本文サンプル>>> 苛性の罪過
 
 轟々と火が啼いている。舞う火の粉が髪を焦がし、熱気に息もままならない。
 屋敷の何処かでまた梁の落ちた音がした。早く逃げねばと思うのに躯は動かず、節榑た指が、ただ虚しく床を掻くだけだ。
 その、老人と言うには早く、しかし若くはない手の甲を見ながら、佐助はひゅうう、と喉を鳴らした。圧迫された胸から、錆の臭いが昇る。
 誰か、と首だけ捻って顔を上げる。歪む視界の向こう、ゆらと現れた影が、気付けば間近に迫っていた。何かを叫び辺りを見回す仕種をする影に、何を思うでもなく手を伸ばす。
 喉が鳴った。呼んだつもりで音のない声を、影は耳聡く拾ったようだった。
 大きな、若い頃からの戦と欠かさぬ鍛錬に今尚力強い手が、力無く震える指を掴む。ふいに身が軽くなり、掴み直された手にぐいと引かれて躯が浮いた。
 背に走る激痛に息を詰め、庇うように抱き締めた逞しい肩口から霞む目で見詰めた火を吹く梁が、ふいに崩れた。
 大きな火を纏い降る梁とその合間の火の粉の舞う夜空が、見開いた目に映る。
 星の、河だ。
 
 
 ───駄目だ、
 
 
「喰ろうぞ」
 佐助ははっと瞬いた。今の今まで視界を灼いていた赤と濃紺は鳴りを潜め、深い黒の瞳に剣呑な色を光らせた眼が、間近で覗いている。
 ぞ、と首筋の産毛を逆立てて、答えも聞かず唇へと食らい付いた鬼の牙に、佐助は息を呑んだ。
 熱い。
 病院独特の臭いがする。白い天井に、わ、とふいに広がった影が大きく揺らめいた。
 
 火だ。
 
 一瞬垣間見た白昼夢と同じ、息も侭ならぬ熱気に包まれる。
 放っておいても今宵には息絶えるはずだった病身がみるみるうちに死に逝くのを感じながら、佐助は必死で逞しい鬼の肩へと縋り付いた。患者衣の袖が落ちる。覗いた痩せた腕の先から、あっという間に発火する。
 胸の上へと乗った身体に重さはない。しかし肩の後ろを抱く手の強さが、骨に滲みる熱で解る。口内へ滑り込んだ肉厚の舌もまた、熱い。口の中から焼けてしまいそうで、息をするたび肺が熱気に爛れていくようだ。
 睫が焦げた。一瞬で蒸発するように煤になる。瞼が焼け落ちたと思ったのに、思った時にはもう眼は見えなかった。
「………佐助」
 低く抑えた囁く声が、聴覚を犯す。
 己の表皮を火が舐めていくのを感じながら、佐助はもう出ぬ声で鬼の名を呼び、熱に凝固し見えぬ目で触れる手の先を探った。虎の若子、と呼ばれていたあの頃のような、力強く若い大きな手が、すっかりと火に包まれた頭を抱え、抱き締める。
「ゆくぞ」
 囁き、ふいに鬼は身を起こした。ぐんと身体が浮く。途端トンネルを抜けたように、ふわと視界が戻った。一瞬感じた白い光は、すぐに夜の影へと失せる。
 佐助は鬼の肩へとしがみついていた腕へと咄嗟に力を込め、はっと振り向いた。生きた肉が燃える臭いがする。
 何百年も昔、戦場を駆けていたあの獣のような躯に染み付いていた、死の臭いだ。
 ごう、と音を立てて燃える肉の火に何故かスプリンクラーも動かず、ただ隣室の患者がナースコールでもしたものか、ばたばたと廊下を駆けて来る気配がした。激しく燃え上がる肉は、あっという間に炭へと変わる。
 シーツは燃え、幾分か壁も焦がしたようだが、激しい火の勢いにも拘わらず不思議とそれ以上燃え広がることもない様子にほっと安堵すると、耳許でふと鬼が笑った。
「旦那」
 掠れた声は、もはや音として空気を震わす事はしない。鬼は瞳の中心へ熾火のような赤を光らせた目を細め、それから佐助を抱えたまま背中から身を投げるようにふっと窓を擦り抜けた。迫る地面にぞっと身を凍らせた佐助を余所に、ぐると反転するとそのまま夜空へと駆け上がる。
 佐助は眼を細めた。空を飛んでいる訳ではないようだが、空を駆けているようではある。風を切る、久し振りの感覚だ。
「覚えているか、佐助」
「………え?」
「お前に抱えられて、こうして空を飛んだことがある」
 今は逆だが、と鬼は──幸村は、ちらと主が最も力強く槍を振っていた頃と同じ貌に笑みを乗せた。
 年を経て死んだその最期の顔ではなく、最も生に満ちていた頃の、けれどそれよりもずっと整った、まるで能面にも思えるそれに生気はない。
 ただ、酷く禍々しい熱がある。血の気のない皮膚の下、皮一枚を隔てて燃え盛る火が、血の代わりに血管の中を巡っているかのようだ。
 
 黒々と盛る炎、が。
 
 ぞ、と悪寒が背筋を駆け抜けた、と思った途端、佐助は主の着物にしがみついていた指先に、火が点るのを見た。
 ぽかんと見詰めるうちに、見る見る肘へと上った炎に慌てて幸村の襟を放すと、闘病の間に大分伸びていた橙の襟足に、めらめらと火が移る。
「うわ、」
「どうした」
 慌てて髪を叩こうにも両手が火に包まれている。足の爪先に痛みを感じて見下ろせば、そこからまたぼうと火が吹き出して、あっと言う間に膝までを覆う。
「いっ、」
「佐助」
「なんだ……これ、」
 何も感じぬ死人の身の筈が、熱くて痛くて息が苦しい。
 苦痛に身を捩る佐助を抱く腕に力を込め、幸村が一際高く跳んだ。涙に歪んだ眼に高層ビルの影が映る。あの上へとひとまず行こうというのか。
「旦那、あ……!」
 間に合わない、と燃える両腕を伸ばした拍子にしっかと肩と腰とを抱き留めていた幸村の腕の合間から、すると燃える身体が落下した。幸村の腕が弛んだわけではない。本当なら、落ちる筈がない。
「佐助!!」
 風を切る鬼が、ぐると身を返し蛇のように髪を靡かせたのが見えた。差し出された大きな手が伸びたかのように錯覚する。しかし天へと突き出した燃える両腕は空を切るばかりだ。幸村が疾さを増した分だけ、落下のスピードが上がる。
 嫌だ、と声にならない声が叫んだ。肉体などないのに熱に蛋白質が凝固して、眼が曇ったかと思えば再びぶつんと視界が途絶えた。
「いや、だ……!」
 何処までも落ちていきながら灼けた喉から声を限りに叫ぶ。この感覚は知っている。
 
 此の先は地獄だ。
 
 漸く会えたのに、また何処とも知れぬ場所で朧気な記憶に脅かされて、何かに追い立てられるように主を探す、そんな地獄にまた堕ちる。
 嫌だ、ともう響かぬ声で叫びながら暗がりへと落下する痛みに苛まれた手は、結局鬼が掴み上げる前に、底知れぬ闇へと堕ちた。