本文サンプル>>> みずち |
「小十郎さん……」 時宗丸の妙に泣きそうな声に、小十郎は故意に屋敷を───正確には縁側を見ぬ様に首を固定したまま、視線で未だ九つにもならない子供を見下ろした。 「見なかった事にしろ」 「は、はい」 くしゃり、と顔を歪めて頷く時宗丸に頷きその頭を乱暴に撫でると、じりじりと屋敷へと向けて居る躯の左側を焦がす様な陰気な視線が、更に強烈に嫉妬を込めた。小十郎は天を仰ぐ。溜息すら零れない。 「梵は」 小十郎の代わりの様に妙に大人びた仕種で溜息を吐いて、時宗丸が肩を落とした。 「小十郎さんが好きなんだよ。ちょっと、つか、大分、変わってるけど」 嫌いにならないであげてね、と半年程だけ年上の従兄弟を庇う時宗丸の見上げる目は、年相応に純真に、うるうるきらきらと光る。此の少年の従兄弟、つい最近小十郎の主となったばかりの子供の、唯一の友と言えるだろう。とは言え、共に野山を駆けずって遊ぶと言う事はない。 身分が、等と言う軟弱な理由ではなく、彼の主が部屋から一歩も出たがらないと、まあある意味更に軟弱な理由ではあるのだが。 「嫌いじゃあ、ねえよ」 だから気にすんな、と相変わらずじっとりと注がれている視線を無視してもう一度頭を撫でれば、見なかった事に出来なかったらしい時宗丸が、ちらり、と横目に縁側を窺い、直ぐにさっと俯いた。心なしか青醒めているのは、強ち気の所為でもないだろう。何にしても、此の陰気な視線の攻撃には、小十郎ですら気が重い。 ちら、と視線を向ければ、一枚だけ外された雨戸から覗いていた障子が、すぱ、と閉められた。しかしその一瞬で、炯々と輝く隻眼が此方を窺っていた事を、小十郎は見て取った。 はあ、と今度こそ溜息を吐けば、嫉視から逃れた時宗丸が、此方は安堵の息を吐く。 「梵もさあ、前はあんなんじゃなかったんだけどな」 「前か」 「うん。病気の前は。でも酷くなったのはさ、病気の所為って言うより、やっぱりさ、お東様がさ。あのババア、梵が片目だからって、伊達の跡継ぎには相応しくないとかって」 「時宗丸」 平坦に名を呼べば、何? と無邪気に見上げた子供は僅かに顔を強張らせた。鬼の様な顔をしている自覚は無く努めて無表情に保ってはいる筈だが、普段好意的に接してくれる十以上も年上の強面に、冷たく見下ろされて竦まない子供は無いだろう。 「な、何?」 それでも気丈に聞き返す時宗丸の表情は改められて、機嫌を窺う様な無様な笑み等は浮かべていなかった。それを好ましく思い、小十郎はほんの少しだけ眦を緩ませる。 「俺の前で、二度と義姫様の悪口を言うんじゃあねえ。そもそも手前、それを彼の方の口から聞いたわけじゃあねえだろう。人の噂だ、違うか」 「ち、違わねえけど、でも、」 告げ口をする様な発言を躊躇ったのか僅かに口籠もり、けれど従兄弟を哀れと思う気持ちが勝ったか、時宗丸はきっと小十郎を見詰めた。 「喜多が言ってたんだぜ!」 小十郎はちらりと眉を顰める。 主の乳母を務める小十郎の姉が、主の母を憎む程に嫌っている事は、小十郎も承知だ。そして、根も葉もない噂を立てて相手を貶める様な事をする卑怯な質で無いことも。 「………姉の言う事は、鵜呑みにするな」 「なんでだよ! 喜多は嘘なんか吐かねえ」 「だが、梵天丸様可愛さに、目が眩んでんだよ。姉貴も女だ。餓鬼と男の事となれば、女ってのは、目が見えなくなっちまう」 「けど、」 「あのな、時宗丸よ」 小十郎は身を屈め、片膝を突いて子供の顔を覗いた。小十郎がそうして子供扱いをする事は滅多になかったから、時宗丸は驚いた様に少し瞬いて、それから真剣に口を引き結んだ。内密の話を予感したのだろう。 小十郎は低く告げた。 「彼の方は、竜だ」 「…………、は?」 御伽噺を聞くとは思わなかった、とばかりに時宗丸は目を丸くした。小十郎は構わず努めて真摯に、続ける。 「人の、その上女の肉を纏う故天高く飛べず燻るが、それでも奥羽の鬼姫は、誇り高い竜だ。ならば、蛟竜を疎ましいと思うのは、当たり前の事だ」 「みずち……」 不思議そうに繰り返した子供に頷いて、小十郎は目を細めた。 「人の親となれば、子を棄て嫌うは非道と罵られても仕方がねえ。だが、竜に人の理は無意味だ。姉貴には、それが判らねえんだ」 「小十郎さんには判るってのかよ」 「さあて」 どうだろうな、と曖昧に言って立ち上がり、踵を返すと何処行くんだよ、と幼い声が追い掛けた。小十郎は肩越しに未だ困惑から抜けない時宗丸を見る。 「畑だ。梵天丸様の夕飯に、何か穫ってこねえとな」 「訊きたかったんだけどさ、」 子供は首を傾げた。 「小十郎さんって、すっげえ悪かったって聞いてるぜ。なのに土弄りなんて、一体何時からやってんだ? 農民でもないのに、大体、城壁の中に畑なんてさ……」 「此処んちに来てからだな」 「殿にでもやれって言われたのか?」 「否、」 小十郎はにやり、と赤ん坊に泣かれなかった試しの無い笑みで、口元を歪ませた。 「畑は、義姫様から頂いた。畑一枚ものに出来ぬなら、芸妓の一人も落とせまい。ならば粗末なもんを付けておっても無駄であろうから、ぶった斬ってやろうとの有難いお言葉付きでな」 「はあ!?」 素っ頓狂な声を上げた時宗丸にくつくつと喉を鳴らして、小十郎は手を上げた。 「じゃあな、時宗丸。そろそろ手習いの時間だろう。精々、梵天丸様の機嫌を取っておいてくれ」 うわあ、と世を儚むような声がして、一拍後に子供はぱたぱたと屋敷へ向かい駆けて行った。 その足音を背後で聞きながら、小十郎はやれやれ、と溜息を吐いた。 |