本文サンプル>>> 苛性の罪過
 
 りいりいと虫の鳴く音がする。ちらと空を見れば随分と遠くなった薄桃色に、少女の頬に浮かぶ雀斑のような仄白い星が浮いている。
 佐助は木の根本に凭れたまま、脇腹から掬い上げられた三本の傷を力無い手で押さえ、じくじくと熱く濡れていく様にごくり、と苦い唾を飲んだ。
 出来うる限りの血止めはしたが、このままではさほど待たずに意識が落ち、そのまま死ぬかもしれない。
 戦場は遠くその中心を本陣間際へ移したようで、剣戟の音は聞こえない。時折、爆発音や陣太鼓が、わんわんと木霊を引き摺って響くだけだ。
 未だ撤退の法螺貝はないが、夕暮れも近い。直に皆、陣へと取って帰るだろう。
 それとも決着が付くまでは武田の盛る火を頼りに戦い続けるだろうか、と考えて、佐助は関節が固まったかのように動かぬ曲げた膝を、無理に伸ばした。ずず、と草履の底が滑り、どし、と落ちた腿から響く衝撃が脳天まで突き抜けて、思わず歯を食い締めて呻く。
 その、地に付けた腿の裏から、だ、だ、と誰が力強く走る響きを感じ、佐助は薄らと目を開けた。泥と血と汗に汚れた顔では、血を失って蒼白な膚は判らぬ筈だ。
「佐助!」
「よう、旦那ぁ」
 苦しい息をぐ、と呑み、佐助はへらりと笑って片手を上げた。目頭を汚れた汗が流れ、痛い程に滲みる。
「独眼竜には会えた? 未だなら、さっさと探した方が良いぜ。日も暮れるし、今日を逃せば次はいつ決着付けられるかも、判んないだろ」
 若輩であった頃ならいざ知らず、あと三年もすれば三十路にもなる今の幸村は、名実共に武田を負って立つ将の一人であり、家老に名を連ねる者でもある。そうそう自由に因縁の好敵手に闘いを挑める立場にはない。
 ならば此の伊達との一戦は、願ってもない好機だろう。実際、信玄の前では好敵手の名など一言も口にしなかった幸村だが、未だ日の昇りきらぬ出立の朝、馬を撫でながら低く愉しみだ、と笑った声を、佐助は確かに聞いた。
 佐助以外の者へ聞かせるつもりはなかったのだろう幸村だが、それが本心である事は誰しもが知っている。
「なあ、旦那」
「今日は構わぬ」
 無言で膝を突き、傷の様子を改める幸村に身動いで宥める声を掛けると、幸村はちらとも表情を変えずにそう言った。それからと顔を上げ、じっと佐助の目を覗く。
 佐助は三本爪の傷跡を抱く手に力を込めた。どろ、と血が零れ出る。
「独眼竜にやられたか」
「………あんたに、待ってるって伝えろ、って」
 
 武田は今、最も天下に近い場所にいる。
 
 追うは徳川、次に豊臣だが、三年程前に織田を倒した伊達軍はその際に負った痛手から未だ回復しきれず、織田領も結局、半分ばかりを漁夫の利を狙った豊臣に奪われた。幾人もの勇猛な武将を失った伊達は、今も未だ、天下の取り合いには今一歩踏み込めぬ場所で歯噛みしている。
 伊達の犠牲の上に急激に激しさを増した天下取りの戦は、足を引く徳川と豊臣の力さえ削ぐ事が出来れば武田が手中に収めることになるだろう。
 その、天下取りの舞台へとなかなか上がっては来れぬ伊達と戦う機会は、此の先あるかどうかも判らぬ。
 決して膝を屈することのない一派であるからにはいつか何処かの軍に滅ぼされる運命にはあるのだろうが、しかし有能な軍師がいる伊達でもある。もしかすれば、何処かと手を組み生き残る道を探るかも知れぬ。
 
