「幸村殿?」 はっと向き直り、何でもありませぬと頭を振って、いやしかし暑うござるな、と幸村は白々しくはぐらかした。村上がにやにやと肘で突く。 「何です、美人でも見付けましたか」 「む、村上殿……貴殿はどうしてそう、直ぐに下世話な話に」 「下世話とは失敬な。美しい女人を美しいと言って何が悪いのです!」 「確かに幸村殿は少しお堅いが、村上殿はお軽いですな」 幸村とほとんど年の変わらない胸を張る村上に、年嵩の遠谷が笑う。村上は失礼な、と態と憤慨して見せて、それから今日は何処其処の店の肴が、と酒の話を始めた。 其れを横に聞きながら、そうか、気配が無かった、と幸村は思う。指を差して佐助だ、と言えば、恐らく遠谷も村上も気付いたのだ。 目の中に捕らえていながら尚、瞬きの合間に消えてしまいそうな希薄な気配と、薄く流された視線。 ゆるゆると上げられた指の動きが、たおやかな女の物に似て。 きい、と甲高く鳴いた声に、幸村はびくんと跳ねた。 「かなかなが鳴き出しましたな」 もう日も暮れる、と山影へと顔を向けた村上に、己で思う程びくついた訳では無さそうだ、とそっと胸を撫で下ろし、幸村はきききき、と忙しなく鳴く蝉の声を聞きながら、背後を顧みた。 茶屋の前にはもう客はおらず、店の娘が盆を片付ける為か手拭い片手に出て来ると、ちらと幸村を見て、軽く頭を下げた。 何処かで見たな、と考えて、嗚呼、武田の忍びだ、と思う。真田忍びを良く使う所為か、幸村は他の武将よりも、武田の忍びの顔も多く見知っている。 戻って、佐助はどうした、と聞きたくもあったが、それをすれば恐らく任務中だったろう彼れに、後でこっぴどく叱られるだろうな、と考えて前を向けば、またにやにやと笑った村上に、彼の娘が良いのか、と横腹を小突かれる羽目になった。 |