 けれどそれは、武田ではあるまい。
 
 故に此れが最後の機会とはなるまいが、しかし直ぐに再戦ともならぬだろう。
 今日の戦は痛み分けとして伊達は引くのだろうが、武田と違って負った傷を補う兵力を持たぬ。となれば、暫しの間、伊達は他国へ打って出ることは出来ない。
 ただ、此の戦で武田の上洛も絶好の時期を逃した事になる。精鋭を率いて喧嘩を吹っ掛けた伊達は、軍としての力は落ちても個々の戦力は高く、流石戦は巧い。一見破天荒でいて、大軍を相手に程よく戦い抜いた。
 やられたな、と本陣で苦笑した信玄は、佐助へと終わる前に一つ暴れて来いと出陣を命じた。
 それから間もなくに互いに互いを探していたはずの主と好敵手よりも先に巡り会ってしまったのはなんとも巡り合わせの悪い事ではあったが、しかし今追えば、前線へと向かった青竜を見付けることは出来るかも知れぬ。だが此処で佐助にかまけていては、主は絶好の機会を逃すだろう。
「旦那、俺様は平気だからさ、行けって」
 幸村は再び顔を上げた。その表情に逡巡はない。
「だが、置いて行けばお前は死ぬぞ」
 さすけはへら、と笑った。
「大丈夫だって、死なねえよ。俺様を誰だと思ってんの? 天下の猿飛佐助だぜ。こんな引っ掻き傷で、死ぬわけないでしょ」
 幸村の言う事は正しい。
 こんな戦場から外れた場所で屍に埋もれて蹲っていては、誰も見付けてはくれまい。喩え見付けてくれたとしても、助けとなるかは甚だ怪しい。
 幸村が年を取ったということは、佐助もまた年を取ったということだ。随分と前に肉体の最盛期を過ぎ、年と共に技は冴えても、体力は落ちている。かつてのような、幾日も不眠不休で跳ぶような真似は、流石に出来ぬ。
 故に近頃は戦場では本陣で信玄の守りに付き忍隊へと指示を出している事が多く、兵の目にその戦い振りが止まらぬ為、足軽の中には佐助を知らぬ者もいる。
 そういう者にとっては、今此処で倒れている佐助はただの忍びだ。佐助は武田になくてはならぬ忍びだが、たかが忍びと歯牙にも掛けられぬ事も有り得る。
「ま、旦那が独眼竜を倒してさ、本陣に戻ったら誰か助けに寄越して頂戴よ。流石に一人じゃ動けねえからさ」
 今、置いて行かれては、次に誰かが迎えに来た頃には疾うに死んでいるだろう。
 しかし佐助は笑みを崩さず軽い口調で続けた。饒舌な舌は今の所、止まらずよく回ってくれている。
「ね、旦那」
 猫撫で声に、しかし聞こえぬとばかりに無視をして、幸村は繰り返した。
「置いて行けば、お前は死ぬ」
「だからさ、早く行かなきゃ、独眼竜が帰っちゃうよって」
「今追った所で、追い付けはすまい。伊達軍は直ぐに、撤退するはずだ」
「いや、未だ間に合うかも……」
「間に合わぬ」
 何故かきっぱりと言って、幸村は佐助の傷付いていない左の肩を掴んだ。ぐ、と間近に寄せられた黒々とした目が、真っ直ぐに覗く。
 佐助は狼狽え、僅かに視線を揺らした。言い訳のように、唇を意図しない言葉が滑り出る。
「………忍びが定めは、判ってるんだろう、旦那」
 竜の爪は三本が脇腹を切り裂き、残りの三本は肩を裂いた。今は辛うじて動いている右腕だが、手先に神経の動きがないのが判る。
 大きな爪痕はその六本であったが、駄目押しと縫い止められた膝もまた、二度と跳べぬよう砕かれた。
 伝言役にと命は獲らずに去った竜は、しかし武田の目となり耳となる佐助をそのまま放って行くような、甘い真似はしなかった。
 
 忍びの佐助は死んだ。
 
 最早、跳べぬ。戦忍としては薹が立ってしまった佐助ではあったが、忍び働きそのものも、満足には出来ぬだろう。なればもう、用なしだ。
 此処で生き恥を晒した所で、武田に何の得もない。
 佐助は困り顔で眉を下げた。言わずとも、忍びが定めなど幸村は知っているのだと、それは判っていた。
 案の定、幸村は頷いた。
「そうだな」
「あんたが俺様を背負って行ったら、その分遅れちゃうよ。独眼竜に追い付けないならせめて、俺様の代わりにお館様を守ってくれよ」
「佐助」
 幸村は再び佐助を呼んだ。
「此処で死ぬのが忍びの定めであると言うなら捨て置くが、本陣には諸将が揃い、無論お館様もご健在だ。おれが僅かに遅れた所で、後は敵陣の撤退を待つばかりの今、何があろう」
「油断なんてな、禁物だぜ。なんせ、あの竜が相手なんだから、」
「伊達は、もう退く。どの様な仕掛けがあったとして、実行はすまい」
「………なんで、」
「だが、お前が死ぬのは確実だ」
 不審に眉を寄せた佐助に答えず、幸村は続けた。
「助かる術があると言うのに、こんな所で倒れる事が、お前の本懐か」
 佐助は視線を落とし、唇に苦く笑みを乗せた。
「忍びに本懐なんて、ないよ」
「ならば、犬死にこそが忍びの定めか」
「忍びに、犬死にも何もない」
「ならば死ぬか」
 微塵も変わらぬ声色で、覗く目の色が恐ろしい。
「何の意味もなく、ただ死ぬか。その気にならば生き延びて、他に死に場所もあろうものを、今此処でおれを、武田を放ってお前は死ぬか」
「…………」
 佐助は眉尻を下げ、上目に主を睨め付けた。